2010年11月22日月曜日

CBCP司牧書簡「「創造の日」「創造のとき」を祝う」 2003年9月1日

CELEBRATING CREATION DAY AND CREATION TIME

カトリック教会では9月1日が「創造の日」として、またアシジの聖フランチェスコの祝日である10月4日(あるいは直後の日曜日)が「創造のとき」として祝われているとのこと。キリスト教には、神がこの世界を創造し、特に人間は「神の似型」に創造されたという根本思想があるが、これを改めて想起する、というのがこの教書の内容である。

カトリック司教協議会は1988年に「我らの美しい大地に起こっていること」と題して環境問題についての声明を出している(本文の1998年は誤り)。

WHAT IS HAPPENING TO OUR BEAUTIFUL LAND - A Pastoral Letter on Ecology

ここでも改めて、昨今の災害、特に洪水とその背後にある森林伐採に触れるなど、生態的な危機状況を挙げる。また鉱山開発のもたらす汚染や遺伝子組み換えの潜在的危険性などにも議論が及ぶ。

これを踏まえ、教会は「回心」(conversion)を訴える。このために教区、小教区、教会基礎共同体、キリスト教学校、修道会など教会関連の諸団体の、環境教育、環境保全活動、持続可能な開発計画などが始められていることを挙げる。また、教会教派を超えたエコロジカルな提言がなされてきていることも指摘する。

また、これら祝祭に際しては、教会の典礼で世界の美しさと苦悩、人間が自然と不可分であること、社会正義を求める闘いが継続中であることに触れるよう求め、また環境保全のための働きを教会の各レベルで促進するよう訴えている。また、政府に対して、短期的な経済的利益を優先して長期的な生態的破壊をもたらすことのないよう呼びかけている。

最後に世界創造の父、世界の救済者である子イエス・キリスト、命を支える聖霊の三位一体の神への信仰を深めるよう訴えた上で、「命の母なる聖母マリア」の加護と大地の癒しを求めて終わる。

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フィリピンのカトリック教会は、特に森林の過剰伐採に対して、また近隣住民の生活環境への配慮を欠いた鉱業に対して、厳しく対峙してきた。この文書にも、そうした教会としてのコミットメントが確認されている。文章の全体的な簡潔さに、かえって各部門で地道な取り組みがなされてきたことが伺われる。

マスコミの中では、森林の(特に)違法伐採監視による保全努力は、比較的好意的に取り扱われてきたと思う。他方、鉱山開発に対する厳しい対応(環境問題及び地元への利益還元のなさ)については、主要紙は特に中間層・富裕層を対象とすることもあってか、投書欄や意見広告を通じて、産業振興、雇用創出を根拠とした開発推進論、また教会関係者を素人としてその干渉を批判する議論が繰り返し出されてきている。個人的には、過去に読んだいくつかの資料に基づいて、雇用創出効果は、特に地元への間限度は非常に限定されていると共に、鉱山開発に伴う汚染は明らかで、かつ住民への十分な補償がなされたためしがないという理解をしている。だから、カトリック教会の側が基本的に正当であると理解している。

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(おまけ)

プロテスタントの私は、どうしても、せっかく最後に三位一体の神にふれたあとに、わざわざ聖母マリアに触れて終わる、という文章のスタイルが毎度ながら気になる。もちろん教理的に神が一番なのだが、心情的には(本音としては)本当は聖母マリアのほうが親しく近い存在、ということなのだろうか。

別に他者の信仰の是非をここで云々しようというのではなくて、何というのか、そのある種の二重構造のようなものを、改めて考える必要があるのかもしれない、と思ったということだ。この手の信心にかかわる二重性が、どうも何というか、プロとアマ、玄人と素人、聖職者と信徒、おとなたちの神学的議論と、子ども扱いの信徒向けの説教、のようなダブルスタンダードとも見えるような「霊性」の形成方式に現れているように思われてしまう。この点は、今後もう少しきちんと考察しなくては、と思っている。

CBCP司牧書簡「イエスの聖心において:我らの地を癒し、我らの生を刷新する」 2003年9月1日

In the Heart of Jesus: Healing Our Land, Renewing Our Lives

この文書については、要理的な要素が中心であるが、ここではそのことについては簡単に抑えつつ、特に教会・社会観関係との関わりを中心に見ていきたい。

章構成は次のとおり。

・序国難に際して、第一にイエスの聖心にささげる「9回の第一金曜日」とそのあとの聖マリア年のプロジェクトを含め霊的な刷新、悔悟と祈りを取り上げ、これに当たろうという決意を表明する。

・「イエスの聖心」をたたえる「9回の第一金曜日」(の祝い)
 イエスの聖心に対するフィリピン国内の熱意、関連行事の成果を挙げ、2003年9月7日から翌年7月2日まで第一金曜日にイエスの聖心のための典礼に積極的に参加しようと呼びかける。この機会にミサや聖体礼拝(holy hour)に参加し、聖体を受け、和解の秘跡(つまりいわゆる懺悔)を受けるよう勧めている。
 またミサや聖体礼拝の中で要理的な教育(catechesis)として、このための短い説教や黙想談話を行うことで、イエスの聖心への信心の意味をより深く理解するよう支援すべきとしている。
 この信心を教会のみならずあらゆるところで行うよう勧めた上で、以下のように主張する。「私たちの国をより真実に人間らしく、本当に正しく助け合いのある社会として、つまり正統な愛の文明を生きるフィリピン国民として立て上げようとする取り組みにおいて、イエスの聖心は聖霊からの光とエネルギーの尽きることのない源となりうる。」
 今回は、特に以下の2つを目標とする。

1)司祭たちの聖化
 司祭たちの過ちや犯罪(特に性犯罪)が多く報じられる中で、特に深刻な問題として挙げられている。

2)キリスト教徒の生活の刷新
 フィリピン社会全般、特に政府とあらゆる公的な生活領域における改革の必要を挙げる。生活のイエスの聖心への聖別により、国民の希求と努力が変化への願いとなり、断固たる勇敢な行動への動機付けとなることを願っている。

・プログラム:C(回心)-O(生活(人生)を捧げる)-R(償い)
 C-O-Rは、1985年のマリア2000年記念の際にCBCPが提起したモットーであると説明し、この枠組みで今回も実施することを確認している。

・イエスの聖心への聖別
  ・家庭の聖別
  ・国全体の聖別

・マリア年
 2004年はピウス9世教皇による「無原罪懐胎」の教義の制定150周年、及びフィリピンの最初の聖マリア年の祝祭の50周年であることが確認されている。

・結論
 積極的な準備と参加を呼びかけ、神の祝福を祈って終わる。

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 政治・社会の刷新に際し、ある種の精神主義が掲げられているとともに、教会が国全体を聖別して捧げてしまうというような国教会的ないしキリスト教世界(Christendom)的な発想に彩られている。
 この表現は、おそらく多くの人々に、さほど違和感なく聞き流されているだろうが、発想自体は、熱心なカトリック信心の持ち主だけが共有するものであろうと思う。

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 ちなみに、「イエスの聖心」(あるいはイエスのみこころ)信心については、たとえば
イエスの聖心の月
にある。ある修道女が見たイエスの心臓の幻(出現)に基づくという。この際、9ヶ月続けての第1金曜日の聖体拝領うんぬんということも幻で示された、ということだそうだ。プロテスタントの私にはわけが分からないが、カトリックでは、イエスをただ信じるだけでなく、心臓はまた心臓として、特別な仕方で信心する、ということになるのだろうか。

2010年11月17日水曜日

CBCP司牧書簡「憲法改正に関する司教協議会の宣言」2003年7月7日

CBCP STATEMENT ON CHARTER CHANGE


憲法改正の動きに対する慎重論である。すでにざっと読んだので、今回は逐一要約せず、論点をざっとまとめ、論評したい。

憲法改正の動きの背後にあるものとして、

建前上は、
・大統領制から議院内閣制へ
・中央集権制から連邦制へ
への移行が政治改革として緊急であり効果的である、という議論になっている、と整理する。

これに対し、いくつかの問題点を挙げる。
・憲法は国の成り立ちの中核であり、特に民主化政変を経て制定された現憲法の改正にはそもそも慎重を期する。現状の急がせようとする論調には同調できない。
・国会をそのまま憲法制定議会(Constituent Assembly)として改正に進もうとするのは拙速である。憲法改正の是非を2004年総選挙の際にまず国民に問い、これを踏まえて憲法制定会議(Constitutional Convention)を開くべきである(ここに明示はないが、これは国会議員とは別に改めて選挙で選ばれるべきものと一般に考えられている)。
・憲法における大統領や国会議員、地方の知事や議員には任期の制限が課されているが、憲法改正の際にこれを除去してしまいたい、という隠れた思惑があるのであれば言語道断である。総選挙が近い時期の拙速な対応では、こうした疑いが晴れない。

その上で、憲法の改正を検討する際に考えておくべき論点を列挙している。
・政治が貧しい庶民をケアする能力を高める効果があるか(累進課税が例として挙げられている)
・政治参加が促進されることで、名望政治エリート家系の終焉と利益誘導型政治の克服に至るか
・公務員の説明責任性(透明性)を高める具体的な方策があるか
・グローバル化の時代の中でフィリピンの資源の開発を外国籍の企業が保有出来るようにすることを認める場合は、それが雇用、企業活動の機会の拡大など、フィリピンの人々の益となるかどうか
・権力の分散(脱中央化)による市民社会グループの統治へのより積極的な参加につながるか
・貧しい人々を代表しつつ効果的な政策策定の出来る政党の形成につながるか
・投票行動が変化し、人々がこれまでのように人気ら利益誘導やらによらず、政策や実績に基づいて
投票するようになるか
・多数派の支持する明瞭な政策による指導者たちが選ばれるようになるか

とにかく、まず憲法改正の是非を問う田植えで、じっくり話し合いをすべきである、というころである。

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確かに一理ある、という面もある。政治過程に対する批判はおおよそ的確ではないかと思う。つまり、政治家たちの本音はおおよそこの文書にあるようなところにあるだろうし、司教たちが指摘するような論点がどこまでまじめに取り組まれてきたか、また取り組まれそうなのかは疑問でもある。

と同時に、二つ気になることがある。

ひとつは、「論ずべきこと」として列挙されていることが、憲法改正の目標としても、現状の改革に関する議論としても、現実的に言って高すぎるのではないか、ということである。高い目標を持つこと自体は、特に教会のような理想を語る組織にとっては、それほど問題ではないだろう。しかし、そうは言っても、この文書も憲法改正が俎上に上っている中では、政策論としての実際性がないと意義が薄れてしまう。フィリピンの政治過程、選挙、正当、経済格差などは、長年の間、繰り返し改革が叫ばれつつも、どうにも決定的な改善が見られなかった問題である。それらを解決することは至難の業であり、まして、憲法を改正することで自体が改善するならそんな簡単なことはあるまい。すでに現行の1987年憲法は高い理想にあふれた憲法である。そもそもほとんどの問題は法が制定されたところで、これをどう履行するかというレベルで起こってきた。

もうひとつは、一見逆のことのようであるが、改革に向けた緊迫感、緊急性の感覚の欠如である。「じっくりやる」というのは聞こえは良いが、要は急がなくてもよいのでは、ということでもある。上記の改革が憲法改正で成し遂げられるのかどうかを論じるかどうかと別に、これらの論点は、いずれも長年の難問であり、重要課題である。どうにかしないといけないのがどうにもならぬまま来てしまっている。憲法の改正が慎重を要するとしても、政治社会改革そのものは緊急の課題として一生懸命取り組んでもなかなか難しい。教会がこのことを否定しているわけではないのは分かっているつもりだが、これらの論点が何よりも憲法改正の正当性の吟味の根拠として出される、という語りの展開自体が示唆するものがあると思う。

もし本気なら、昨今の政治に何が緊要であるかを先に明示したであろうし、短い論評の中ではあれ、多少なりとも憲法改正以外に何をすべきかも併せて論じることが出来たはずである。高い目標を掲げながら、のんびり論じるよう進めるところには、(最近ワンパターンで申し訳ないが)結果的に現状維持的なとまでは言わなくとも(今回も心情的にはそういいたいくらいだが、それは公平を欠くのかもしれないと自重する)、変革に力を貸さない言葉になってしまっているといえよう。

2010年7月2日金曜日

訃報・クラベール司教

フィリピン・ルソン島の山岳地出身初の司教であり、教会の政治社会的な参与に尽力してきたフランシスコ・クラベール師の訃報に接した。

普段はカトリック教会のあり方に批判的な論じ方をすることが多い私ではあるが、フィリピンの変転する政治社会状況の中での師の働き、思想、その葛藤と試行錯誤には深く敬意を覚えてきた。哀悼の意を改めて表したいと思う。

First Igorot bishop, martial law foe dies; 81

2010年5月4日火曜日

CBCP司牧書簡 「恵みの業を大河のように流れさせよ」 2003年7月7日

LET INTEGRITY FLOW LIKE A STREAM!(A Pastoral Statement of the CBCP)

政治腐敗と汚職(graft and corruption)についての教書である。

とはいえ、冒頭、高位聖職者のスキャンダルをまず挙げ、悲嘆し、神と民とに赦しを請う文章から始まる。1991年の第2回教会会議において聖職者の刷新の優先性を挙げた点を想起し、これを受けてさまざまのプログラムを作り、また聖職者の性的不適切行為への対処の司牧的ガイドラインを制定してきたと述べる。さらに今後神学教育においても「キリストの歩みに倣う真の良識に立った人物」こそが聖職者となるよう検討を加えるという。

それでも、たとえ聖職者の側に罪深さがあり、刷新の努力を怠ることが出来ないとしても、社会に巣食う道徳上の問題について言明する道徳上の役割はなお自分たちにあり、これを避けることは出来ないとして本論に入る。

1989年の「盗んではならない」、1997年の「フィリピン政治に関する司牧教書」においてCBCPはすでに政治腐敗と汚職について触れ、これを社会に対する反逆、そして神に対する罪であると難じている。そして市民委員会の創設により一般の認識を高め、公金の用途を監査し、違反した公職者の訴追を行うべきであると提言しており、今回もこの点を再度強調している。

汚職の問題性について確認しながら、政治家の罪のみならず、これを容認している国民全体(we as a people)の責任を問うている。政治家の公金の不正使用とともに、民間企業の不正行為が賄賂などによって野放しになっていることが問題として挙げられる。

汚職の問題は世界的な現象であり、道徳倫理の水準が崩壊していることと関連するという。しかし、フィリピンの場合国内の不平等性のはなはだしさと合わせるとこの罪の深刻さは大きい、とする。

対外債務返済のため圧迫された国家予算の中から、さらに40%もの公金が汚職に消え、本来貧しい人々のための開発に使われるはずのものが失われていくことは、道義的に決して受け入れられないことである。これは国際的にもかなりひどい水準であり、フィリピンの通貨ペソの評価を下げる要因でもある。またこうしたことが蔓延することで治安の悪化や公的サービスにおける賄賂要求などがはなはだしくなって、国民の道徳的、霊的な意識が失われ、他者への不信感が増すとする。そうした中で汚職は行政や政治の隅々にいきわたり、開発資金の用途、マスメディア、市民社会にまで影響を及ぼしている。教会すら、腐敗で知られる人々からの献金を受け取ることで知られるようになってきており、教会は悔い改めを表明し、主の赦しを請わなくてはならない、とする。

社会の中にはこの問題に対する認識が広がっているが、具体的な行動こそが求められている。多くの教会系の組織や市民団体が動き始めており、教会はこれを支持するという。政府の取り組みにも注視している。この問題にかかわる団体が増えること、特にカトリック系の組織や学校、小教区、宗教運動、そして教会基礎共同体が価値観の形成(value formation)に力をいれ、汚職撲滅の働きに参加するよう呼びかける。イエズス会の作成したマニュアルがあるので活用するよう勧める。

より積極的な法制度の形成や、政府の市民団体と一丸となっての活動、市民運動の政治家のライフスタイルチェック、行政官に対する監視、容疑のある行政官の告発などの促進を提案している。

司教協議会としては、下部組織の社会活動部門であるNASSAおよびフィリピン信徒委員会に、政治腐敗・汚職への取り組みを実施する主導的役割を果たす役目を委託している。と同時に教会自身としても内部の問題にきちんと対処するように決議している。司教たちは腐敗で知られる人々からは献金を受け取らないし、彼らの活動を容認しているというメッセージとならないためにも、特別な仕方で彼らに栄誉を与えたりすることはしない、とする。

最後にアモス書5章24節のの「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」を引用し、聖母マリアの範を引いて教書を終えている。

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読み通して不自然に思えるのは、政治腐敗と教会の性的スキャンダルとを、「道徳上の腐敗」として一律に論じている点である。

確かにひとつの国民社会の中で、共通の国民文化がさまざまの場において共通の問題を惹起する面がある、という議論は考察に値するだろうと思う。教会が怪しい政治家から献金を受け取ってしまうという話は、この国家的な汚職の問題と連続性を持って論じる意味があるようには思う。

しかし、性的スキャンダルは、やはりこれとは別の問題に思える。

こういう別々の問題、しかもいずれも単に道徳や霊的な問題だけでなく、制度上の問題を含む問題において、まったく別の問題を、教会が「責任を持つ」(がゆえに発言権のある)道徳問題に還元して論じようとするとき、教会の性的スキャンダルの場合の聖職者の任職や教会の制度と透明性、説明責任、問題への対処のシステムといった問題も、また政治的汚職に関連した行政や司法の制度整備、公務員の給与などのより実際的な問題から遠ざかってしまっているように思える。そうなると、こうした議論をすればするほど大事な問題が見えなくなって、かえって現状維持に力を貸してしまうのではないか。

教会の道徳的説教は、道徳的な高みから論難することや、その論難を聞くこと自体のカタルシスによって、かえって現実に具体的に対峙していく方向への動きを鈍らせかねない面があるのではないか。このことを、教会の司牧教書を読むたびに考えてしまう。

2010年5月1日土曜日

マニラ大司教区・司牧書簡「選挙2010」

フィリピン・カトリック司教協議会の司牧教書を読むシリーズを中断し、昨今の選挙がらみで書いてみます。

いよいよフィリピンの総選挙が近づき、諸教会(カトリック、プロテスタント等々いずれも)の動きもいろいろと報じられるようになってきている。マニラに滞在して様子を検分できた前回と異なり、今回は日本で模様眺めということになるが、ふとマニラ大司教区の「Election 2010」というシリーズがホームページ上に公表されていることに気づいたので、これを読んでみることに。

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Election2010 Part 1

Part 1 は3月14日付、英語とフィリピン語の翻訳(Filipino Translationとある―オリジナルは英語である、ということか)が並列され、マニラ首都圏教会管区(Manila Metropolitan Ecclesiastical Province)の司教たちの名が列記されている。つまり、これはマニラ大司教区を中心する管区全体の意思表示ということになる。

管区内の教区は、マニラ(大司教+補佐司教2名)、アンティポロ(司教+補佐司教)、クバオ、イムス、カロオカン、マロロス、ノバリチェス、パラニャーケ、パシグ、サンパブロ、プエルト・プリンセサ(使徒座代理区 Apostolic Vicariate)、タイタイ、であり、従軍司教(Military Ordinary)も名を連ねている。

ポイントは明瞭である。来る5月10日に国政選挙がある。これは自由選挙であるが、自由選挙とは脅しや金に左右されないものであるべきだ。有権者は特に貧困と政府の腐敗という問題と立候補者の資質を照らし、良心的な市民の集いで注意深く検討すべきであるとする。こうした諸集団は自分たちの選択に関する主の導きを祈る市民集団たるべきとする。

その資質としては、神を恐れる人、道徳的で、悪習に染まらず、命への畏敬の念を持ち、常に貧しい者たちの真の友であり、世界の生態系の友であり、つつましく、責任あるフィリピン人市民のよい模範であること、とする。

こう締めくくる。「主とその御母がわれらの国を祝し守ってくださるように。というのも、神を恐れる国としてわれわれが人々をも愛しているということを、彼らはご存知なのだから。」

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Election2010 Part 2

二つ目のものは3月21日付の回勅(Circular)である。マニラ大司教ガウデンシオ・ロサレス枢機卿名で、マニラ大司教区内の聖職者、修道士、信徒に向けられている。

内容としては以下のとおりである。
上述の司牧書簡をもう一度よく読むように勧める。今度の選挙は、国内の諸問題を背景に、国民が投票に関する成熟したよく考えられた決定をすることを支援する機会だかからである。さもないと選挙時の過ちを正すために人々が街頭に繰り出すことにもなりうるからだ。司牧書簡にあるように、市民グループを各部門、年代層、小教区などにおいて積極的に組織し、また人々の運動を支援してほしい。こうした団体は中立的なものであるべきである。投票は良心の選択によるものであり、お金、脅迫、欺きによって影響されてはならない。市民組織を通して、責任を持って望むことで、市民は国づくりをはじめなくてはならない。最後に、識別と判断に際しては常に祈りが伴はなくてはならない。支援するとともに祈ろう。

こう閉じる。「主イエスとその御母が常に導き、われらを触発してくださるように。彼らもまたよき市民として生きることを学ばれたのだから。」

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Election2010 Part 3

こちらは4月28日付である。マニラ大司教ガウデンシオ・ロサレス枢機卿名で、宛名を示さずにMessageとだけ記されている。

内容は以下のとおり。
選挙当日まであと数日、騒がしく混乱に満ちた選挙戦が戦われ、よいうわさは耳にしないが、これぞ「選挙戦、フィリピン版 political campaign, Pilipino style」である。われわれはこのようなことを自由の民として成長するにつれ乗り越えていくようにと祈る。国の将来は、誠実で神を恐れる、信頼に足る人々に任されるべきであり、そのような人々こそ大いなる一致を生み出しうると信じているであろう。一部特権階級のためでなくすべての人々の益を大切にする指導者を選ぶ確信を得るためにも、情報収集のみならず、黙想と祈りが不可欠となる。
民としてのわれらの歴史において重要なこの時にあたり、マニラ大司教区の小教区等の共同体が、5月の最初の9日間を「誠実で平和な選挙日のための特別な祈祷期間」とし、また選挙直前の3日間を「イエスの聖心および無原罪の聖母の聖心を記念する御聖体の聖なる賛仰」の特別の三日祭とするよう求める。

こう閉じる。「来るべき選挙で誰が勝つにせよ、フィリピンという国こそが勝者となるように。」

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いつものことではあるが、今回も基本的に、政治の霊的な理解の強調、政策やシステムよりも政治家個人の資質の強調、それらから来る、選挙で霊的な指導者を選び、その人が国をよい方向に導いてくれるように、という論じ方が一貫して見られる。その結果、教会の政治への参与とエネルギーは、国政選挙の「有権者教育」や「選挙監視」にかなり集中することになる。

もうひとつ。今回は初めて選挙のコンピュータ化が導入される。この点についてはさまざまの期待と懸念、そして資材導入や準備をめぐる報道が多く見られてきたが、このことについてまったく触れられていないのも気になる。もっともこれについては、教会関係者が状況を注視しているのは確かである。たとえば以下の記事にはそうした姿勢が現れている。(ちなみにこれは、Part 3についてのCBCPのニュース記事である。)
Cardinal Rosales dismayed over pinoy-style political campaign

グループ作りについても、教会系の運動がどうしても中間層寄りになってしまうこと、低所得層の庶民との間にある種の文化ギャップが存在してきたことなどについて、どう取り組むのか、というような発想が欠けている。市民(citizen)という言葉が貧しい人々(the poor)との間に、ある種不愉快な緊張感をはらんできたことは、特に2001年の一連の事件(大統領放逐の政変と、これに対抗する親エストラーダ派のデモ)で大きな衝撃とともに学んできたはずではないのか。

にもかかわらず、同じことの繰り返しである。強い賛成も反対も仕様がないが現実から遊離しているようで、とても多くの人々の注意を喚起する文書とは考えられない。これでは運動(政治の改善)よりも、構造(現状維持)を指し示しているとしか考えられない。

2010年4月9日金曜日

WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110; May 31, 2003

再度、家族計画関連法への反対声明である。タイトルとリンクは以下の通り。

WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110 (A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines)

冒頭に引用されるのは、新約聖書、テモテへの手紙二4章1-2節である。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(新共同訳)

そして司教協議会はこの言葉に基づいて「戒める」(ただし教書の英語ではcorrect errorなので「矯正する」)責任がある、とした上で、下院法案4110に教会の教えに反する考え方が含まれている、とする。引用された聖書の文脈は読んで明らかにキリスト教の信仰共同体の「内部」での活動を指すものであるから、これを議会で審議中の法案に適応するのは、教会が国会に対して、「重大な道徳的問題について」と限定しつつも監督者として指導を与える、というきわめて「キリスト教世界」(Christendom)の見地から論じるという教会の政教関係への典型的な接近法をとっている。

まず下院法案4110は「教会の教えに反する信条を含む」「そのために微妙かつ欺瞞的な語り方と方法を用いている」との全体的な評価を出した上で、以下の点を挙げる。

1.法案に見られる「リプロダクティブ・ヘルスケア」「リプロダクティブ・ライツ」は国際連合のカイロ文書(1994年の国際人口開発会議のこと)以降国際的に用いられている表現で(国連人口基金東京事務所のホームページの用語では「性と生殖に関する健康/権利」とある)、「最も糾弾すべき犯罪である」中絶を明らかに含んでいる。また上記概念はあらゆる避妊法を認めるものであり、法案においても青年にもこうした避妊手段が入手できるようにしようとしている。

2.法案の支持者は中絶に関する法(中絶の禁止)を変えるつもりはないと言っているが、「受胎 conception」の意味を再定義し、本来の「受精時点 fertilization」とする代わりに、「着床 implantation」の時点と主張する。その結果、着床前の受精卵は人間ではなく、権利もない、とする。さらに法案はピル、避妊リングなど受精卵の成育を阻害するものに「流産促進的な効果 abortifacient effect」があるとの認識を示していない。

3.法案支持者は「安全でない中絶」で多くの死者が出ていることに言及することが多いが、そもそも中絶は犯罪であり悲劇的なのだ。しかるにリプロダクティブ・ヘルスの考えで行っては、「安全な中絶」であれば許容する、ということになりかねない。

法案を丁寧に読むと、以下の誤りが明らかになる、という。

・自分の身体に対する人間が神から与えられた管理者性(stewardship)という道徳上の問題が、単なる健康上の問題に還元されている。法案の支持者の中には、自身の身体を完全に支配することを「人権」と呼びさえするが、これは間違いである。

・法案の、人口増加が貧困の原因であるという想定は間違っている。開発というものは教育、良い統治、一貫性と透明性、交易、工業、農業などの複雑な相互作用の結果である。

・法案全体の調子は、キリスト教的な人間の性について、また責任ある親としてのあり方の理想をゆがめるものであり、道徳というものを片隅に追いやってしまう。

その上で、自分たちも女性たちの健康と権利を擁護し促進することを目指しているが、この法案はこの目的にも合わない、とし、教会の教えに反する深刻な過ちがあるゆえに我々(weがどこまでを指すのかがあいまいだが)はこの法案を拒絶せねばならない、とする。

冒頭のパウロの言葉に再度言及し、「私たちのカトリック教徒の議員たちは教会を通して神から受けた道徳的な教えに従って行動するであろうと確信している」と結ぶ。

***

いつものトーンである。残念なほど発見が少ない。信念を貫き、妥協を配するというのはそれ自体では結構なことであろうが。

・特に、非合法の危険な中絶の横行に対する懸念、人口問題の深刻さ(1億になるのも近いと聞く・・・10年前、確か6000万人と言っていたような・・・)について正面から論じず、対案を提起していない。

・性や家族のあり方が変化している(教会の立場からすれば崩れてきている)からこそ、こうした法案も出てくるのだとすれば、教会こそ、こうした法案の廃案にかけるエネルギーに比して、性教育や家族支援の努力は微々たるものであり、効果を挙げていないのではないか。とすれば、教会こそ性や家族といった広がりのある問題を、結果的には特定の法案の阻止という所に過剰に力を注ぐことで自ら矮小化しているのではないか。その意味では、彼らが批判する法案支持者の「性や家族の問題を健康問題に矮小化する」姿勢とさほど異ならないのではないか。

(*ちなみに、私個人の倫理観として、性や家族の問題をもっと包括的に捉えるべき、というのに異存はないし、中絶はやはり殺人であると理解している。とはいえ、政策としてどうするか、という場合には、そういうナマの倫理はそのまま法律にできるものではないと考える。自分たちのコミュニティの内外での地道な説得と、そうした生き方がしやすい環境作りこそが、まず第一になされるべきことであろうと考える。カトリック教会内にも地道にこうしたことに努めている方々がおられることも確かではあるが、なおフィリピンでは法をどうするか、ということに力点が置かれやすいようであり、これは適切でも効果的でもないと考えずにいられない。倫理はすべて法によって規定することはできない。ましてカトリック独自の倫理観を一律に押し付けることもできない。カトリック人口が8割といわれるが、少数派もいるし、政教分離、信教の自由を保障した憲法もあり、なおかつカトリック信徒といわれる人の多くも、性や家族の問題についての教会の政治的な影響力行使に眉をひそめたり、教会の反対する家族計画に賛成する人々も少なくないのだから。)

・「我々」の範囲のあいまいさを操作することで、相手を分断したり自分の土俵の中に入れて上から裁いたりすることを織り交ぜている。国会議員に対し、あなたはこちら側ですか、それともこちらにはいてはならない人ですか、と言っているわけで、暗に恫喝的な姿勢をもって臨んでいる。公共善の問題と教会の教えというのが区別されず、さりとて同一視されているのでもなく、あいまいなまま(教会の都合に合わせて)適宜使い分けられている。
 もっとも、この点については、人々の側もカトリックに関することを、都合に合わせて「自分たちのこと」にしたり「彼ら(教会指導者とその指導に忠実な人々)」の問題として突き放したり、「我々」の範囲を使い分けているのである。さすがにtayo(相手を含む私たち)/kami(相手を含まない私たち)の文化(マラヨ・ポリネシア語族の特徴と聞く)、ともいえるのかもしれない。

2010年4月8日木曜日

"NO TO WAR!"; January 28, 2003

声明のリンクはこちら。
"NO TO WAR!" (A CBCP Statement on Possible War in Iraq)

2003年初頭のアメリカ合衆国を中心とする有志連合によるイラク攻撃を前にしての反対声明である。一読して明らかにバチカンによる反戦声明に連なるものであり、フィリピン政府に先制攻撃(pre-emptive strike)に同調しないよう呼び掛けている点を除けば、きわめて一般的な内容である。だから、特に論ずべきことも見当たらない。

教皇の「戦争というものはいつでも人類にとって敗北である」という全般的な反戦思想に基づいているため、反戦をアピールするだけで終わってしまっている。ではサダム=フセイン政権のように国際社会を挑発し続け、地域の安全保障上の不安定要因となっている権威主義的性格の強い政府をどのように評価し、どのように関わるのかについての、積極的な提案は欠けている。つまり、戦争はとにかくだめだ、ということではあるが、ではどういう方向性で行くのか、そもそも国際テロの問題についてどういうパースペクティブで臨むのか、そういう見通し(ビジョン)が示されていないため、どうも言いっぱなしの感が否めないが、宗教家が出す平和を求める声明なんてそんなものだ、とも言えるのかもしれない。

平和問題についてはミンダナオ問題を抱えるフィリピンで、この問題について関心が高いはずの、取り組みを重ねてきたはずのカトリック司教協議会としては、もう少し踏み込んだ考察に基づいて、もっと方向性を打ち出せなかったのだろうか、と思ってしまった。

2010年4月2日金曜日

PRIMER ON NEW AGE; January 08, 2003

「ニューエイジ」の霊性について取り組んだ「手引き」である。リンクは以下の通り

CBCP Documents - PRIMER ON NEW AGE

この文書はかなり大部なものではあるが、私の現在の研究上の関心と今一つ結びつかないものでもあるので、今回は要点の紹介と少しのコメントにとどめる。

この手引きは、「ニューエイジ」と呼ばれる諸宗教と科学、瞑想とエコロジーなどを独自の仕方で統合することを目指す世界的な宗教運動について、これが教会の内外に浸透してきていることについて警告する立場から整理し、解説し、指導することを目指したものである。

ただ、正直なところ、既にずいぶんと長期にわたり存在するこの運動について、この時期にこれが出てくる必然性についてもまた調べられていないし、この運動についてまだよく理解していないので、書けることは少ない。勉強の必要を感じる。直感的には、ニューエイジはこの文書に指摘されているとおり中間層、富裕層への影響が大きいと思われるので、教会のアイデンティティや関心がこうした層に向けられている、ということはできるのかもしれない。

また、この文書にもあるとおり、ニューエイジに対する警戒は、基本的には「キリスト教国」の霊性を「内側から侵食」するという見方から来ている点は確認してよいと思われる。これは一時期アメリカのキリスト教保守派で流行したニューエイジ警戒論と似ているようにも思える。つまり、キリスト教のヘゲモニーが確立している場所で、これを危うくするものへの警戒である。

しかし、信教の自由が保障されている社会において、また教会教育や司牧が行き届いていない教会の現状を踏まえるとき、さまざまな宗教運動や思想が入り込んでくるのはいわば必然であり、警告したところで何も起こらないように思える。この文書のように、カトリックから見てこの思想がどうだこうだ、と評価するだけでは、人々に届くことはない。そのことの是非は見方によるであろうが、教会がその固有の活動における人々へのコミットメントがないまま、既存の勢力範囲を保持しようとするというその姿勢は、やはり政治・社会的保守主義と連結するものであろうと思われる。それは、教会が大事だと言っている「貧しい人々」の現状をも、結局固定する方向に有利に働いてしまうのではないか、と勘繰ってしまう。

またいずれ折りを得て考察しなおさなくては、と思いますが、今は研究の主題をフィリピン社会との関わりに置いているので、この話題は今回はこれくらいにして次に進みます。

2010年3月30日火曜日

THE CHRISTIAN FAMILY: GOOD NEWS FOR THE THIRD MILLENNIUM; 2 December 2002

原文は
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2002-4thworldmeetingoffamilies.html

原題は
THE CHRISTIAN FAMILY: GOOD NEWS FOR THE THIRD MILLENNIUM
A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines for the Fourth World Meeting of Families

再び「家庭」を主題とした、再び包括性のある声明である。そしてこれもまた、バチカンの動きと関わっている。当時のヨハネ=パウロ2世教皇主催の「第4回世界家族会議(Fourth World Meeting of Families)」がマニラで翌2003年1月22-26日に開催されるに際してこの声明が出されたのであった。

声明は、マニラが選ばれたことを名誉とし、フィリピン人クリスチャン家庭が会議の標語「第三千年紀のための福音(良い知らせ)(Good News for the Third Millennium)」となるようにとの神の呼びかけ(神の召しdivine call)である、とする。

1.家庭についての悪い知らせ(Bad News)
家庭は悪い知らせでもありうるという。特に貧困による極度の圧力、出稼ぎによる家庭崩壊、児童労働、ストリート・チルドレンなどの問題がまず挙げられるが、特に問題にしているのは、「物質主義的で消費主義的な価値観」(materialist and consumerist values)がマスメディアを通じ貧しい人々にまでサブリミナルに刷り込まれ浸透しつつあり、これが「福音の価値観」(Gospel values)に重大なダメージを及ぼしている、という点である。これにより結婚しないで親になるケースが増え、「ケリーダ(愛人)・システム」も容認されてしまっているとする。

特に問題とされているのは、離婚の合法化を目指す法案が繰り返し上程されていることであり、この法案の推進者は離婚を一度容認し、結婚の神聖性の意味が衰退した国ではかつてないほどの社会的・道義的な問題が起こってきたことがわかっていない、という。さらに「選択の自由」「リプロダクティブ・ヘルス」の名の下に中絶を容認したり、ピルを解禁することで違法な中絶の変わりに、実質上「安全な」中絶を提供しようとする動きが世界的にあると警鐘を鳴らす。「女性は自身の体についての権利がある」というそうした人々に対して、教書は「神がわれわれすべてをただ神に仕える者として創造され、われわれは道徳的原則に導かれなくてはならないという宗教的、道徳的現実」を無視していると反論する。

こうして「死の文化」(culture of death)が確立し、生まれる前も含めたすべての人間の尊厳と価値に関する、命、死、愛、結婚、家庭、他社関係についての「福音の価値観」は死に追いやられている、とする。


2.クリスチャン家庭は良い知らせ(Good News)

これに対し、すべての家庭はそもそも神が共におられ、私たちを愛しておられるということのしるしであるとし、特にクリスチャン家庭はミニチュア教会たる「家の教会」(domestic Church)として特に祝福されたものであって、フィリピン社会の進歩に著しく貢献しており、フィリピン人の大半のキリスト教信仰と並び、クリスチャン家族はフィリピン国家にとって神よりの真に最大の贈り物となりうるという。

創世記にあるとおり、家庭は男女の結婚愛の場として神の愛を反映する場であり、新しい命の宿る実り多い場でもあって、子どもはよい知らせであり、結婚のもたらす最上の贈り物であるという。また神の子がマリアとヨセフの家庭にやってくることにより、結婚はいっそう祝されたものとなり、結婚はキリストの秘跡のひとつとなり、ご自身の人間家庭に対する忠実な愛のしるしともなったという。だから結婚に問題が生じやすいことは知りつつも、イエスは「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」と言われたのだ、という。

そしてクリスチャン家庭が「死の文化」と対照的によい知らせであることを再度確認する。

3.使命に生きる家庭:イエスの福音(Good News)を知らせる

クリスチャン家庭の使命はイエス・キリストの福音を生活のあらゆる側面において宣べ伝えることであり、それは第1に愛に満ちた家庭を形成すること、第2に「神の像」(divine image)を人から人へと伝達することで子を産み育て、命に仕えること(特に中絶や政府推奨の人口抑制プログラム、「避妊メンタリティ」を拒絶すること)、そして社会と教会の刷新を支援することであるという。キリストの価値観を子どもの内に形成することは社会全体の変革につながるという。

社会変革のために、諸家庭は、法制度が家庭の権利と義務を支援し、積極的に守るようになるべく、政治的に介入しなくてはならないという。また社会正義を促進し、貧困を除去し、否定的な文化価値によって「損なわれた」(damaged)といわれることもある現在の文化を刷新することに積極的に参加すべきである、という。

そして家庭は教会の刷新の業に参加しなくてはならない、というのも、教会が「正統的な弟子たちの教会、真実な共同体、貧しい者たちの教会、参加的教会、文化に根付いた教会となる」というのが自分たちの教会としてのビジョンであり、この困難なビジョンをリードするのは家庭でなくてはならないからだという。

4.結論:証言する使命を担う家庭

教皇ヨハネ=パウロ2世が、家庭が本来の姿になることを呼びかけたことを想起しつつ、教書は、すべてのカトリック教育機関とすべての小教区に家庭形成のための教育にまい進するよう呼びかけ、最後は聖母マリアのとりなしを祈って終わる。

***

いくつかの点について考察してみる。

1.フィリピン人の大半がクリスチャンで、なおかつ家庭を大事と考える価値観を持っている、というのは実感も含め異論、違和感はない。ただ、それをどの程度、どういう意味で「福音の価値観」と呼ぶのか、またいわば「神の恵み」という鉄壁の強さを持つはずのものによってもたらされているはずのフィリピンのキリスト教化、そして福音の価値観というものが、どうして、どのようにして「物質主義的で消費主義的な価値観」によって掘り崩されているというのか、という内在的な考察がない。では、どういう考えなのか。

「福音の価値観」はアプリオリにフィリピンに存在するものとなっている。これは、過去、現在の教会の働き、教会形成、宣教活動、家族関係のケアなどの主体的な働きについての吟味につながらない。
これに対して、「物質主義・消費主義の価値観」は巧妙にひそかに、権力とマスメディアを通じてこれを掘り崩している。つまりはずるがしこい闇の力であり、かつある種帝国主義的なものとしての含意がある。こうなると、悪いのはそっちだということになり、警戒、非難、そして現状維持(のために家族計画に関するほうを悪魔的なものとし、断固排除すべきものとする声高な姿勢)につながってくる。
しかし、問題が価値観ならば、解決は価値のレベルのことであり、法制度の問題はそれとの関連でこそ考えられるべきなのに、教会として自分たちの現場、足元で、また家庭の現場で、どのような価値観をどう構築してきたか、どうしているのか、どうしていくのかがこの文章でも、また前年の文書でも(今に至るまで)見えない。

2.そもそもカトリック聖職者が、家庭のあり方について云々するときに、いわく言いがたい違和感が残る。もちろん、宗教指導者が家庭のあるべき姿について語るのは別にそれ自体でどうのということではないだろうが、それでも、いくつかの論点を拾うことはできそうである。なによりも、彼らは自分たちで家庭を築かない人たちであることが、ここでいくつかの問いを生じさせるように思える。というのは、彼らこそ、家庭というものの価値を相対化しているのであり、それはキリスト教のより広い伝統にも符合しているといえる。ところが、ここでは家庭が生み出す価値というものが、恐ろしく高く評価されている。そこで二つの方向で問いが出される。

ひとつは単純に、自分たちが主体とならない家庭の問題について、彼らが指導者として模範を見せることもないまま権威の座から語り続けるということの特異性である。結婚しない人が結婚のすばらしさについて、子どもを持たない、家庭を持たない決意をし、誓約をしている人が、子を宿すこと、家庭を築くことの重要性について力説していることは、ある種のねじれと疎外を信徒に与えるのではないか、と思われる。そんなこと言ったってあなたは独身の誓約をし、聖職者になることの特別な祝福を強調しているではないか、そもそも家族を持っていないくせに、家族のことについてわかるのか、口出しする資格があるのか、という問題である。

もうひとつはそのような独身聖職者が妙に結婚や家庭の至上性を強調しているところから来る。やはり結婚しない上座仏教の僧侶は家庭の価値について、ここまで積極的には語らないだろう。家庭も大事だが、出家というもっと大事な価値もある、というであろう。それがここにどうして見当たらないのかと思わずにおれない。キリスト教という宗教の存在感は、家庭よりもむしろ個人の神への献身によって現されてきたはずであり、それはむしろ家庭を相対化するような側面を持っていたはずであろう。家庭が文化を作り、文化が社会を作る、というのは、いかにも構造機能主義的な理解であって、宗教の持つ超越的な側面がぼやけてしまっている。

3.総じて言うと、いつもの話だが、やはりキリスト教社会を保守したい、という願望がよく現れているように思える。その観点からの現状の脅威認識であり、自らのなすべき働きに言及しないままの課題の一般信徒への丸投げである。そうしたことを、教皇の定めた祝祭に合わせる形で上手に纏め上げたこの文書を読んで、残るのは、やはり教会にはこの国について、家庭について、具体的な代替的政策案や方策を提示できていない、という印象ではないか。離婚や中絶の容認と人口抑制計画の推進といった政策の背後には、やむにやまれぬ人々の現実がある。教書は、ここに届いていない。現実を死と呼び、それと結びつかない理想を掲げ、それをフィリピン家庭の本来の姿だといって終わってしまっている。

どうしてこのように、地に足のつかないものになってしまうのか。この「地に足の着かない感じ」は、フィリピン社会において指導的な立場にある人たちの文化を理解する際のひとつの鍵になるのではないかと思うし、その背後にあるものを注視していかないといけないと思わされている。

2010年3月29日月曜日

HOPE IN THE MIDST OF CRISIS; 7 July 2002

本文は下記の通り。

http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2002-hopeincrisis.html

内容は、7月の司教協議会の総会を経て公表された一般向けメッセージであり、自然災害、政治社会の諸問題に加え、教会における聖職者の性的不品行(sexual misconduct)を取り上げ、不始末をわびるとともにこれを神学的に解釈し、問題が山積する国情のもとでなお希望を持って生きることについて簡潔に述べている。

声明はまずその時期に襲った台風、引き続く貧困問題、犯罪、暴力、政治不正等を挙げ、希望を失いかねない危機の現状を述べたあと、聖職者達(司祭と修道士)による性的不品行が教会を揺るがしたことに言及する。これについて、①キリストの祭司職の聖性を裏切るものである、②「聖にして罪人の集いである」という教会の神秘を指し示すものであるという二様の理解を示した上で、神からの勇気という贈り物によって自分たち牧者(We your Pastors)は、一部指導者達がその群れ(flock)の人々に対して犯した重大な罪を「赦してほしい、と謙遜に求める」(humbly ask for forgiveness)という。このような行いは司祭にふさわしいものではなく、大多数の司祭と修道士はそのつとめに忠実であることを確認するとともに、謝罪した以上必ず刷新をなさなくてはならないと認識している、とする。今後専門家と広範に協議しつつ様々の性的虐待、性的不品行の問題を扱う規約の作成に取りかかっているという。

旧約聖書ミカ書の「正義を行い、憐れみを愛し、へりくだって神と共に歩め」を引き、この言葉に、嵐のただ中を生きるがごとき我々は希望を見いだす、という。そしてこれを教会指導者の歩むべき道として解説している。そしてフィリピンがよりよくなることへの希望、教会の聖性への希望は、この正義の実行、愛、そして謙遜な神とともなる歩みによってもたらされるものであり、このような生き方自身、神の恵みである、とする。

そして最後に、イエスが「希望を持て! 信仰を持て」と言っておられ、彼にこそ希望があり、この希望は失望に終わることがない、と結んでいる。

***

この時期、CBCPの中では、将来を期待されていたヤルン司教の隠し子騒動が起こっており、この後には高齢と健康問題故に引退を目前にしていたカリスマ的指導者であった当時のマニラ大司教であったシン枢機卿後の次世代の指導者として期待されていた著名なバカニ司教にも及び、彼らの事実上の更迭にまで至った。それ以外にも様々な性的スキャンダルが取りざたされた。

この文章にショックを受けたはずの彼らなりの誠意というものを読みとることは出来るだろう。具体的に規約を作成する(実際に数年後にできたと聞いている-原文は私は未確認だが)というところにそれなりの本気が現れていると思う。

ただ、いくつかの問題が残っていることも指摘していいと思う。私自身はプロテスタントであり、世界的にプロテスタントも含め、性的不品行や虐待のケースが続々と公になる現状を鑑み、決してカトリックだけの問題としないようにすべきだと意識しつつ、述べていきたい。

1)この時期の新聞記事を読んでいたときの記憶によると、教会側は強制性のあるセクシャルハラスメントや性的虐待のケースと、合意の上で成り立つ「不適切な性関係」(illicit love affair)を一つにして扱ってきた。この文書にもそういう態度が現れている。バカニのケースは前者(セクシャルハラスメントの容疑、被害者の訴えに対し、本人は「そのつもりはなかったが、不適切な親密さの表現があった」として謝罪した)、クリソストモ・ヤルン(Crisostomo Yalung)司教の場合は後者(不倫の末の隠し子がいた)であった。また後には、自分たちの関係を認め、結婚式を行い、教会当局に聖職者の結婚を認めるべきだと主張するに至った聖職者達もいる。世俗的にいっても前者は刑法犯だが、後者は犯罪の範疇ではない。
http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/byalung.html
http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/bbacani.html

 勉強した上で結論を出すべきなのだろうが、今仮説的に考えているのは、カトリックでは結婚という秘跡(サクラメント)を非常に重くとらえているため、両者ともこの秘跡違反という観点からはとんでもなく重大な違反、ということになるということなのかもしれない。さらに言えば、叙階(つまり聖職者としての任命)も秘跡であり、このときに貞節の誓約をするので、これを破ることもまたとにかくとんでもない罪(教書に使われた言葉で言えばgrave sin)であるだろう。それは司教達がこの叙階の秘跡に基づく権威であるが故に、何にも勝る問題であるのだろうと思う。

2)確かに被害者への謝罪はあるが、問題があくまで教会の聖性をどうするか、希望をどう持つか、ということに当てられていることに、どうしてもある種の不誠実さというか、身勝手さを覚えるのは私だけだろうか。大事なのはまず教会のことなのか。少なくとも、被害者の痛みの側に立つ姿勢からは遠く見える。これは自己吟味を迫る考察でもあるかもしれない。というのも、自己弁護というものをどう見るかは、日本的な文化の問題とも関わるように思うからだ。日本では、過ちを犯したものが自己弁護するのは見苦しい、という美意識というか感覚があるように思う。しかし、これではまだ主観的な言葉にすぎない。これは学的な議論の中にどの程度持ち込める見方なのだろうか、考えていかなくては。

3)もう一つ、この文書で扱われていない問題がある。この数日また世界的にクローズアップされてきているが、当時からあった「隠蔽」の問題である。新聞記事やCBCPのニュースサイトの記事を読んできた記憶では、教会はこの問題については否認するばかりで、組織的隠蔽があったのかどうか真相を究明する姿勢を見せていなかったはずである。最近のニュースによると、アメリカにおける大規模で悪質な聖職者による性的虐待事件についての告発を、現教皇がバチカン教理省長官時代に握りつぶしていたとの疑惑も浮上しているという。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201003/2010032500641
バチカンの教皇擁護論の紹介として次の記事もあります。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2713529/5537686

という中で、やはり問題の根本的な対処よりも、むしろ組織の防衛と活動の通常への回帰に(おそらく無意識にではなかろうかと推察するのですが)向かおうとしている姿勢が反映された文書である、と読むことができると思われる。

しかし、教会は道徳指導者であってこそその権威が保たれると言うもの。Social Weather Stationsなどの調査を見ても、今に至るまで人々の教会への信頼は基本的にはさほど揺らいではいないようではあるが、このようなスキャンダルとこのような逃げの対応は、この10年ほど欧米で見られるように、長期的な信頼と権威の喪失に繋がっていく可能性があるのではないか。フィリピンにおけるカトリック(教会も、人々の信心も)はどこに向かっているのか、注視していきたい。

2010年3月16日火曜日

SAVING AND STRENGTHENING THE FILIPINO FAMILY; 02 December 2001

正式にはタイトルは以下の通り。
SAVING AND STRENGTHENING THE FILIPINO FAMILY
A CBCP Pastoral Statement on the 20th Anniversary of Familiaris Consortio
02 December 2001
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2001-familiaris_consortio.html

前教皇(当時は現役)ヨハネ・パウロ2世の使徒的勧告『家庭 愛といのちのきずな(Familiaris Consortio)』の20周年を記念したもので、緊急の呼びかけなどと異なり、計画的に準備して書かれた大部のある程度教えを総合的に述べた文書であると言ってよい。今回は長いので、折々ごとにコメントを盛り込んでいく。

***

1.導入、フィリピン人家庭の状況

教皇が、家庭が現代、さまざまの危機にさらされている、と指摘していることを取り上げ、フィリピン人の家庭をこの観点から分析している。

フィリピンにおいては家庭になお高い価値が置かれており、家族関係、結婚、子ども、お年寄りを大事にする傾向がみられると称賛する。また1987年憲法が、1973年憲法にはなかった家庭優先(pro-family)、命優先(pro-life)の特徴があり、これが家庭を大事にする価値観(family values)を強力に支援しているとする。

しかし多くの社会状況が家庭を破壊し、ゆがめているという。クリスチャン夫婦、親としての責任を果たすのに欠かせないはずの教会での結婚という秘跡(sacrament)なしに同棲する男女が増えていること、結婚の前にほとんど準備をしなかったり、お互いの価値観を確認しなかったりする場合も多いこと、婚前の妊娠や駆け落ちが当たり前になっていること、海外出稼ぎによって家族がバラバラになり、子どもが犠牲になり、しばしば家庭崩壊に至ることが指摘される。有名人の不倫が結婚における貞節の評価を下げ、ポルノの蔓延は結婚の絆と「性という贈り物の聖性の感覚」(sense of the sacredness of the gift of sexuality)を弱めており、薬物の蔓延も家庭や共同体の安定を揺るがしているという。またいわゆる先進国の現代的な考えなるものがマスメディアを通じて広められ、これが家庭を重んじる価値観をゆがめ「結婚、家庭、人の命を重んじる我々の伝統的な姿勢」(our traditional esteem for marriage, family, and human life)を損ねているという。

そして、現在、「我らの宗教的信仰が理解するところの家庭というものを究極的に破壊するであろうと、我々が固く信じるような提案」を立法府が提案している、とする。離婚を認容し、憲法における中絶禁止条項を削除し、人口抑制政策を強行する諸法案である。また同性愛関係を新たな家庭のあり方として容認すべきとの声もあり、さらに学校において、命と「性という贈り物の聖性」を大切にしない性教育のプログラムが施行されようとしている、と警鐘を鳴らす。

<つぶやき> 前回と同じような話だが、ここにもあるのは、「悪い者は外から来る」という理解。「フィリピン人は元々はいいのだけれど、近代化でだまされて悪くなっている。テレビに欺かれている。有名人の悪い模範に惑わされている。先進国の考えに汚染されてきている…」 だから、法律で守る、という発想になるのだろうか。しかし、昔の人々がそんなに「いい」のなら、そんなに簡単に「堕落」していくであろうか、現状問題がこれほどあるというのなら、実は昔からその問題の根になるようなこともあったと考えられないのであろうか。
 全国展開し、多くの信徒を傘下に持っているはずの教会が本来できるはずのことは、人々の日常に近づき、そこにおいて対話し、仕えることで体質づくりをしていくことであって、問題は法ではないのかもしれない、という、いわば権力や政治的影響力をあまり持たない運動体であれば自然なアプローチが、ここには見えてきにくいようだ。

2 使徒的勧告の教え

これらの現状に対し、教皇の使徒的勧告の導きを求めるべき、とし、①コミュニティ形成、②命への奉仕、③社会の開発に参加すること、④教会の生命と使命遂行にあずかること、の4点を挙げ、以下展開していく。


3 コミュニティを形成し離婚にNoと言う

 マタイによる福音書19章6節を引きつつ、夫婦間の契約としての結婚は解消不能である、とする。夫婦生活の要は「誠実さ」(fidelity)「忠実さ」(faithfulness)であり、神の恵みが働くゆえに困難があっても乗り越えられるとする。この夫婦間の「結び合い」(communion―カトリックの秘跡としてのミサ聖祭にも用いられる言葉)は親子兄弟関係の土台であり、秘跡の受けることにおいて、また聖霊の賜物として、愛という自然な「結び合い」は家庭内の人々をキリストと、そして神の民と結び合わせる、とする。「犠牲、忍耐、許し、和解の大いなる精神を通して初めて家庭内の結び合いは保たれ、完成される、とする。

<つぶやき> もしそうなら、やはり家庭が実際にはうまくいかないケースが少なからず起こってくるのは必然、という結論になるのでは?とつい私は思ってしまう。うまくいかなかったとき、それでも離婚を避けるべきだとするなら、破たんの危機に直面した家族はどうすればよいというのか、そこの処方箋が現状のカトリック教会には欠けているのではないか、という疑念が消えない。


4 生命に仕え、生命に反するメンタリティと政策を拒絶する

第2の働きとして、子どもを産み育てることが挙げられる。ここで掲げられる使命は崇高なものに響く。「人間の生命の本質的な価値、特に自由についての正しい態度、真実な正義の感覚、さらに真実な愛の感覚、ことに貧しい者たちに対する愛の感覚」を教育するように、としている。そして、「明瞭かつ繊細な性教育を施す」ことで、「セクシュアリティにおいて確実に責任ある人格的な成長を遂げさせる道徳規範の知識と尊重の姿勢をもつようにする」べきであるとする。

<つぶやき> 家庭に対するこの現実離れでは、と思わずにいられない讃美、期待の大きさ、過大な要求は、やはり家庭をもたないカトリック聖職者の地に足のつかない演繹的な議論とみるべきか、あるいは現状の問題に教会がどう取り組むか、という難問を回避し、家庭に多くを要求しているということなのだろうか。

5 社会の開発に参加し、教会の生命と使命にあずかる
・社会と教会の刷新

ここでは、「家庭の政治(politics of family)」が提唱される。家庭の日常に存在する(という)「結び合い」と「分かち合い」こそが社会を土台から支えているから、この「家庭の政治」の社会介入を政府は妨げず、むしろ支援すべきである、とする。これは社会を変革することで「結婚という秘跡の徳によってキリスト者夫婦が持つ王者のごとき奉仕の働き」を全うすることであるという。
また、家庭はまた、「イエス・キリストとその教会の三職(預言者、司祭、王)への参加」を家庭内の相互の愛によって表現し現実化するという。そして、カトリック教会内のさまざまな家庭支援のプログラムや組織が紹介されている

<つぶやき>
家庭内の愛が社会を変革する、というのは理念やイメージとしては大変結構なことだが、「結婚」「家庭」が教会と社会の半ば無条件の媒介者として位置付けられているのは、果たして現実的な理解なのか。「秘跡」(つまりは聖職者階級の信徒階級への権威作用)が、結婚に社会変革という軌跡を担ういわば魔力を無条件に与えているような印象を受ける。

・社会正義の促進と貧困の根絶

上記教会の「家庭使徒職」(family apostolate)活動に関わる人々に対して、まず第1に貧困問題に注目するようにと呼びかける。貧困は家庭を破壊するものであり、神のみ心に反するという。貧富格差のはなはだしい中で、われわれはみな社会正義、公共善(common good)の正義を追求すべきであり、国の物品(goods)の公平な分配を要求すべきである、という。
そして、政府に対し、貧困の根絶のために、貧しい人々のための住宅、教育、医療政策に力を入れるよう呼びかける。このような中で汚職は多くの人々に益するはずの信じがたいほどの額の公金をかすめ取る最悪の盗みの罪である、と糾弾する。
ビジネス指導者に対しては、利潤追及を超えた貧困者への配慮、そして雇用創出努力を呼びかける。そしてしばしば引かれる新約聖書、マタイ福音書25章のイエスの言葉「これらの最も小さなものたちにしたのは、私にしたのである」で閉じる。

<つぶやき>
重要な問題ではあると思うが、少なくとも捉え方が貧困家庭の側の視点ではないという印象をもつ。こうした家庭がどのように自立していくのか、当事者は当事者の立場からいろいろ模索しているのだと思うが、そこの評価が抜けたまま、政府とビジネス指導者に呼び掛けるというのは、やはり教会の関心はそのあたりにあるのかな、と思わさせられる。

国がよくなるためには政府と産業界が頑張るべし、というのは勿論一つの分かりやすい、支配的な考えではあると思う。極端な場合、私が知る中では例えばマニラ首都圏オルティガスのグリーンヒルズ・クリスチャン・フェローシップ(GCF)のように、ビジネスマンをターゲットに教会形成し、彼らのような社会において指導力も富もある人々が変われば国全体が変わるはず、という考え方で行くようなやり方すらある。カトリック教会の場合それとは異なるにせよ、やはり、このGCF流のいい方でいえば「戦略的に重要な人々」の動向こそが問題であり大事だ、という発想は共通のものであると思われる。これも一つの考えではあるが、教会のあり方として、これをどう評価するのか、興味深いと思った。

6 家庭の文化を刷新する

もう一つ第2に深刻な問題は家族の浄化(purification)と道徳的刷新(moral renewal)であるという。子どもたちは大人たちの姿、映画、テレビを見て悪い影響を受け、また「物質主義的、世俗主義的なグローバル文化」(a materialistic and secularist global culture)がフィリピン人家庭にひどい影響を及ぼしているという。

他方でフィリピン家庭には元々、自分たちの家庭を偶像化し、その利益のために公共善を犠牲にする悪い側面もあり、これが様々な汚職や私利私欲の原因になるという。

7 家庭を聖性の学校とする

これに対し、家庭はむしろ筋を曲げぬ誠実さ、正義、平和、愛の最初の学びやたるべし、という。2001年の初めて夫婦が列福された(beatified)ことを挙げ、優れた子どもを育てることの素晴らしさ、結婚生活がお互いを聖なるものとすることを表しているという。これは教会の教えなしでは成し遂げられない、という。とくに婚姻の秘跡が結実したのであり、聖餐の犠牲の秘跡によってキリストと教会の愛の結合に連なることで夫婦は養いと力づけを受け、和解の秘跡(告解)により許しと刷新を受けた、といったことが重要であるという。
特に家族一緒に祈り(特に家庭ロザリオ)を唱えることが重要だという。
フィリピンでは祈りにおいて父親が模範もリーダーシップも示さないのが悲劇的であり、父の祈りが特に不可欠である、と強調する。

<つぶやき>
秘跡…どうもこの言葉のカトリック特有の使い方の理解はとても重要であると思う。プロテスタントでは「聖礼典」と呼ばれる(洗礼と聖餐の二つの場合がほとんど‐カトリックは7つ)が、カトリックに比べると重要度が低いといえる。聖書の説教や勉強会、教会形成・運営、メンバー間の交流、伝道集会などのイベントの方が重要となる。カトリックにもこれらの側面はあるが、これらを包摂するのが秘跡であり、教会というもの自体が包括的に「秘跡的なもの」として理解されている。これは単に神からの恵み、という超越的な面だけで理解されているのではなく(これだけならばプロテスタントでも似た理解は可能)、その恵みはキリストが立てた指導者ペトロの正統な後継者であるバチカンとその配下にある司教(そしてその代理者としての司祭)による典礼を通じて注がれるものとされる。
だから、秘跡という言葉と特定の世俗の事象(例えばここでの「家庭」など)が結び付けられると、それらが神の祝福のもとにある、というだけでなく、位階制聖職(教会ヒエラルキー)の監督のもとに置かれている、ということになってしまう。だから、「秘跡」は、単に超越的な「恵み」の概念のもつある種のヘゲモニーのみならず、そのヘゲモニーが具体的な組織によって独占されていることを表すことになる。
これは、もっと考察する価値がありそうだと直感する。
とすると、教会もまた秘跡そのもの、と捉えられているわけで、「教会」という概念も、この視点から改めて考察することもできるのだろうと思う。


8 宣教の焦点としての家庭

家庭は「第一義的で生き生きとした社会の核」であるとともに、「家族的教会」「家における教会」すなわち愛といのちの共同体であるという。
すでに以前取り上げた2001年初頭の「教会刷新に関する全国司牧会議」(national Pastoral Consultation on Church Renewal)では家庭こそ福音化(evangelization)の焦点でなくてはならないとした。教書の当事者である司教たち(「あなた方の司教たちである私たち」(we your Bishops))も改めてフィリピン人の家庭を守り強めることに献身するという。

<つぶやき>
いつものことではあるが、具体策がない。この問題は長期的な課題でありつづけていることを考えれば、繰り返される、「努力を傾けなくてはならない」は、これまでしてきたことを続ければよい、ということを含意しているのだろうか。

結論

結論は、「教皇の勧告を実践しましょう」に尽きる。イエス、マリア、ヨセフの家族の祝福を祈り、最後に「恩寵満てる処女、聖母マリア、家庭の女王、我々がその子どもたちである方」(Blessed Virgin Mother, Mary, whose children we are)がフィリピン人家庭を守り、すべての家庭の救い主である御子イエスに近づけてくださるように、と祈って閉じる。

<つぶやき>
いつも思うこと。カトリックでは、この「聖家族」が「家庭の模範」となっているが、これをどう見るか、ということである。プロテスタントとしてすでにかなりのバイアスのある私としてみれば、(今さらではあるが)どう踏み込むのが適切か、改めて戸惑うが、とりあえずこのメモでは偏見丸出しで突進することにする。

この家族、はっきり言って特殊である。プロテスタントでは、マリアはイエスが生まれるまでは処女だったかもしれないが、そのあと二人は夫婦生活を営み、イエスには弟や妹がいる、という理解になっている。だから、まあイエスの生い立ちは特殊として、そこからあとは普通の家庭とも言える。
ところが、カトリックではそうではなく、マリアは終生処女であったと理解されている。だから、子どもも他にはいない。またマリア自身も通常の人間にあるはずの原罪なくして奇跡的に生まれたという「無原罪の御宿り」という独特の事情も加わる。セックスレスの夫婦のもとにひとりっ子、そして偉大な神の子イエス・キリスト、そして実はこのイエスよりもよっぽど頼りにされていて、この教書でも祈りの仕上げもイエスよりもむしろ彼女にいってしまうほどのカリスマ母にして処女というスーパーウーマンのマリア、そこに所在無げな父ヨセフ。

ごーまんかましてよかですか。

正直、この家庭、どう模範にしたらよいのでしょう?

ごーまんかましたところで、長い長い文章を終わりにします。読んでくれた奇特な方、ありがとうございます。そのような方は、「読みました」だけでもいいので、足跡を残していってくださいませ。

2010年3月13日土曜日

BLESSING OR CURSE: CBCP Statement on the Coming 2001 Elections; 24 March 2001

本文は以下のリンクにある。
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2001-election.html

エストラーダ大統領が実質上放逐される形となった2001年はまた、中間選挙の年でもあったことを思い起こさせられる。この声明の出された時は、既にエストラーダ逮捕の報に怒った群衆が、エストラーダ派の政治家の動員によって、エストラーダ放逐運動のシンボルでもあったEDSA大聖堂を占拠し、大統領府に押し掛けて鎮圧されたいわゆる「EDSA3」の熱も冷めやらぬときであった。選挙では、エストラーダの妻が上院議員に立候補して当選するなど親エストラーダ派の健在が示された反面、アロヨ派も一定の勢力を保った。

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声明は最初に、この選挙次第で国の幸不幸が左右される、と宣言する(項目1)。次の聖書の言葉が引用されている。「今日、私(神)はあなたの前に命と死、祝福と呪いを置く」 どちらを選ぶのか問われている、というのである。

その上で、1997年の教書を引きながら、「最近の出来事」は、政治こそが、フィリピンの全面的な発展を阻害している、とし(2)、「政治的な親分子分関係、互酬関係、個人的関係の重要性という破壊的な「ウィルス」がフィリピンの政治文化を毒しており、政治が原理原則や政治家の資質を土台とせず、むしろ金や人気、そして見せかけの約束と言辞を弄して貧民を欺く才にたけていることが政治を動かしている、と断じる(3)。これらの問題は、エストラーダを放逐した2001年の「ピープル・パワー」政変が提起した問題と同じだという。そこから導き出せるのは「政治は道徳の問題と切り離せないし、道徳的原則に忠実でない政治家は指導者たるべからず」ということだという(4)。特に狭い忠誠心や私益を超えて、共通善(common good)を選びとる人間がふさわしいという。つまり肝心なのは、政治指導者が道徳的資質をきちんと備えていることで、選挙ではそういう人を選ぶかどうかで国の未来が左右されるのだ、ということになる(5-6)。

そして政治家にふさわしい資質を列挙する。それは「政治家としての技量(Competence)」「表裏のない良心的な姿勢(Integrity)」「揺るぎない共通善の感覚(An Abiding Sense of the Common Good)」「貧しい人々との連帯(Solidarity with the Poor)」とされる(7)。さらに教会の標語である「神を愛し、人を愛し、国を愛する(maka-Diyos, maka-tao, maka-bayan)」という資質も示される(8)。そして、国の中心的な問題である「平和、正義、開発の諸問題についてきちんと語れることが求められ、これらの問題に対して効果的に取り組める人こそ政治家にふさわしいとする(9)。

最後に選挙監視、選挙教育のNGOへの協力を呼びかけ(10)、神の声を聞いて、目前にある祝福と呪いの中から、祝福を選ぼう、と招く。聖霊と聖母マリアの導きを祈って閉じる(11)。

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選挙によって国の幸と不幸が分けられる、という論調は、教会の教書に一貫して見られるものであるが、これに対してはいくつかの論点が挙げられると思われる。

(1)そもそも、選挙にそこまでの重要性があると言えるのか。選挙がショー的要素やビジネス、利権配分といった面を色濃く帯びざるを得ない社会的背景を考えるとき、たとえ選挙でどういう人が選ばれるかの重要性は否定できないにせよ、フィリピン社会の発展にかかわるのは政策の実施であり、選ばれた政治家と行政機構がどのように住民組織や市民運動と絡み合いながら、どのようにして予算が配分され、施策が決定され、実行されていくのかの過程、そしてそこへの市民参加こそが要となるに違いない。

(2)選挙における具体的な選択肢は、果たして天国と地獄を分けるような性格のものなのか。もちろん、選挙区によっては、どちらを選ぶかが死命を制するような場合もあるだろうが、そもそも立候補者のどの人を選んでも、大枠は変わらない、という現実もあるのではないか。正直なところ、「道徳的な指導者を選びなさい」と教会から言われても、ブラックジョークのように響く場面が多いのではないか、と思わずにいられない。

フィリピンの政治の深刻な現実を知っているはずの教会が、どうしてこういう議論を繰り返してしまうのかまだ釈然としない私がいる。もちろん、聖職者というものは、道徳を語る権威をもつものであり、そこにおいてこそ影響力を誇示できるわけなので、政治に関しても道徳を前面に押し立てることで自らの影響力を示そうとしているのかもしれない。

私の博士論文の中心的なテーマの一つは、教会の政治への参与が、構造的に自らの重要性のアピールにつながっており、その意味では、フィリピン政治の道徳的危機は、フィリピンの道徳指導者を任ずる教会の存在意義を強化するものでもあるという共犯的な構造があるということであったが、ここでもまたそのことが予感されてくる。もっとも、構造としてはともかく、本人たちの意識はそんなにずるがしこいわけではなくて、単純に浮世からずれている、ということにすぎないのかもしれない。

(3)重要性の面でも、また選択の幅の面でも社会的、制度的な限界のあるこの国政選挙(地方選も並行するが)について、国民がどうするかで神が祝福するか呪うかが決まる、というのは神学としてどうなのか、という問いは残るだろう。これはどの程度神の問題なのだろう。またこの選挙はどの程度信仰的決断の問題なのだろう。私は過去の研究で、教会指導者層が、政治参与において国政選挙の場を神聖視してきたことの神学的性格を指摘してきた。

(4)政治家の「資質」の問題については、やはりエストラーダを反面教師とするトーンが端々にうかがわれる。エストラーダ(愛称エラップ)は「貧しい者たちのためのエラップ(Erap para sa mahirap)」として人気を博し、教会の反対と懸念の中で大統領に就任し、最後はスキャンダルで、教会の主流はエストラーダの辞任を要求する動きを決定づけた。特に「貧しい者たちとの連帯」の部分の「この連帯とは貧しい者たちとただ仲良くするとかいうことではなく、公正を追求するよりも支援物資のバラマキによって貧しい者たちの必要を利用することでもない」という部分に、エストラーダへの批判が映し出されている。しかし、教会のいう「貧しい者たちとよく関わり、彼らの必要に気を配り、貧しい者たちを貧困へと縛り付ける政府と社会の諸構造を暴く人である。連帯とは貧しい者たちを優先的に取り扱う愛(love of preference for the poor)である」という美しい言葉は、10年近くを経ていまだに人気のあるエストラーダの存在感を超える現実を生み出すことが今一つできていないのではないか。教会のこの言葉こそここでの言葉を用いるならば、「空虚な約束、空虚なレトリックで貧しい者たちの夢を利用している」(exploit the dreams of the poor through empty promises and empty rhetoric)側面があるのではないか、と問われかねないと思う。

2010年3月10日水曜日

'BEHOLD I MAKE ALL THINGS NEW' January 27, 2001

原文は
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2001-churchrenewal.html

この声明は、1991年の「フィリピン第2教会会議(Second Plenary Council of the Philippines; PCP-2)」の10周年として、司教協議会の1月の定例会議に合わせて行われた「教会刷新に関する全国司牧協議会(National Pastoral Consultation on Church Renewal)」の終了後のアピールである。ちなみにこのNPCCRの包括的な報告書は後日カトリック司教協議会(CBCP)により出版されている。

このような経緯から、この文書は、10年を経て、社会背景がどうなっており、またPCP-2文書が提起した「統合的宣教」に基づいて「弟子たちの共同体」「貧しい者たちの教会」を形成するという目標がどの程度達成されているか、という観点が示されている。(項目1-3)

社会分析については、この10年のグローバル化の進展により、伝統的美徳が犠牲となり、実用主義に代えられている、また貧しい者たちの抑圧も新たな形を取りつつある、そしてエストラーダ政権のスキャンダルのような政府の腐敗がひどいことになっている、と指摘している。総じて、PCP-2で指摘された社会の諸問題の本質は変わっていない、とする。(4)

対して教会もまた、基本的に改善が進んでない、との反省が示される。PCP-2ではさまざまの処方箋が提示されていたが、教会の教育形成が進まず、刷新の方針が定まらず、制度上の不備も重なってそれらの多くは実行されないままであった、とする。(5)

とはいえ、改善の兆しもあるという。諸分野、諸業種における社会的な大義を取り上げる運動が増大してきている。また教会人の中には様々の教会運動や社会運動に献身している人々が増えてきている。さらに、2000年の聖年記念に至るこの数年の祝祭が人々に清めと悟りを与えていると主張する。加えて「ピープルパワーⅡという劇的な出来事において、我々は神がフィリピン人を強めて受け取らせている国の刷新と道徳の刷新という贈り物を目の当たりにし、経験した」とする(6)

以上の情勢分析や評価を受けて、基本的には「より参加型の教会、より正統的な意味で貧しい者たちの教会、より公正な社会建設に資する真に宣教的な教会」という目標を掲げたうえで、優先課題が列挙されている。(7)

A. 統合的信仰形成
B. 社会変革に向けての一般信徒のエンパワメント
C. 教会における貧しい者たちの積極的な存在と参加
D. 宣教の要としての家族
E. 共同体の源としての小教区(parish)を建て上げる参加的諸共同体の建て上げと強化
F. 聖職者の統合的刷新
G. 青年たちと共に歩む
H. 教会一致運動と宗教間対話
I. 宣教に向けての動員と形成

そしてアピール(8)と結論(9)で終わる。教皇の回勅に基づいて、「フィリピンの生活と社会の深みにこぎ出すよう呼ばれている」としている。

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とりあえずのコメント

1.ピープルパワーⅡについてのここでの楽観的で手放しの評価は、これがまさにその直後の文書であり、そのあとの、ピープルパワーⅡへの抗議のような形を取って大きな衝撃をもたらしたいわゆるピープルパワーⅢを体験する前であることが大きいだろう。

2.一般信徒が社会変革の担い手となる、という基本路線を読みながら、一体ここでいう「一般信徒」とはどういう人たちのことを言うのか、と改めて考えてしまった。この人たちは聖職者と一層積極的なコミュニケーションを築きながら、教会と社会に深く根ざしたいわば教会人としても国民(ないし市民)としても確立したアイデンティティをもつ人物、という像が浮かぶが、現実として、この像に対応するものが先立っているのではないように思える。
 私は過去の研究で、教会の政治社会参与が国民のアイデンティティについての覇権的な立場を保とうとする形で行われてきたことを指摘し、このやり方が齟齬をきたしていることを論じたが、ここでは、少々違うニュアンスがあるように思える。つまり、もう少し教会側に引き付けて、教会はそもそも何なのか、カトリックとはだれなのか、について、そのアイデンティティについての明瞭な像を提示することで、教会とカトリシズムのこの社会における正統性を内外に確認する、というややつつましげな方向に教会指導者層がシフトしつつあるのかもしれない、という予感を私は持つ。

3.「貧しい者たちの教会」と言いつつ、優先課題をみると、明らかに「貧しい者たち」は外から教会に新たに参加する存在であり、また客体視される存在である(例えば「我々は物質的に貧しい者たちを差別するメンタリティ、価値観、行為、ライフスタイルから自らを解放することを目指す」は、明らかに貧しい者たちを客体視しているーここでの我々は「貧しい者」ではなく、むしろ彼らを見つめる側にいる)。ここに教会のいわばミドルクラス的(単純化は避けたいが仮にこう言おう)な特徴がよくあらわれているように思える。彼らにとっての「貧しい者たちとしての自分たち」は、客体である貧しい者たちとアイデンティファイする、という営為である。ここでは「我々は福音的に貧しい者でなければならない」とある(もしかするとこれは修道士の誓約する「清貧」と重なるのかもしれない)。この「貧しさ」は主体的で選択された「貧しさ」である。7Cの項目の最後の文章は、それをよくあらわしている。
「貧しい者たちとして、貧しい者たちのただ中で、貧しい者たちと共に、十字架につけられよみがえったイエス・キリストへの共通の信仰を理解し、生き、祝い、共有するのです。」

4.聖職者のライフスタイルへの批判が盛り込まれている。特に貧しい人々と共に生きるというところからほど遠い聖職者に変化を求めている。こういう視点がこれまでなかったわけではないが、どちらかというと社会の側の病理をもっぱら批判し、教会指導者の権威を強調する論調が支配的であったところからの変化がよくあらわれていると思う。

5.青年とはどういう人たちと捉えられているのかも興味深い。ここでも青年は客体化されており(ここでは「我々は青年たちとの対話を行う」という表現が出てくる)、教会の主体が壮年、老年層であることを改めて想起させられる。聖職者の高齢化が進行している現状とも無関係ではないのだろうと思ったりする。
「我らの人口の中で青年が最も多く、我々の教会の中で最も活発な人々でもあるが、勃興しつつある技術社会において最も脆弱な存在でもある。」

2010年3月8日月曜日

プロジェクト:ポストEDSA2のフィリピン・カトリック教会

これから、このブログを用いて、2001年1月にエストラーダ大統領が「市民社会運動」によって放逐されたいわゆる「EDSA2」以降のカトリック教会についての研究メモを少しずつ書きためて行こうと思います。さしあたっては、カトリック司教協議会が出してきた司牧教書Pasoral Documentsの内容を整理し、注目すべき点を書き記していこうと思います。