2012年4月11日水曜日

CBCP司牧声明 「賭博に関するCBCP声明」 2005年1月23日

CBCP STATEMENT ON GAMBLING

カトリック教会が賭博関係者や公営賭博機関から支援を受けているとの非難に答えた声明。
この件については過去に繰り返し挙げられている。論点はおおよそ次の通り。

・賭け事そのものは道徳的に中立であるが、生活費をかけるようなことになると道徳的に悪となる。
・賭博文化もまた悪である。安易な射幸心をあおると共に、常習化し結果的に貧困を悪化させることにもつながるからである。
・しかしフィリピンにおける貧困は深刻であり、他方で公営賭博機関は数少ない重要な慈善機関、支援機関である。
・CBCPは賭博機関に献金を求めたことはない。修道会や個別の小教区などが献金を求めるケースがあるとすれば、これは咎められなければならないかもしれないが、上記の事情に鑑みれば同情の余地があると言える。とはいえこれを容認することは賭博文化の醸成につながるので反対である。
・非合法賭博に至っては、そこから上がる莫大な利益が闇のネットワークを形成しており、汚職の原因ともなっているため、到底認めがたい。その合法化も認めるべきでない。
・フィリピンの状況をこのように考えるとあらゆる賭博は合法であるべきでなく、また教会の福祉・慈善活動も、たとえ貧しい人々の支援に資するとしても、賭博機関の支援を頼りにすべきではない。

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これをどう読むのか。この後も、繰り返し公営賭博機関からの献金、献品の話題が新聞をにぎわしてきたし、この文章にもややあいまいなところが残り、のちにもっとあいまいな対応になっていくのでもある。さらに、さるテレビ番組で修道女たちが大騒ぎでスロットマシーンで遊んでいる映像が流されたりもしたと聞くが、そういうことであれば、道徳云々という議論の説得力は下がり、むしろダブル・スタンダードがあるのではないか、という疑惑をもたれても仕方がないであろう。

とはいえ、清貧、貞節、従順を誓うカトリックの聖職者が元々賭博を好んだり、容認しようと考えたり、ということではないと考えるのが自然だろう。やはり、上記の文章の中に見られるジレンマがあるのだと思う。加えて、毎度のことでしつこいが、やはり「皆様のための教会」として活動範囲を考えるとき、必要な資金規模と支持基盤を広くとることになり、本意に矛盾するはずのものもずるずる容認してしまうという面もあるだろう。これはフィリピンのカトリック教会の抱えるアイデンティティ上の構造的課題でもある。

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しかし他方でやや論点がそれるが、では慈善や福祉、開発事業を教会がやらなくてだれがやるのか、ということになる。それは教会や関連団体だけでなく、市民運動やNGOの活動もそうだろう。政府が十分に国の福祉を支えきれないこと自体が構造的に深刻な問題であるともいえる。市民社会だけでこれを担っていくのは、NGO大国と呼ばれ、教会が大きな力を誇るフィリピンにしてなお難題である。その政府からの細い支援のラインが公営賭博機関であったとすれば…これは外国のODAやNGOの支援の問題とともに、フィリピンの市民社会が直面する資金調達上のジレンマでもあるかもしれない。

以前ヨーロッパであった国際フィリピン学会で、フィリピンのNGO関係者が恐ろしく強い態度でヨーロッパからの資金についての注文をしているのを見て、反発を覚えたことがあった。お金をもらえるのは当たり前であるかのような態度に立腹した。ただ、もし貧困の問題が人道、人権の問題であり、これが公共の問題であって、それを当該国政府が十分に取り扱えないとしたら、いわばグローバル公共社会のようなものがある程度代わりに担う責任があり、当事者にはそれを要求する権利がある、というような考え方はあり得るものだろう。

国際関係論でも近年、国連から出てきた「保護する責任」の議論(当該国民の人権、人道、安全保障を、当該国の政府が責任をもって保障することを放棄した場合、この責任を国際機関等が代わりに担うことができ、また担うべきであるのでは、という議論)がある。グローバル化の時代の中で、グローバルアクターでもあるカトリック教会のあり方も問い直されているともいえるかもしれないが、ここでの議論はまだ国民国家の枠組みの中でなされていることにも留意したい。

CBCP司牧声明 「平和、一致と刷新についての声明(第89回CBCP総会)」 2004年7月10-11日

STATEMENT ON PEACE, UNITY AND RENEWAL; CBCP 89TH PLENARY ASSEMBLY, Pius XII Center, Manila, July 10-11, 2004

カトリック司教協議会総会後の声明で、主に2004年5月に実施された総選挙に関する講評である。

総会において、司教たちから担当教区の情報をもとに選挙の講評を受け取ったところ、選挙においてさまざまの違法行為や不正の事例が挙げられたとした上で、、それでも総じてはおおむね国民の意思を反映した結果となった、としている。
 
不正についての報告が多いこともあるため、CBCPの常設委員会は上ってきた報告を集め、現状の理解と今後の特に消極レベルにおける選挙に関連した対応策づくりに資するべく分析を行うとした。ただ、包括的な調査や不正に対する法的な対応までは教会の力量を超えるため、司法等のしかるべき機関に期待する、としている。
 
選挙が終わった今、むしろ社会変革、国の刷新のためにさまざまの取り組みを前進させる時である、とする。
 
最後に、そのために司教団は8月15日(聖母被昇天の祝日)の「平和、国民的一致、刷新のための祈りの日」の呼びかけをし、聖体年、聖母マリア年の記念と併せ「聖母マリアとともに聖体を祝う」の標語を確認している。従来の司牧声明を踏襲した、記念日のイベントを絡め、聖母マリア(イエス・キリストよりも頻繁なのが興味深い)の祝福を願う締めの文章である。
 
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8年近くが経過した今読んでみて、やはり何とも言いようのない感慨がある。2004年の選挙は俳優出身のフェルナンド・ポー・ジュニア(FPJ)が善戦し、そもそも彼が職に堪えるのかが問題になっていたため、FPJではだめだ、という人たちがFPJに対抗できる唯一の候補である現職のマカパガル=アロヨ(GMA)に投票すべきなのかどうかを巡り、私のかかわりの深いプロテスタント福音派(ボーンアゲイン)の中でも激論がたたかわされたと聞いている。特にボーンアゲインの牧師でフィリピン福音主義教会会議(PCEC)のメンバーでもあるエディ・ビリャヌエバが大統領候補として立候補したことが状況を複雑にしていた。福音派はいわゆる中流以上の社会層が多く、反FPJゆえに(少なからず仕方なく)GMAか、夢を求めてブラザー・エディか、というような話になっていたと聞く。
 
そういう中でのこの文書にも挙げられている7月早々の「選挙結果はおおむね人々の意思を反映している」宣言は、教会が早期に大統領をGMAと認めて幕引きを図ったのではないか、などとマスメディアでも論評されていた。FPJは、教会が辞任を求め、結局追い落とされるような形となったエストラーダ元大統領に近いこともあり、また教会が政治家は実力や実績がないといけない、というポリシーを打ち出しているのが(それは妥当ではあるともいえるが)ちょうどGMAの対FPJの宣伝戦略として、自分はプロでFPJは素人だ、というのと重なっていたこともある。
 
結局翌年にはGMAと選挙管理委員長との不透明な関係が表ざたとなったいわゆる「ハロー・ガルシ」事件以降、すでに教会関係者も含め各方面で観察されていたさまざまの選挙不正は、無視できるような性格のものではなかったのではないか、ということになっていく。
 
私が知る限り、教会が声明等を通じて、特に強い政治的意図をもって印象操作をしようとした、というような悪意があったとは考えにくい。そうしたことがまことしやかに語られているが、私はそれを裏付けるものを知らないし、教会というものの基盤はそういうものとはやや別のところにあるのではないかと思う。この後の時期になると、GMAが教会対策として積極的に教会の慈善事業等に資金を配分していたことが明らかとなってはくるが、それはむしろGMAの側の発意ではないかとも思うし、「ハロー・ガルシ」以前はその手のことが話題になることはなかったわけではないが、別にGMAでなくても同様の対応をしてくれるかもしれないともいえるから、教会が財政的な理由でGMA当選の信用を高めようとしたとは考えにくい。
 
むしろ教会指導者は、フィリピン社会における教会の構造的な政治性を一定程度理解しつつも、そことずれたところで、つまり政局にあまり配慮しない教会指導者としての司牧的な議論を展開してしまっているのではないか。だから、2005年に不明を恥じることになってしまう(が謝罪はしていないので、「ハロー・ガルシ」を踏まえて2004年の声明の結論を恥ずかしいと思ったわけではないのかもしれないが)。
 
まあ、選挙結果が集計されるのに時間がかかりすぎて、政治的空白を許さないところに来ていたことも否定できなかったとも思う。あの時FPJじゃ破綻だ、ならいっそGMAがいい、と念じてしまった私自身、不明を恥じるべきなのかもしれない。