2010年3月30日火曜日

THE CHRISTIAN FAMILY: GOOD NEWS FOR THE THIRD MILLENNIUM; 2 December 2002

原文は
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2002-4thworldmeetingoffamilies.html

原題は
THE CHRISTIAN FAMILY: GOOD NEWS FOR THE THIRD MILLENNIUM
A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines for the Fourth World Meeting of Families

再び「家庭」を主題とした、再び包括性のある声明である。そしてこれもまた、バチカンの動きと関わっている。当時のヨハネ=パウロ2世教皇主催の「第4回世界家族会議(Fourth World Meeting of Families)」がマニラで翌2003年1月22-26日に開催されるに際してこの声明が出されたのであった。

声明は、マニラが選ばれたことを名誉とし、フィリピン人クリスチャン家庭が会議の標語「第三千年紀のための福音(良い知らせ)(Good News for the Third Millennium)」となるようにとの神の呼びかけ(神の召しdivine call)である、とする。

1.家庭についての悪い知らせ(Bad News)
家庭は悪い知らせでもありうるという。特に貧困による極度の圧力、出稼ぎによる家庭崩壊、児童労働、ストリート・チルドレンなどの問題がまず挙げられるが、特に問題にしているのは、「物質主義的で消費主義的な価値観」(materialist and consumerist values)がマスメディアを通じ貧しい人々にまでサブリミナルに刷り込まれ浸透しつつあり、これが「福音の価値観」(Gospel values)に重大なダメージを及ぼしている、という点である。これにより結婚しないで親になるケースが増え、「ケリーダ(愛人)・システム」も容認されてしまっているとする。

特に問題とされているのは、離婚の合法化を目指す法案が繰り返し上程されていることであり、この法案の推進者は離婚を一度容認し、結婚の神聖性の意味が衰退した国ではかつてないほどの社会的・道義的な問題が起こってきたことがわかっていない、という。さらに「選択の自由」「リプロダクティブ・ヘルス」の名の下に中絶を容認したり、ピルを解禁することで違法な中絶の変わりに、実質上「安全な」中絶を提供しようとする動きが世界的にあると警鐘を鳴らす。「女性は自身の体についての権利がある」というそうした人々に対して、教書は「神がわれわれすべてをただ神に仕える者として創造され、われわれは道徳的原則に導かれなくてはならないという宗教的、道徳的現実」を無視していると反論する。

こうして「死の文化」(culture of death)が確立し、生まれる前も含めたすべての人間の尊厳と価値に関する、命、死、愛、結婚、家庭、他社関係についての「福音の価値観」は死に追いやられている、とする。


2.クリスチャン家庭は良い知らせ(Good News)

これに対し、すべての家庭はそもそも神が共におられ、私たちを愛しておられるということのしるしであるとし、特にクリスチャン家庭はミニチュア教会たる「家の教会」(domestic Church)として特に祝福されたものであって、フィリピン社会の進歩に著しく貢献しており、フィリピン人の大半のキリスト教信仰と並び、クリスチャン家族はフィリピン国家にとって神よりの真に最大の贈り物となりうるという。

創世記にあるとおり、家庭は男女の結婚愛の場として神の愛を反映する場であり、新しい命の宿る実り多い場でもあって、子どもはよい知らせであり、結婚のもたらす最上の贈り物であるという。また神の子がマリアとヨセフの家庭にやってくることにより、結婚はいっそう祝されたものとなり、結婚はキリストの秘跡のひとつとなり、ご自身の人間家庭に対する忠実な愛のしるしともなったという。だから結婚に問題が生じやすいことは知りつつも、イエスは「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」と言われたのだ、という。

そしてクリスチャン家庭が「死の文化」と対照的によい知らせであることを再度確認する。

3.使命に生きる家庭:イエスの福音(Good News)を知らせる

クリスチャン家庭の使命はイエス・キリストの福音を生活のあらゆる側面において宣べ伝えることであり、それは第1に愛に満ちた家庭を形成すること、第2に「神の像」(divine image)を人から人へと伝達することで子を産み育て、命に仕えること(特に中絶や政府推奨の人口抑制プログラム、「避妊メンタリティ」を拒絶すること)、そして社会と教会の刷新を支援することであるという。キリストの価値観を子どもの内に形成することは社会全体の変革につながるという。

社会変革のために、諸家庭は、法制度が家庭の権利と義務を支援し、積極的に守るようになるべく、政治的に介入しなくてはならないという。また社会正義を促進し、貧困を除去し、否定的な文化価値によって「損なわれた」(damaged)といわれることもある現在の文化を刷新することに積極的に参加すべきである、という。

そして家庭は教会の刷新の業に参加しなくてはならない、というのも、教会が「正統的な弟子たちの教会、真実な共同体、貧しい者たちの教会、参加的教会、文化に根付いた教会となる」というのが自分たちの教会としてのビジョンであり、この困難なビジョンをリードするのは家庭でなくてはならないからだという。

4.結論:証言する使命を担う家庭

教皇ヨハネ=パウロ2世が、家庭が本来の姿になることを呼びかけたことを想起しつつ、教書は、すべてのカトリック教育機関とすべての小教区に家庭形成のための教育にまい進するよう呼びかけ、最後は聖母マリアのとりなしを祈って終わる。

***

いくつかの点について考察してみる。

1.フィリピン人の大半がクリスチャンで、なおかつ家庭を大事と考える価値観を持っている、というのは実感も含め異論、違和感はない。ただ、それをどの程度、どういう意味で「福音の価値観」と呼ぶのか、またいわば「神の恵み」という鉄壁の強さを持つはずのものによってもたらされているはずのフィリピンのキリスト教化、そして福音の価値観というものが、どうして、どのようにして「物質主義的で消費主義的な価値観」によって掘り崩されているというのか、という内在的な考察がない。では、どういう考えなのか。

「福音の価値観」はアプリオリにフィリピンに存在するものとなっている。これは、過去、現在の教会の働き、教会形成、宣教活動、家族関係のケアなどの主体的な働きについての吟味につながらない。
これに対して、「物質主義・消費主義の価値観」は巧妙にひそかに、権力とマスメディアを通じてこれを掘り崩している。つまりはずるがしこい闇の力であり、かつある種帝国主義的なものとしての含意がある。こうなると、悪いのはそっちだということになり、警戒、非難、そして現状維持(のために家族計画に関するほうを悪魔的なものとし、断固排除すべきものとする声高な姿勢)につながってくる。
しかし、問題が価値観ならば、解決は価値のレベルのことであり、法制度の問題はそれとの関連でこそ考えられるべきなのに、教会として自分たちの現場、足元で、また家庭の現場で、どのような価値観をどう構築してきたか、どうしているのか、どうしていくのかがこの文章でも、また前年の文書でも(今に至るまで)見えない。

2.そもそもカトリック聖職者が、家庭のあり方について云々するときに、いわく言いがたい違和感が残る。もちろん、宗教指導者が家庭のあるべき姿について語るのは別にそれ自体でどうのということではないだろうが、それでも、いくつかの論点を拾うことはできそうである。なによりも、彼らは自分たちで家庭を築かない人たちであることが、ここでいくつかの問いを生じさせるように思える。というのは、彼らこそ、家庭というものの価値を相対化しているのであり、それはキリスト教のより広い伝統にも符合しているといえる。ところが、ここでは家庭が生み出す価値というものが、恐ろしく高く評価されている。そこで二つの方向で問いが出される。

ひとつは単純に、自分たちが主体とならない家庭の問題について、彼らが指導者として模範を見せることもないまま権威の座から語り続けるということの特異性である。結婚しない人が結婚のすばらしさについて、子どもを持たない、家庭を持たない決意をし、誓約をしている人が、子を宿すこと、家庭を築くことの重要性について力説していることは、ある種のねじれと疎外を信徒に与えるのではないか、と思われる。そんなこと言ったってあなたは独身の誓約をし、聖職者になることの特別な祝福を強調しているではないか、そもそも家族を持っていないくせに、家族のことについてわかるのか、口出しする資格があるのか、という問題である。

もうひとつはそのような独身聖職者が妙に結婚や家庭の至上性を強調しているところから来る。やはり結婚しない上座仏教の僧侶は家庭の価値について、ここまで積極的には語らないだろう。家庭も大事だが、出家というもっと大事な価値もある、というであろう。それがここにどうして見当たらないのかと思わずにおれない。キリスト教という宗教の存在感は、家庭よりもむしろ個人の神への献身によって現されてきたはずであり、それはむしろ家庭を相対化するような側面を持っていたはずであろう。家庭が文化を作り、文化が社会を作る、というのは、いかにも構造機能主義的な理解であって、宗教の持つ超越的な側面がぼやけてしまっている。

3.総じて言うと、いつもの話だが、やはりキリスト教社会を保守したい、という願望がよく現れているように思える。その観点からの現状の脅威認識であり、自らのなすべき働きに言及しないままの課題の一般信徒への丸投げである。そうしたことを、教皇の定めた祝祭に合わせる形で上手に纏め上げたこの文書を読んで、残るのは、やはり教会にはこの国について、家庭について、具体的な代替的政策案や方策を提示できていない、という印象ではないか。離婚や中絶の容認と人口抑制計画の推進といった政策の背後には、やむにやまれぬ人々の現実がある。教書は、ここに届いていない。現実を死と呼び、それと結びつかない理想を掲げ、それをフィリピン家庭の本来の姿だといって終わってしまっている。

どうしてこのように、地に足のつかないものになってしまうのか。この「地に足の着かない感じ」は、フィリピン社会において指導的な立場にある人たちの文化を理解する際のひとつの鍵になるのではないかと思うし、その背後にあるものを注視していかないといけないと思わされている。

2010年3月29日月曜日

HOPE IN THE MIDST OF CRISIS; 7 July 2002

本文は下記の通り。

http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2002-hopeincrisis.html

内容は、7月の司教協議会の総会を経て公表された一般向けメッセージであり、自然災害、政治社会の諸問題に加え、教会における聖職者の性的不品行(sexual misconduct)を取り上げ、不始末をわびるとともにこれを神学的に解釈し、問題が山積する国情のもとでなお希望を持って生きることについて簡潔に述べている。

声明はまずその時期に襲った台風、引き続く貧困問題、犯罪、暴力、政治不正等を挙げ、希望を失いかねない危機の現状を述べたあと、聖職者達(司祭と修道士)による性的不品行が教会を揺るがしたことに言及する。これについて、①キリストの祭司職の聖性を裏切るものである、②「聖にして罪人の集いである」という教会の神秘を指し示すものであるという二様の理解を示した上で、神からの勇気という贈り物によって自分たち牧者(We your Pastors)は、一部指導者達がその群れ(flock)の人々に対して犯した重大な罪を「赦してほしい、と謙遜に求める」(humbly ask for forgiveness)という。このような行いは司祭にふさわしいものではなく、大多数の司祭と修道士はそのつとめに忠実であることを確認するとともに、謝罪した以上必ず刷新をなさなくてはならないと認識している、とする。今後専門家と広範に協議しつつ様々の性的虐待、性的不品行の問題を扱う規約の作成に取りかかっているという。

旧約聖書ミカ書の「正義を行い、憐れみを愛し、へりくだって神と共に歩め」を引き、この言葉に、嵐のただ中を生きるがごとき我々は希望を見いだす、という。そしてこれを教会指導者の歩むべき道として解説している。そしてフィリピンがよりよくなることへの希望、教会の聖性への希望は、この正義の実行、愛、そして謙遜な神とともなる歩みによってもたらされるものであり、このような生き方自身、神の恵みである、とする。

そして最後に、イエスが「希望を持て! 信仰を持て」と言っておられ、彼にこそ希望があり、この希望は失望に終わることがない、と結んでいる。

***

この時期、CBCPの中では、将来を期待されていたヤルン司教の隠し子騒動が起こっており、この後には高齢と健康問題故に引退を目前にしていたカリスマ的指導者であった当時のマニラ大司教であったシン枢機卿後の次世代の指導者として期待されていた著名なバカニ司教にも及び、彼らの事実上の更迭にまで至った。それ以外にも様々な性的スキャンダルが取りざたされた。

この文章にショックを受けたはずの彼らなりの誠意というものを読みとることは出来るだろう。具体的に規約を作成する(実際に数年後にできたと聞いている-原文は私は未確認だが)というところにそれなりの本気が現れていると思う。

ただ、いくつかの問題が残っていることも指摘していいと思う。私自身はプロテスタントであり、世界的にプロテスタントも含め、性的不品行や虐待のケースが続々と公になる現状を鑑み、決してカトリックだけの問題としないようにすべきだと意識しつつ、述べていきたい。

1)この時期の新聞記事を読んでいたときの記憶によると、教会側は強制性のあるセクシャルハラスメントや性的虐待のケースと、合意の上で成り立つ「不適切な性関係」(illicit love affair)を一つにして扱ってきた。この文書にもそういう態度が現れている。バカニのケースは前者(セクシャルハラスメントの容疑、被害者の訴えに対し、本人は「そのつもりはなかったが、不適切な親密さの表現があった」として謝罪した)、クリソストモ・ヤルン(Crisostomo Yalung)司教の場合は後者(不倫の末の隠し子がいた)であった。また後には、自分たちの関係を認め、結婚式を行い、教会当局に聖職者の結婚を認めるべきだと主張するに至った聖職者達もいる。世俗的にいっても前者は刑法犯だが、後者は犯罪の範疇ではない。
http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/byalung.html
http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/bbacani.html

 勉強した上で結論を出すべきなのだろうが、今仮説的に考えているのは、カトリックでは結婚という秘跡(サクラメント)を非常に重くとらえているため、両者ともこの秘跡違反という観点からはとんでもなく重大な違反、ということになるということなのかもしれない。さらに言えば、叙階(つまり聖職者としての任命)も秘跡であり、このときに貞節の誓約をするので、これを破ることもまたとにかくとんでもない罪(教書に使われた言葉で言えばgrave sin)であるだろう。それは司教達がこの叙階の秘跡に基づく権威であるが故に、何にも勝る問題であるのだろうと思う。

2)確かに被害者への謝罪はあるが、問題があくまで教会の聖性をどうするか、希望をどう持つか、ということに当てられていることに、どうしてもある種の不誠実さというか、身勝手さを覚えるのは私だけだろうか。大事なのはまず教会のことなのか。少なくとも、被害者の痛みの側に立つ姿勢からは遠く見える。これは自己吟味を迫る考察でもあるかもしれない。というのも、自己弁護というものをどう見るかは、日本的な文化の問題とも関わるように思うからだ。日本では、過ちを犯したものが自己弁護するのは見苦しい、という美意識というか感覚があるように思う。しかし、これではまだ主観的な言葉にすぎない。これは学的な議論の中にどの程度持ち込める見方なのだろうか、考えていかなくては。

3)もう一つ、この文書で扱われていない問題がある。この数日また世界的にクローズアップされてきているが、当時からあった「隠蔽」の問題である。新聞記事やCBCPのニュースサイトの記事を読んできた記憶では、教会はこの問題については否認するばかりで、組織的隠蔽があったのかどうか真相を究明する姿勢を見せていなかったはずである。最近のニュースによると、アメリカにおける大規模で悪質な聖職者による性的虐待事件についての告発を、現教皇がバチカン教理省長官時代に握りつぶしていたとの疑惑も浮上しているという。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201003/2010032500641
バチカンの教皇擁護論の紹介として次の記事もあります。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2713529/5537686

という中で、やはり問題の根本的な対処よりも、むしろ組織の防衛と活動の通常への回帰に(おそらく無意識にではなかろうかと推察するのですが)向かおうとしている姿勢が反映された文書である、と読むことができると思われる。

しかし、教会は道徳指導者であってこそその権威が保たれると言うもの。Social Weather Stationsなどの調査を見ても、今に至るまで人々の教会への信頼は基本的にはさほど揺らいではいないようではあるが、このようなスキャンダルとこのような逃げの対応は、この10年ほど欧米で見られるように、長期的な信頼と権威の喪失に繋がっていく可能性があるのではないか。フィリピンにおけるカトリック(教会も、人々の信心も)はどこに向かっているのか、注視していきたい。

2010年3月16日火曜日

SAVING AND STRENGTHENING THE FILIPINO FAMILY; 02 December 2001

正式にはタイトルは以下の通り。
SAVING AND STRENGTHENING THE FILIPINO FAMILY
A CBCP Pastoral Statement on the 20th Anniversary of Familiaris Consortio
02 December 2001
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2001-familiaris_consortio.html

前教皇(当時は現役)ヨハネ・パウロ2世の使徒的勧告『家庭 愛といのちのきずな(Familiaris Consortio)』の20周年を記念したもので、緊急の呼びかけなどと異なり、計画的に準備して書かれた大部のある程度教えを総合的に述べた文書であると言ってよい。今回は長いので、折々ごとにコメントを盛り込んでいく。

***

1.導入、フィリピン人家庭の状況

教皇が、家庭が現代、さまざまの危機にさらされている、と指摘していることを取り上げ、フィリピン人の家庭をこの観点から分析している。

フィリピンにおいては家庭になお高い価値が置かれており、家族関係、結婚、子ども、お年寄りを大事にする傾向がみられると称賛する。また1987年憲法が、1973年憲法にはなかった家庭優先(pro-family)、命優先(pro-life)の特徴があり、これが家庭を大事にする価値観(family values)を強力に支援しているとする。

しかし多くの社会状況が家庭を破壊し、ゆがめているという。クリスチャン夫婦、親としての責任を果たすのに欠かせないはずの教会での結婚という秘跡(sacrament)なしに同棲する男女が増えていること、結婚の前にほとんど準備をしなかったり、お互いの価値観を確認しなかったりする場合も多いこと、婚前の妊娠や駆け落ちが当たり前になっていること、海外出稼ぎによって家族がバラバラになり、子どもが犠牲になり、しばしば家庭崩壊に至ることが指摘される。有名人の不倫が結婚における貞節の評価を下げ、ポルノの蔓延は結婚の絆と「性という贈り物の聖性の感覚」(sense of the sacredness of the gift of sexuality)を弱めており、薬物の蔓延も家庭や共同体の安定を揺るがしているという。またいわゆる先進国の現代的な考えなるものがマスメディアを通じて広められ、これが家庭を重んじる価値観をゆがめ「結婚、家庭、人の命を重んじる我々の伝統的な姿勢」(our traditional esteem for marriage, family, and human life)を損ねているという。

そして、現在、「我らの宗教的信仰が理解するところの家庭というものを究極的に破壊するであろうと、我々が固く信じるような提案」を立法府が提案している、とする。離婚を認容し、憲法における中絶禁止条項を削除し、人口抑制政策を強行する諸法案である。また同性愛関係を新たな家庭のあり方として容認すべきとの声もあり、さらに学校において、命と「性という贈り物の聖性」を大切にしない性教育のプログラムが施行されようとしている、と警鐘を鳴らす。

<つぶやき> 前回と同じような話だが、ここにもあるのは、「悪い者は外から来る」という理解。「フィリピン人は元々はいいのだけれど、近代化でだまされて悪くなっている。テレビに欺かれている。有名人の悪い模範に惑わされている。先進国の考えに汚染されてきている…」 だから、法律で守る、という発想になるのだろうか。しかし、昔の人々がそんなに「いい」のなら、そんなに簡単に「堕落」していくであろうか、現状問題がこれほどあるというのなら、実は昔からその問題の根になるようなこともあったと考えられないのであろうか。
 全国展開し、多くの信徒を傘下に持っているはずの教会が本来できるはずのことは、人々の日常に近づき、そこにおいて対話し、仕えることで体質づくりをしていくことであって、問題は法ではないのかもしれない、という、いわば権力や政治的影響力をあまり持たない運動体であれば自然なアプローチが、ここには見えてきにくいようだ。

2 使徒的勧告の教え

これらの現状に対し、教皇の使徒的勧告の導きを求めるべき、とし、①コミュニティ形成、②命への奉仕、③社会の開発に参加すること、④教会の生命と使命遂行にあずかること、の4点を挙げ、以下展開していく。


3 コミュニティを形成し離婚にNoと言う

 マタイによる福音書19章6節を引きつつ、夫婦間の契約としての結婚は解消不能である、とする。夫婦生活の要は「誠実さ」(fidelity)「忠実さ」(faithfulness)であり、神の恵みが働くゆえに困難があっても乗り越えられるとする。この夫婦間の「結び合い」(communion―カトリックの秘跡としてのミサ聖祭にも用いられる言葉)は親子兄弟関係の土台であり、秘跡の受けることにおいて、また聖霊の賜物として、愛という自然な「結び合い」は家庭内の人々をキリストと、そして神の民と結び合わせる、とする。「犠牲、忍耐、許し、和解の大いなる精神を通して初めて家庭内の結び合いは保たれ、完成される、とする。

<つぶやき> もしそうなら、やはり家庭が実際にはうまくいかないケースが少なからず起こってくるのは必然、という結論になるのでは?とつい私は思ってしまう。うまくいかなかったとき、それでも離婚を避けるべきだとするなら、破たんの危機に直面した家族はどうすればよいというのか、そこの処方箋が現状のカトリック教会には欠けているのではないか、という疑念が消えない。


4 生命に仕え、生命に反するメンタリティと政策を拒絶する

第2の働きとして、子どもを産み育てることが挙げられる。ここで掲げられる使命は崇高なものに響く。「人間の生命の本質的な価値、特に自由についての正しい態度、真実な正義の感覚、さらに真実な愛の感覚、ことに貧しい者たちに対する愛の感覚」を教育するように、としている。そして、「明瞭かつ繊細な性教育を施す」ことで、「セクシュアリティにおいて確実に責任ある人格的な成長を遂げさせる道徳規範の知識と尊重の姿勢をもつようにする」べきであるとする。

<つぶやき> 家庭に対するこの現実離れでは、と思わずにいられない讃美、期待の大きさ、過大な要求は、やはり家庭をもたないカトリック聖職者の地に足のつかない演繹的な議論とみるべきか、あるいは現状の問題に教会がどう取り組むか、という難問を回避し、家庭に多くを要求しているということなのだろうか。

5 社会の開発に参加し、教会の生命と使命にあずかる
・社会と教会の刷新

ここでは、「家庭の政治(politics of family)」が提唱される。家庭の日常に存在する(という)「結び合い」と「分かち合い」こそが社会を土台から支えているから、この「家庭の政治」の社会介入を政府は妨げず、むしろ支援すべきである、とする。これは社会を変革することで「結婚という秘跡の徳によってキリスト者夫婦が持つ王者のごとき奉仕の働き」を全うすることであるという。
また、家庭はまた、「イエス・キリストとその教会の三職(預言者、司祭、王)への参加」を家庭内の相互の愛によって表現し現実化するという。そして、カトリック教会内のさまざまな家庭支援のプログラムや組織が紹介されている

<つぶやき>
家庭内の愛が社会を変革する、というのは理念やイメージとしては大変結構なことだが、「結婚」「家庭」が教会と社会の半ば無条件の媒介者として位置付けられているのは、果たして現実的な理解なのか。「秘跡」(つまりは聖職者階級の信徒階級への権威作用)が、結婚に社会変革という軌跡を担ういわば魔力を無条件に与えているような印象を受ける。

・社会正義の促進と貧困の根絶

上記教会の「家庭使徒職」(family apostolate)活動に関わる人々に対して、まず第1に貧困問題に注目するようにと呼びかける。貧困は家庭を破壊するものであり、神のみ心に反するという。貧富格差のはなはだしい中で、われわれはみな社会正義、公共善(common good)の正義を追求すべきであり、国の物品(goods)の公平な分配を要求すべきである、という。
そして、政府に対し、貧困の根絶のために、貧しい人々のための住宅、教育、医療政策に力を入れるよう呼びかける。このような中で汚職は多くの人々に益するはずの信じがたいほどの額の公金をかすめ取る最悪の盗みの罪である、と糾弾する。
ビジネス指導者に対しては、利潤追及を超えた貧困者への配慮、そして雇用創出努力を呼びかける。そしてしばしば引かれる新約聖書、マタイ福音書25章のイエスの言葉「これらの最も小さなものたちにしたのは、私にしたのである」で閉じる。

<つぶやき>
重要な問題ではあると思うが、少なくとも捉え方が貧困家庭の側の視点ではないという印象をもつ。こうした家庭がどのように自立していくのか、当事者は当事者の立場からいろいろ模索しているのだと思うが、そこの評価が抜けたまま、政府とビジネス指導者に呼び掛けるというのは、やはり教会の関心はそのあたりにあるのかな、と思わさせられる。

国がよくなるためには政府と産業界が頑張るべし、というのは勿論一つの分かりやすい、支配的な考えではあると思う。極端な場合、私が知る中では例えばマニラ首都圏オルティガスのグリーンヒルズ・クリスチャン・フェローシップ(GCF)のように、ビジネスマンをターゲットに教会形成し、彼らのような社会において指導力も富もある人々が変われば国全体が変わるはず、という考え方で行くようなやり方すらある。カトリック教会の場合それとは異なるにせよ、やはり、このGCF流のいい方でいえば「戦略的に重要な人々」の動向こそが問題であり大事だ、という発想は共通のものであると思われる。これも一つの考えではあるが、教会のあり方として、これをどう評価するのか、興味深いと思った。

6 家庭の文化を刷新する

もう一つ第2に深刻な問題は家族の浄化(purification)と道徳的刷新(moral renewal)であるという。子どもたちは大人たちの姿、映画、テレビを見て悪い影響を受け、また「物質主義的、世俗主義的なグローバル文化」(a materialistic and secularist global culture)がフィリピン人家庭にひどい影響を及ぼしているという。

他方でフィリピン家庭には元々、自分たちの家庭を偶像化し、その利益のために公共善を犠牲にする悪い側面もあり、これが様々な汚職や私利私欲の原因になるという。

7 家庭を聖性の学校とする

これに対し、家庭はむしろ筋を曲げぬ誠実さ、正義、平和、愛の最初の学びやたるべし、という。2001年の初めて夫婦が列福された(beatified)ことを挙げ、優れた子どもを育てることの素晴らしさ、結婚生活がお互いを聖なるものとすることを表しているという。これは教会の教えなしでは成し遂げられない、という。とくに婚姻の秘跡が結実したのであり、聖餐の犠牲の秘跡によってキリストと教会の愛の結合に連なることで夫婦は養いと力づけを受け、和解の秘跡(告解)により許しと刷新を受けた、といったことが重要であるという。
特に家族一緒に祈り(特に家庭ロザリオ)を唱えることが重要だという。
フィリピンでは祈りにおいて父親が模範もリーダーシップも示さないのが悲劇的であり、父の祈りが特に不可欠である、と強調する。

<つぶやき>
秘跡…どうもこの言葉のカトリック特有の使い方の理解はとても重要であると思う。プロテスタントでは「聖礼典」と呼ばれる(洗礼と聖餐の二つの場合がほとんど‐カトリックは7つ)が、カトリックに比べると重要度が低いといえる。聖書の説教や勉強会、教会形成・運営、メンバー間の交流、伝道集会などのイベントの方が重要となる。カトリックにもこれらの側面はあるが、これらを包摂するのが秘跡であり、教会というもの自体が包括的に「秘跡的なもの」として理解されている。これは単に神からの恵み、という超越的な面だけで理解されているのではなく(これだけならばプロテスタントでも似た理解は可能)、その恵みはキリストが立てた指導者ペトロの正統な後継者であるバチカンとその配下にある司教(そしてその代理者としての司祭)による典礼を通じて注がれるものとされる。
だから、秘跡という言葉と特定の世俗の事象(例えばここでの「家庭」など)が結び付けられると、それらが神の祝福のもとにある、というだけでなく、位階制聖職(教会ヒエラルキー)の監督のもとに置かれている、ということになってしまう。だから、「秘跡」は、単に超越的な「恵み」の概念のもつある種のヘゲモニーのみならず、そのヘゲモニーが具体的な組織によって独占されていることを表すことになる。
これは、もっと考察する価値がありそうだと直感する。
とすると、教会もまた秘跡そのもの、と捉えられているわけで、「教会」という概念も、この視点から改めて考察することもできるのだろうと思う。


8 宣教の焦点としての家庭

家庭は「第一義的で生き生きとした社会の核」であるとともに、「家族的教会」「家における教会」すなわち愛といのちの共同体であるという。
すでに以前取り上げた2001年初頭の「教会刷新に関する全国司牧会議」(national Pastoral Consultation on Church Renewal)では家庭こそ福音化(evangelization)の焦点でなくてはならないとした。教書の当事者である司教たち(「あなた方の司教たちである私たち」(we your Bishops))も改めてフィリピン人の家庭を守り強めることに献身するという。

<つぶやき>
いつものことではあるが、具体策がない。この問題は長期的な課題でありつづけていることを考えれば、繰り返される、「努力を傾けなくてはならない」は、これまでしてきたことを続ければよい、ということを含意しているのだろうか。

結論

結論は、「教皇の勧告を実践しましょう」に尽きる。イエス、マリア、ヨセフの家族の祝福を祈り、最後に「恩寵満てる処女、聖母マリア、家庭の女王、我々がその子どもたちである方」(Blessed Virgin Mother, Mary, whose children we are)がフィリピン人家庭を守り、すべての家庭の救い主である御子イエスに近づけてくださるように、と祈って閉じる。

<つぶやき>
いつも思うこと。カトリックでは、この「聖家族」が「家庭の模範」となっているが、これをどう見るか、ということである。プロテスタントとしてすでにかなりのバイアスのある私としてみれば、(今さらではあるが)どう踏み込むのが適切か、改めて戸惑うが、とりあえずこのメモでは偏見丸出しで突進することにする。

この家族、はっきり言って特殊である。プロテスタントでは、マリアはイエスが生まれるまでは処女だったかもしれないが、そのあと二人は夫婦生活を営み、イエスには弟や妹がいる、という理解になっている。だから、まあイエスの生い立ちは特殊として、そこからあとは普通の家庭とも言える。
ところが、カトリックではそうではなく、マリアは終生処女であったと理解されている。だから、子どもも他にはいない。またマリア自身も通常の人間にあるはずの原罪なくして奇跡的に生まれたという「無原罪の御宿り」という独特の事情も加わる。セックスレスの夫婦のもとにひとりっ子、そして偉大な神の子イエス・キリスト、そして実はこのイエスよりもよっぽど頼りにされていて、この教書でも祈りの仕上げもイエスよりもむしろ彼女にいってしまうほどのカリスマ母にして処女というスーパーウーマンのマリア、そこに所在無げな父ヨセフ。

ごーまんかましてよかですか。

正直、この家庭、どう模範にしたらよいのでしょう?

ごーまんかましたところで、長い長い文章を終わりにします。読んでくれた奇特な方、ありがとうございます。そのような方は、「読みました」だけでもいいので、足跡を残していってくださいませ。

2010年3月13日土曜日

BLESSING OR CURSE: CBCP Statement on the Coming 2001 Elections; 24 March 2001

本文は以下のリンクにある。
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2001-election.html

エストラーダ大統領が実質上放逐される形となった2001年はまた、中間選挙の年でもあったことを思い起こさせられる。この声明の出された時は、既にエストラーダ逮捕の報に怒った群衆が、エストラーダ派の政治家の動員によって、エストラーダ放逐運動のシンボルでもあったEDSA大聖堂を占拠し、大統領府に押し掛けて鎮圧されたいわゆる「EDSA3」の熱も冷めやらぬときであった。選挙では、エストラーダの妻が上院議員に立候補して当選するなど親エストラーダ派の健在が示された反面、アロヨ派も一定の勢力を保った。

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声明は最初に、この選挙次第で国の幸不幸が左右される、と宣言する(項目1)。次の聖書の言葉が引用されている。「今日、私(神)はあなたの前に命と死、祝福と呪いを置く」 どちらを選ぶのか問われている、というのである。

その上で、1997年の教書を引きながら、「最近の出来事」は、政治こそが、フィリピンの全面的な発展を阻害している、とし(2)、「政治的な親分子分関係、互酬関係、個人的関係の重要性という破壊的な「ウィルス」がフィリピンの政治文化を毒しており、政治が原理原則や政治家の資質を土台とせず、むしろ金や人気、そして見せかけの約束と言辞を弄して貧民を欺く才にたけていることが政治を動かしている、と断じる(3)。これらの問題は、エストラーダを放逐した2001年の「ピープル・パワー」政変が提起した問題と同じだという。そこから導き出せるのは「政治は道徳の問題と切り離せないし、道徳的原則に忠実でない政治家は指導者たるべからず」ということだという(4)。特に狭い忠誠心や私益を超えて、共通善(common good)を選びとる人間がふさわしいという。つまり肝心なのは、政治指導者が道徳的資質をきちんと備えていることで、選挙ではそういう人を選ぶかどうかで国の未来が左右されるのだ、ということになる(5-6)。

そして政治家にふさわしい資質を列挙する。それは「政治家としての技量(Competence)」「表裏のない良心的な姿勢(Integrity)」「揺るぎない共通善の感覚(An Abiding Sense of the Common Good)」「貧しい人々との連帯(Solidarity with the Poor)」とされる(7)。さらに教会の標語である「神を愛し、人を愛し、国を愛する(maka-Diyos, maka-tao, maka-bayan)」という資質も示される(8)。そして、国の中心的な問題である「平和、正義、開発の諸問題についてきちんと語れることが求められ、これらの問題に対して効果的に取り組める人こそ政治家にふさわしいとする(9)。

最後に選挙監視、選挙教育のNGOへの協力を呼びかけ(10)、神の声を聞いて、目前にある祝福と呪いの中から、祝福を選ぼう、と招く。聖霊と聖母マリアの導きを祈って閉じる(11)。

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選挙によって国の幸と不幸が分けられる、という論調は、教会の教書に一貫して見られるものであるが、これに対してはいくつかの論点が挙げられると思われる。

(1)そもそも、選挙にそこまでの重要性があると言えるのか。選挙がショー的要素やビジネス、利権配分といった面を色濃く帯びざるを得ない社会的背景を考えるとき、たとえ選挙でどういう人が選ばれるかの重要性は否定できないにせよ、フィリピン社会の発展にかかわるのは政策の実施であり、選ばれた政治家と行政機構がどのように住民組織や市民運動と絡み合いながら、どのようにして予算が配分され、施策が決定され、実行されていくのかの過程、そしてそこへの市民参加こそが要となるに違いない。

(2)選挙における具体的な選択肢は、果たして天国と地獄を分けるような性格のものなのか。もちろん、選挙区によっては、どちらを選ぶかが死命を制するような場合もあるだろうが、そもそも立候補者のどの人を選んでも、大枠は変わらない、という現実もあるのではないか。正直なところ、「道徳的な指導者を選びなさい」と教会から言われても、ブラックジョークのように響く場面が多いのではないか、と思わずにいられない。

フィリピンの政治の深刻な現実を知っているはずの教会が、どうしてこういう議論を繰り返してしまうのかまだ釈然としない私がいる。もちろん、聖職者というものは、道徳を語る権威をもつものであり、そこにおいてこそ影響力を誇示できるわけなので、政治に関しても道徳を前面に押し立てることで自らの影響力を示そうとしているのかもしれない。

私の博士論文の中心的なテーマの一つは、教会の政治への参与が、構造的に自らの重要性のアピールにつながっており、その意味では、フィリピン政治の道徳的危機は、フィリピンの道徳指導者を任ずる教会の存在意義を強化するものでもあるという共犯的な構造があるということであったが、ここでもまたそのことが予感されてくる。もっとも、構造としてはともかく、本人たちの意識はそんなにずるがしこいわけではなくて、単純に浮世からずれている、ということにすぎないのかもしれない。

(3)重要性の面でも、また選択の幅の面でも社会的、制度的な限界のあるこの国政選挙(地方選も並行するが)について、国民がどうするかで神が祝福するか呪うかが決まる、というのは神学としてどうなのか、という問いは残るだろう。これはどの程度神の問題なのだろう。またこの選挙はどの程度信仰的決断の問題なのだろう。私は過去の研究で、教会指導者層が、政治参与において国政選挙の場を神聖視してきたことの神学的性格を指摘してきた。

(4)政治家の「資質」の問題については、やはりエストラーダを反面教師とするトーンが端々にうかがわれる。エストラーダ(愛称エラップ)は「貧しい者たちのためのエラップ(Erap para sa mahirap)」として人気を博し、教会の反対と懸念の中で大統領に就任し、最後はスキャンダルで、教会の主流はエストラーダの辞任を要求する動きを決定づけた。特に「貧しい者たちとの連帯」の部分の「この連帯とは貧しい者たちとただ仲良くするとかいうことではなく、公正を追求するよりも支援物資のバラマキによって貧しい者たちの必要を利用することでもない」という部分に、エストラーダへの批判が映し出されている。しかし、教会のいう「貧しい者たちとよく関わり、彼らの必要に気を配り、貧しい者たちを貧困へと縛り付ける政府と社会の諸構造を暴く人である。連帯とは貧しい者たちを優先的に取り扱う愛(love of preference for the poor)である」という美しい言葉は、10年近くを経ていまだに人気のあるエストラーダの存在感を超える現実を生み出すことが今一つできていないのではないか。教会のこの言葉こそここでの言葉を用いるならば、「空虚な約束、空虚なレトリックで貧しい者たちの夢を利用している」(exploit the dreams of the poor through empty promises and empty rhetoric)側面があるのではないか、と問われかねないと思う。

2010年3月10日水曜日

'BEHOLD I MAKE ALL THINGS NEW' January 27, 2001

原文は
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2001-churchrenewal.html

この声明は、1991年の「フィリピン第2教会会議(Second Plenary Council of the Philippines; PCP-2)」の10周年として、司教協議会の1月の定例会議に合わせて行われた「教会刷新に関する全国司牧協議会(National Pastoral Consultation on Church Renewal)」の終了後のアピールである。ちなみにこのNPCCRの包括的な報告書は後日カトリック司教協議会(CBCP)により出版されている。

このような経緯から、この文書は、10年を経て、社会背景がどうなっており、またPCP-2文書が提起した「統合的宣教」に基づいて「弟子たちの共同体」「貧しい者たちの教会」を形成するという目標がどの程度達成されているか、という観点が示されている。(項目1-3)

社会分析については、この10年のグローバル化の進展により、伝統的美徳が犠牲となり、実用主義に代えられている、また貧しい者たちの抑圧も新たな形を取りつつある、そしてエストラーダ政権のスキャンダルのような政府の腐敗がひどいことになっている、と指摘している。総じて、PCP-2で指摘された社会の諸問題の本質は変わっていない、とする。(4)

対して教会もまた、基本的に改善が進んでない、との反省が示される。PCP-2ではさまざまの処方箋が提示されていたが、教会の教育形成が進まず、刷新の方針が定まらず、制度上の不備も重なってそれらの多くは実行されないままであった、とする。(5)

とはいえ、改善の兆しもあるという。諸分野、諸業種における社会的な大義を取り上げる運動が増大してきている。また教会人の中には様々の教会運動や社会運動に献身している人々が増えてきている。さらに、2000年の聖年記念に至るこの数年の祝祭が人々に清めと悟りを与えていると主張する。加えて「ピープルパワーⅡという劇的な出来事において、我々は神がフィリピン人を強めて受け取らせている国の刷新と道徳の刷新という贈り物を目の当たりにし、経験した」とする(6)

以上の情勢分析や評価を受けて、基本的には「より参加型の教会、より正統的な意味で貧しい者たちの教会、より公正な社会建設に資する真に宣教的な教会」という目標を掲げたうえで、優先課題が列挙されている。(7)

A. 統合的信仰形成
B. 社会変革に向けての一般信徒のエンパワメント
C. 教会における貧しい者たちの積極的な存在と参加
D. 宣教の要としての家族
E. 共同体の源としての小教区(parish)を建て上げる参加的諸共同体の建て上げと強化
F. 聖職者の統合的刷新
G. 青年たちと共に歩む
H. 教会一致運動と宗教間対話
I. 宣教に向けての動員と形成

そしてアピール(8)と結論(9)で終わる。教皇の回勅に基づいて、「フィリピンの生活と社会の深みにこぎ出すよう呼ばれている」としている。

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とりあえずのコメント

1.ピープルパワーⅡについてのここでの楽観的で手放しの評価は、これがまさにその直後の文書であり、そのあとの、ピープルパワーⅡへの抗議のような形を取って大きな衝撃をもたらしたいわゆるピープルパワーⅢを体験する前であることが大きいだろう。

2.一般信徒が社会変革の担い手となる、という基本路線を読みながら、一体ここでいう「一般信徒」とはどういう人たちのことを言うのか、と改めて考えてしまった。この人たちは聖職者と一層積極的なコミュニケーションを築きながら、教会と社会に深く根ざしたいわば教会人としても国民(ないし市民)としても確立したアイデンティティをもつ人物、という像が浮かぶが、現実として、この像に対応するものが先立っているのではないように思える。
 私は過去の研究で、教会の政治社会参与が国民のアイデンティティについての覇権的な立場を保とうとする形で行われてきたことを指摘し、このやり方が齟齬をきたしていることを論じたが、ここでは、少々違うニュアンスがあるように思える。つまり、もう少し教会側に引き付けて、教会はそもそも何なのか、カトリックとはだれなのか、について、そのアイデンティティについての明瞭な像を提示することで、教会とカトリシズムのこの社会における正統性を内外に確認する、というややつつましげな方向に教会指導者層がシフトしつつあるのかもしれない、という予感を私は持つ。

3.「貧しい者たちの教会」と言いつつ、優先課題をみると、明らかに「貧しい者たち」は外から教会に新たに参加する存在であり、また客体視される存在である(例えば「我々は物質的に貧しい者たちを差別するメンタリティ、価値観、行為、ライフスタイルから自らを解放することを目指す」は、明らかに貧しい者たちを客体視しているーここでの我々は「貧しい者」ではなく、むしろ彼らを見つめる側にいる)。ここに教会のいわばミドルクラス的(単純化は避けたいが仮にこう言おう)な特徴がよくあらわれているように思える。彼らにとっての「貧しい者たちとしての自分たち」は、客体である貧しい者たちとアイデンティファイする、という営為である。ここでは「我々は福音的に貧しい者でなければならない」とある(もしかするとこれは修道士の誓約する「清貧」と重なるのかもしれない)。この「貧しさ」は主体的で選択された「貧しさ」である。7Cの項目の最後の文章は、それをよくあらわしている。
「貧しい者たちとして、貧しい者たちのただ中で、貧しい者たちと共に、十字架につけられよみがえったイエス・キリストへの共通の信仰を理解し、生き、祝い、共有するのです。」

4.聖職者のライフスタイルへの批判が盛り込まれている。特に貧しい人々と共に生きるというところからほど遠い聖職者に変化を求めている。こういう視点がこれまでなかったわけではないが、どちらかというと社会の側の病理をもっぱら批判し、教会指導者の権威を強調する論調が支配的であったところからの変化がよくあらわれていると思う。

5.青年とはどういう人たちと捉えられているのかも興味深い。ここでも青年は客体化されており(ここでは「我々は青年たちとの対話を行う」という表現が出てくる)、教会の主体が壮年、老年層であることを改めて想起させられる。聖職者の高齢化が進行している現状とも無関係ではないのだろうと思ったりする。
「我らの人口の中で青年が最も多く、我々の教会の中で最も活発な人々でもあるが、勃興しつつある技術社会において最も脆弱な存在でもある。」

2010年3月8日月曜日

プロジェクト:ポストEDSA2のフィリピン・カトリック教会

これから、このブログを用いて、2001年1月にエストラーダ大統領が「市民社会運動」によって放逐されたいわゆる「EDSA2」以降のカトリック教会についての研究メモを少しずつ書きためて行こうと思います。さしあたっては、カトリック司教協議会が出してきた司牧教書Pasoral Documentsの内容を整理し、注目すべき点を書き記していこうと思います。