2010年11月22日月曜日

CBCP司牧書簡「「創造の日」「創造のとき」を祝う」 2003年9月1日

CELEBRATING CREATION DAY AND CREATION TIME

カトリック教会では9月1日が「創造の日」として、またアシジの聖フランチェスコの祝日である10月4日(あるいは直後の日曜日)が「創造のとき」として祝われているとのこと。キリスト教には、神がこの世界を創造し、特に人間は「神の似型」に創造されたという根本思想があるが、これを改めて想起する、というのがこの教書の内容である。

カトリック司教協議会は1988年に「我らの美しい大地に起こっていること」と題して環境問題についての声明を出している(本文の1998年は誤り)。

WHAT IS HAPPENING TO OUR BEAUTIFUL LAND - A Pastoral Letter on Ecology

ここでも改めて、昨今の災害、特に洪水とその背後にある森林伐採に触れるなど、生態的な危機状況を挙げる。また鉱山開発のもたらす汚染や遺伝子組み換えの潜在的危険性などにも議論が及ぶ。

これを踏まえ、教会は「回心」(conversion)を訴える。このために教区、小教区、教会基礎共同体、キリスト教学校、修道会など教会関連の諸団体の、環境教育、環境保全活動、持続可能な開発計画などが始められていることを挙げる。また、教会教派を超えたエコロジカルな提言がなされてきていることも指摘する。

また、これら祝祭に際しては、教会の典礼で世界の美しさと苦悩、人間が自然と不可分であること、社会正義を求める闘いが継続中であることに触れるよう求め、また環境保全のための働きを教会の各レベルで促進するよう訴えている。また、政府に対して、短期的な経済的利益を優先して長期的な生態的破壊をもたらすことのないよう呼びかけている。

最後に世界創造の父、世界の救済者である子イエス・キリスト、命を支える聖霊の三位一体の神への信仰を深めるよう訴えた上で、「命の母なる聖母マリア」の加護と大地の癒しを求めて終わる。

***

フィリピンのカトリック教会は、特に森林の過剰伐採に対して、また近隣住民の生活環境への配慮を欠いた鉱業に対して、厳しく対峙してきた。この文書にも、そうした教会としてのコミットメントが確認されている。文章の全体的な簡潔さに、かえって各部門で地道な取り組みがなされてきたことが伺われる。

マスコミの中では、森林の(特に)違法伐採監視による保全努力は、比較的好意的に取り扱われてきたと思う。他方、鉱山開発に対する厳しい対応(環境問題及び地元への利益還元のなさ)については、主要紙は特に中間層・富裕層を対象とすることもあってか、投書欄や意見広告を通じて、産業振興、雇用創出を根拠とした開発推進論、また教会関係者を素人としてその干渉を批判する議論が繰り返し出されてきている。個人的には、過去に読んだいくつかの資料に基づいて、雇用創出効果は、特に地元への間限度は非常に限定されていると共に、鉱山開発に伴う汚染は明らかで、かつ住民への十分な補償がなされたためしがないという理解をしている。だから、カトリック教会の側が基本的に正当であると理解している。

***

(おまけ)

プロテスタントの私は、どうしても、せっかく最後に三位一体の神にふれたあとに、わざわざ聖母マリアに触れて終わる、という文章のスタイルが毎度ながら気になる。もちろん教理的に神が一番なのだが、心情的には(本音としては)本当は聖母マリアのほうが親しく近い存在、ということなのだろうか。

別に他者の信仰の是非をここで云々しようというのではなくて、何というのか、そのある種の二重構造のようなものを、改めて考える必要があるのかもしれない、と思ったということだ。この手の信心にかかわる二重性が、どうも何というか、プロとアマ、玄人と素人、聖職者と信徒、おとなたちの神学的議論と、子ども扱いの信徒向けの説教、のようなダブルスタンダードとも見えるような「霊性」の形成方式に現れているように思われてしまう。この点は、今後もう少しきちんと考察しなくては、と思っている。

CBCP司牧書簡「イエスの聖心において:我らの地を癒し、我らの生を刷新する」 2003年9月1日

In the Heart of Jesus: Healing Our Land, Renewing Our Lives

この文書については、要理的な要素が中心であるが、ここではそのことについては簡単に抑えつつ、特に教会・社会観関係との関わりを中心に見ていきたい。

章構成は次のとおり。

・序国難に際して、第一にイエスの聖心にささげる「9回の第一金曜日」とそのあとの聖マリア年のプロジェクトを含め霊的な刷新、悔悟と祈りを取り上げ、これに当たろうという決意を表明する。

・「イエスの聖心」をたたえる「9回の第一金曜日」(の祝い)
 イエスの聖心に対するフィリピン国内の熱意、関連行事の成果を挙げ、2003年9月7日から翌年7月2日まで第一金曜日にイエスの聖心のための典礼に積極的に参加しようと呼びかける。この機会にミサや聖体礼拝(holy hour)に参加し、聖体を受け、和解の秘跡(つまりいわゆる懺悔)を受けるよう勧めている。
 またミサや聖体礼拝の中で要理的な教育(catechesis)として、このための短い説教や黙想談話を行うことで、イエスの聖心への信心の意味をより深く理解するよう支援すべきとしている。
 この信心を教会のみならずあらゆるところで行うよう勧めた上で、以下のように主張する。「私たちの国をより真実に人間らしく、本当に正しく助け合いのある社会として、つまり正統な愛の文明を生きるフィリピン国民として立て上げようとする取り組みにおいて、イエスの聖心は聖霊からの光とエネルギーの尽きることのない源となりうる。」
 今回は、特に以下の2つを目標とする。

1)司祭たちの聖化
 司祭たちの過ちや犯罪(特に性犯罪)が多く報じられる中で、特に深刻な問題として挙げられている。

2)キリスト教徒の生活の刷新
 フィリピン社会全般、特に政府とあらゆる公的な生活領域における改革の必要を挙げる。生活のイエスの聖心への聖別により、国民の希求と努力が変化への願いとなり、断固たる勇敢な行動への動機付けとなることを願っている。

・プログラム:C(回心)-O(生活(人生)を捧げる)-R(償い)
 C-O-Rは、1985年のマリア2000年記念の際にCBCPが提起したモットーであると説明し、この枠組みで今回も実施することを確認している。

・イエスの聖心への聖別
  ・家庭の聖別
  ・国全体の聖別

・マリア年
 2004年はピウス9世教皇による「無原罪懐胎」の教義の制定150周年、及びフィリピンの最初の聖マリア年の祝祭の50周年であることが確認されている。

・結論
 積極的な準備と参加を呼びかけ、神の祝福を祈って終わる。

***

 政治・社会の刷新に際し、ある種の精神主義が掲げられているとともに、教会が国全体を聖別して捧げてしまうというような国教会的ないしキリスト教世界(Christendom)的な発想に彩られている。
 この表現は、おそらく多くの人々に、さほど違和感なく聞き流されているだろうが、発想自体は、熱心なカトリック信心の持ち主だけが共有するものであろうと思う。

***

 ちなみに、「イエスの聖心」(あるいはイエスのみこころ)信心については、たとえば
イエスの聖心の月
にある。ある修道女が見たイエスの心臓の幻(出現)に基づくという。この際、9ヶ月続けての第1金曜日の聖体拝領うんぬんということも幻で示された、ということだそうだ。プロテスタントの私にはわけが分からないが、カトリックでは、イエスをただ信じるだけでなく、心臓はまた心臓として、特別な仕方で信心する、ということになるのだろうか。

2010年11月17日水曜日

CBCP司牧書簡「憲法改正に関する司教協議会の宣言」2003年7月7日

CBCP STATEMENT ON CHARTER CHANGE


憲法改正の動きに対する慎重論である。すでにざっと読んだので、今回は逐一要約せず、論点をざっとまとめ、論評したい。

憲法改正の動きの背後にあるものとして、

建前上は、
・大統領制から議院内閣制へ
・中央集権制から連邦制へ
への移行が政治改革として緊急であり効果的である、という議論になっている、と整理する。

これに対し、いくつかの問題点を挙げる。
・憲法は国の成り立ちの中核であり、特に民主化政変を経て制定された現憲法の改正にはそもそも慎重を期する。現状の急がせようとする論調には同調できない。
・国会をそのまま憲法制定議会(Constituent Assembly)として改正に進もうとするのは拙速である。憲法改正の是非を2004年総選挙の際にまず国民に問い、これを踏まえて憲法制定会議(Constitutional Convention)を開くべきである(ここに明示はないが、これは国会議員とは別に改めて選挙で選ばれるべきものと一般に考えられている)。
・憲法における大統領や国会議員、地方の知事や議員には任期の制限が課されているが、憲法改正の際にこれを除去してしまいたい、という隠れた思惑があるのであれば言語道断である。総選挙が近い時期の拙速な対応では、こうした疑いが晴れない。

その上で、憲法の改正を検討する際に考えておくべき論点を列挙している。
・政治が貧しい庶民をケアする能力を高める効果があるか(累進課税が例として挙げられている)
・政治参加が促進されることで、名望政治エリート家系の終焉と利益誘導型政治の克服に至るか
・公務員の説明責任性(透明性)を高める具体的な方策があるか
・グローバル化の時代の中でフィリピンの資源の開発を外国籍の企業が保有出来るようにすることを認める場合は、それが雇用、企業活動の機会の拡大など、フィリピンの人々の益となるかどうか
・権力の分散(脱中央化)による市民社会グループの統治へのより積極的な参加につながるか
・貧しい人々を代表しつつ効果的な政策策定の出来る政党の形成につながるか
・投票行動が変化し、人々がこれまでのように人気ら利益誘導やらによらず、政策や実績に基づいて
投票するようになるか
・多数派の支持する明瞭な政策による指導者たちが選ばれるようになるか

とにかく、まず憲法改正の是非を問う田植えで、じっくり話し合いをすべきである、というころである。

***

確かに一理ある、という面もある。政治過程に対する批判はおおよそ的確ではないかと思う。つまり、政治家たちの本音はおおよそこの文書にあるようなところにあるだろうし、司教たちが指摘するような論点がどこまでまじめに取り組まれてきたか、また取り組まれそうなのかは疑問でもある。

と同時に、二つ気になることがある。

ひとつは、「論ずべきこと」として列挙されていることが、憲法改正の目標としても、現状の改革に関する議論としても、現実的に言って高すぎるのではないか、ということである。高い目標を持つこと自体は、特に教会のような理想を語る組織にとっては、それほど問題ではないだろう。しかし、そうは言っても、この文書も憲法改正が俎上に上っている中では、政策論としての実際性がないと意義が薄れてしまう。フィリピンの政治過程、選挙、正当、経済格差などは、長年の間、繰り返し改革が叫ばれつつも、どうにも決定的な改善が見られなかった問題である。それらを解決することは至難の業であり、まして、憲法を改正することで自体が改善するならそんな簡単なことはあるまい。すでに現行の1987年憲法は高い理想にあふれた憲法である。そもそもほとんどの問題は法が制定されたところで、これをどう履行するかというレベルで起こってきた。

もうひとつは、一見逆のことのようであるが、改革に向けた緊迫感、緊急性の感覚の欠如である。「じっくりやる」というのは聞こえは良いが、要は急がなくてもよいのでは、ということでもある。上記の改革が憲法改正で成し遂げられるのかどうかを論じるかどうかと別に、これらの論点は、いずれも長年の難問であり、重要課題である。どうにかしないといけないのがどうにもならぬまま来てしまっている。憲法の改正が慎重を要するとしても、政治社会改革そのものは緊急の課題として一生懸命取り組んでもなかなか難しい。教会がこのことを否定しているわけではないのは分かっているつもりだが、これらの論点が何よりも憲法改正の正当性の吟味の根拠として出される、という語りの展開自体が示唆するものがあると思う。

もし本気なら、昨今の政治に何が緊要であるかを先に明示したであろうし、短い論評の中ではあれ、多少なりとも憲法改正以外に何をすべきかも併せて論じることが出来たはずである。高い目標を掲げながら、のんびり論じるよう進めるところには、(最近ワンパターンで申し訳ないが)結果的に現状維持的なとまでは言わなくとも(今回も心情的にはそういいたいくらいだが、それは公平を欠くのかもしれないと自重する)、変革に力を貸さない言葉になってしまっているといえよう。