2010年4月9日金曜日

WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110; May 31, 2003

再度、家族計画関連法への反対声明である。タイトルとリンクは以下の通り。

WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110 (A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines)

冒頭に引用されるのは、新約聖書、テモテへの手紙二4章1-2節である。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(新共同訳)

そして司教協議会はこの言葉に基づいて「戒める」(ただし教書の英語ではcorrect errorなので「矯正する」)責任がある、とした上で、下院法案4110に教会の教えに反する考え方が含まれている、とする。引用された聖書の文脈は読んで明らかにキリスト教の信仰共同体の「内部」での活動を指すものであるから、これを議会で審議中の法案に適応するのは、教会が国会に対して、「重大な道徳的問題について」と限定しつつも監督者として指導を与える、というきわめて「キリスト教世界」(Christendom)の見地から論じるという教会の政教関係への典型的な接近法をとっている。

まず下院法案4110は「教会の教えに反する信条を含む」「そのために微妙かつ欺瞞的な語り方と方法を用いている」との全体的な評価を出した上で、以下の点を挙げる。

1.法案に見られる「リプロダクティブ・ヘルスケア」「リプロダクティブ・ライツ」は国際連合のカイロ文書(1994年の国際人口開発会議のこと)以降国際的に用いられている表現で(国連人口基金東京事務所のホームページの用語では「性と生殖に関する健康/権利」とある)、「最も糾弾すべき犯罪である」中絶を明らかに含んでいる。また上記概念はあらゆる避妊法を認めるものであり、法案においても青年にもこうした避妊手段が入手できるようにしようとしている。

2.法案の支持者は中絶に関する法(中絶の禁止)を変えるつもりはないと言っているが、「受胎 conception」の意味を再定義し、本来の「受精時点 fertilization」とする代わりに、「着床 implantation」の時点と主張する。その結果、着床前の受精卵は人間ではなく、権利もない、とする。さらに法案はピル、避妊リングなど受精卵の成育を阻害するものに「流産促進的な効果 abortifacient effect」があるとの認識を示していない。

3.法案支持者は「安全でない中絶」で多くの死者が出ていることに言及することが多いが、そもそも中絶は犯罪であり悲劇的なのだ。しかるにリプロダクティブ・ヘルスの考えで行っては、「安全な中絶」であれば許容する、ということになりかねない。

法案を丁寧に読むと、以下の誤りが明らかになる、という。

・自分の身体に対する人間が神から与えられた管理者性(stewardship)という道徳上の問題が、単なる健康上の問題に還元されている。法案の支持者の中には、自身の身体を完全に支配することを「人権」と呼びさえするが、これは間違いである。

・法案の、人口増加が貧困の原因であるという想定は間違っている。開発というものは教育、良い統治、一貫性と透明性、交易、工業、農業などの複雑な相互作用の結果である。

・法案全体の調子は、キリスト教的な人間の性について、また責任ある親としてのあり方の理想をゆがめるものであり、道徳というものを片隅に追いやってしまう。

その上で、自分たちも女性たちの健康と権利を擁護し促進することを目指しているが、この法案はこの目的にも合わない、とし、教会の教えに反する深刻な過ちがあるゆえに我々(weがどこまでを指すのかがあいまいだが)はこの法案を拒絶せねばならない、とする。

冒頭のパウロの言葉に再度言及し、「私たちのカトリック教徒の議員たちは教会を通して神から受けた道徳的な教えに従って行動するであろうと確信している」と結ぶ。

***

いつものトーンである。残念なほど発見が少ない。信念を貫き、妥協を配するというのはそれ自体では結構なことであろうが。

・特に、非合法の危険な中絶の横行に対する懸念、人口問題の深刻さ(1億になるのも近いと聞く・・・10年前、確か6000万人と言っていたような・・・)について正面から論じず、対案を提起していない。

・性や家族のあり方が変化している(教会の立場からすれば崩れてきている)からこそ、こうした法案も出てくるのだとすれば、教会こそ、こうした法案の廃案にかけるエネルギーに比して、性教育や家族支援の努力は微々たるものであり、効果を挙げていないのではないか。とすれば、教会こそ性や家族といった広がりのある問題を、結果的には特定の法案の阻止という所に過剰に力を注ぐことで自ら矮小化しているのではないか。その意味では、彼らが批判する法案支持者の「性や家族の問題を健康問題に矮小化する」姿勢とさほど異ならないのではないか。

(*ちなみに、私個人の倫理観として、性や家族の問題をもっと包括的に捉えるべき、というのに異存はないし、中絶はやはり殺人であると理解している。とはいえ、政策としてどうするか、という場合には、そういうナマの倫理はそのまま法律にできるものではないと考える。自分たちのコミュニティの内外での地道な説得と、そうした生き方がしやすい環境作りこそが、まず第一になされるべきことであろうと考える。カトリック教会内にも地道にこうしたことに努めている方々がおられることも確かではあるが、なおフィリピンでは法をどうするか、ということに力点が置かれやすいようであり、これは適切でも効果的でもないと考えずにいられない。倫理はすべて法によって規定することはできない。ましてカトリック独自の倫理観を一律に押し付けることもできない。カトリック人口が8割といわれるが、少数派もいるし、政教分離、信教の自由を保障した憲法もあり、なおかつカトリック信徒といわれる人の多くも、性や家族の問題についての教会の政治的な影響力行使に眉をひそめたり、教会の反対する家族計画に賛成する人々も少なくないのだから。)

・「我々」の範囲のあいまいさを操作することで、相手を分断したり自分の土俵の中に入れて上から裁いたりすることを織り交ぜている。国会議員に対し、あなたはこちら側ですか、それともこちらにはいてはならない人ですか、と言っているわけで、暗に恫喝的な姿勢をもって臨んでいる。公共善の問題と教会の教えというのが区別されず、さりとて同一視されているのでもなく、あいまいなまま(教会の都合に合わせて)適宜使い分けられている。
 もっとも、この点については、人々の側もカトリックに関することを、都合に合わせて「自分たちのこと」にしたり「彼ら(教会指導者とその指導に忠実な人々)」の問題として突き放したり、「我々」の範囲を使い分けているのである。さすがにtayo(相手を含む私たち)/kami(相手を含まない私たち)の文化(マラヨ・ポリネシア語族の特徴と聞く)、ともいえるのかもしれない。

2010年4月8日木曜日

"NO TO WAR!"; January 28, 2003

声明のリンクはこちら。
"NO TO WAR!" (A CBCP Statement on Possible War in Iraq)

2003年初頭のアメリカ合衆国を中心とする有志連合によるイラク攻撃を前にしての反対声明である。一読して明らかにバチカンによる反戦声明に連なるものであり、フィリピン政府に先制攻撃(pre-emptive strike)に同調しないよう呼び掛けている点を除けば、きわめて一般的な内容である。だから、特に論ずべきことも見当たらない。

教皇の「戦争というものはいつでも人類にとって敗北である」という全般的な反戦思想に基づいているため、反戦をアピールするだけで終わってしまっている。ではサダム=フセイン政権のように国際社会を挑発し続け、地域の安全保障上の不安定要因となっている権威主義的性格の強い政府をどのように評価し、どのように関わるのかについての、積極的な提案は欠けている。つまり、戦争はとにかくだめだ、ということではあるが、ではどういう方向性で行くのか、そもそも国際テロの問題についてどういうパースペクティブで臨むのか、そういう見通し(ビジョン)が示されていないため、どうも言いっぱなしの感が否めないが、宗教家が出す平和を求める声明なんてそんなものだ、とも言えるのかもしれない。

平和問題についてはミンダナオ問題を抱えるフィリピンで、この問題について関心が高いはずの、取り組みを重ねてきたはずのカトリック司教協議会としては、もう少し踏み込んだ考察に基づいて、もっと方向性を打ち出せなかったのだろうか、と思ってしまった。

2010年4月2日金曜日

PRIMER ON NEW AGE; January 08, 2003

「ニューエイジ」の霊性について取り組んだ「手引き」である。リンクは以下の通り

CBCP Documents - PRIMER ON NEW AGE

この文書はかなり大部なものではあるが、私の現在の研究上の関心と今一つ結びつかないものでもあるので、今回は要点の紹介と少しのコメントにとどめる。

この手引きは、「ニューエイジ」と呼ばれる諸宗教と科学、瞑想とエコロジーなどを独自の仕方で統合することを目指す世界的な宗教運動について、これが教会の内外に浸透してきていることについて警告する立場から整理し、解説し、指導することを目指したものである。

ただ、正直なところ、既にずいぶんと長期にわたり存在するこの運動について、この時期にこれが出てくる必然性についてもまた調べられていないし、この運動についてまだよく理解していないので、書けることは少ない。勉強の必要を感じる。直感的には、ニューエイジはこの文書に指摘されているとおり中間層、富裕層への影響が大きいと思われるので、教会のアイデンティティや関心がこうした層に向けられている、ということはできるのかもしれない。

また、この文書にもあるとおり、ニューエイジに対する警戒は、基本的には「キリスト教国」の霊性を「内側から侵食」するという見方から来ている点は確認してよいと思われる。これは一時期アメリカのキリスト教保守派で流行したニューエイジ警戒論と似ているようにも思える。つまり、キリスト教のヘゲモニーが確立している場所で、これを危うくするものへの警戒である。

しかし、信教の自由が保障されている社会において、また教会教育や司牧が行き届いていない教会の現状を踏まえるとき、さまざまな宗教運動や思想が入り込んでくるのはいわば必然であり、警告したところで何も起こらないように思える。この文書のように、カトリックから見てこの思想がどうだこうだ、と評価するだけでは、人々に届くことはない。そのことの是非は見方によるであろうが、教会がその固有の活動における人々へのコミットメントがないまま、既存の勢力範囲を保持しようとするというその姿勢は、やはり政治・社会的保守主義と連結するものであろうと思われる。それは、教会が大事だと言っている「貧しい人々」の現状をも、結局固定する方向に有利に働いてしまうのではないか、と勘繰ってしまう。

またいずれ折りを得て考察しなおさなくては、と思いますが、今は研究の主題をフィリピン社会との関わりに置いているので、この話題は今回はこれくらいにして次に進みます。