2011年9月3日土曜日

CBCP司牧声明 「農民と生命」 2004年5月15日

FARMERS AND LIFE (A Pastoral Statement on the occasion of the CBCP-NASSA and the Sustainable Agriculture Network’s 3rd Farmers’ Day)

フィリピン・カトリック教会が農民の聖人であるラブラドルの聖イシドレ(Saint Isidore of Labrador)の記念日に定めた「農民の日」の3回目を記念した書簡。2004年が国連の定める国際コメ年であることにも注意を喚起している。

フィリピンの農民が、封建主義、土地なし状況、不公正な取引慣行、ゆすり、安全性に問題のある農業慣行の下に置かれ、圧倒的多数が貧困状況に置かれている事を指摘している。その上で全ての信徒(all the faithful)に対し和解と連帯を熱心に促進し、富と機会の公平な分配に寄って貧しい人々をエンパワーすることに集中しようと訴える。また「全ての人々、特に信徒たち」が私達の農民の困難に注意を払うよう訴えている。

ということは、農民、貧しい人々は、「すべての(司教の言葉を聞く)人々」特に「信徒」の支援の「対象」の位置づけであり、主体ではないということか。農民、貧しい人々が信徒としてどう生きるか、また教会はその人たちとどう連帯するか、という視点が見えない。

確かに、農民は「土地を耕すという天職を受け取る事で、神の生産活動に参与している」、それは「世界を人類にとって真の家族とするために惜しみなく働く」ためである、とはされているが、「教会+善意の人たち」と「貧しい人たち」は区別された上で結びつけられているように見える。

教会指導者は「貧しい物たちの教会」と自己規定しているが、こういう区別と対象化こそが現実の姿に近いのだろう。

2011年9月2日金曜日

CBCP司牧声明 「選挙を通じて国家建設を」 2004年4月21日

NATION-BUILDING THROUGH ELECTIONS (Pastoral Statement on Elections 2004)

2004年総選挙に際しての二つ目、直前の声明である。1998年総選挙の際も選挙に関する声明が二つ出ている(但し当時はオスカー・クルスCBCP議長の下フィリピン文化、経済、政治に関する一連の論評的声明及び政治に関する要理問答も同時期に出ている)。2001年の中間選挙の際は一つである。

この短い声明においては、
・地方及び国政の指導者を十分な情報に基づき責任ある形で選ぶことで「ピープルパワーを制度化する」ことができる、という理解が示されている。
・選挙は「誠実で、秩序のある、そして平和な」ものであるべきとしている。そのために一般市民による選挙監視が重要であるとしている。
・選挙管理委員会の不備を指摘しながら、票の売買、立候補者や市民に対する共産党による「革命税」徴収、公金の不正流用などの腐敗の危険性を指摘、これらと戦うことは福音の要請するところ(gospel imperative)である、とする。
・各自が候補者を選ぶ際の基準として、その候補者の(1)政治家としての能力、(2)良心的であること(一貫性、透明性、説明責任性、人権の尊重)、(3)主要問題(家庭と生命、環境問題、非合法薬物・賭博、正義、平和、秩序、貧困緩和、教育など)への献身性、を挙げている。
・市民には、選挙後に政治家が約束を果たすかどうか監視する使命があるとする。
・教会は祈りつつ国家建設に不可欠な和解と連帯のために祈りつつ行動する、とする。

たゆまずに善行を行おう、との聖書の言葉を引用して閉じている。

政治の中で、選挙というものを極めて重視しているところが、ある意味で形式的民主主義を重んじる志向を感じさせる。もちろんその枠組みを活用してこそ、という話ではあるが、制度改革や法制定、政治過程、あるいは社会運動による改革よりも、選挙がきちんと行われることに力点が置かれていると言える。しかも一人一人の有権者が、一人一人の候補の資質をどう吟味するか、というところにかなり力点が置かれている。確かにそこでは有権者と候補の道徳的な資質と姿勢が問われるので、道徳問題に特権を要求する教会の土俵に持ち込みやすいのは理解できる。

こうした論法がマスメディアなどでももてはやされているし、市民運動の中で重要な位置を占めているのはよく知られたところだろう。しかし、そういうアプローチでもうこの時点でも20年近くやってきているわけで、総選挙もこれで3回目(1992,1998,2004)であるのに、政治および行政の改善の兆しが見えにくい中で、それらのことの重要性を否定しないにせよ、何か他にもっと肝心なことがあるのでは、と考えるのが筋では、と思ってしまう。ただそうは思わないのがどうも教会の体質のようで、やはりその背後には教会が公共の場で道徳上の一定の権威と特権(発言権)を確保しようとする力を見ざるを得ない。