2012年5月28日月曜日

CBCP司牧声明「善をもって悪に打ち勝て」 2005年1月23日

VINCE IN BONO MALUM - OVERCOME EVIL WITH GOOD

教皇の「世界平和の日」のメッセージに基づいて、新約聖書ローマ信徒への手紙12章の言葉が題名とされている。基本的には紛争、対立について、愛と平和に基づき、兄弟愛をもって解決に努めよう、というメッセージである。今なお問題を抱え続けている、コファンコ家のルイシタ農園をめぐる労働者と農園側の衝突が事例として挙げられている。

キリスト教の強いフィリピンにおいては、社会正義、人権、福祉について、容赦なく闘うのか、それとも兄弟愛をもってするのか、というのは基本的な議論であると思う。しかし、そもそも兄弟愛に基づく解決の事例が、過去にどれだけあるというのだろう。宗教者として兄弟愛を語るとしても、それを実社会の紛争に関して訴えようというのであれば、その点についての論証ないし弁明なしに語られても絵空事に聞こえはしないか。

また、この兄弟愛は、何に基づくのか。キリスト教信仰に基づくのならば、その原理を軽んじる人々について教会はどう向き合うのか。また本文に出てくるようなより普遍的な人類愛のようなものであるのならば、それは教会が世界に向かってどの程度説得的に発しうるメッセージであろうか。それがキリスト教に基礎づけられつつ普遍的であるのでなければならなかろう。

しかし、ここでもまた、語りかける相手のアイデンティティも、語る側のポジションもあいまいなままだ。この空疎な理想語りは、結局「社会問題についても指導者たる教会が一言語らせていただく」というポジションを再度主張する以上のものになっていない。

…そこまで書くこともないのかもしれない。教会指導者の地位からくるルーティーンの仕事でしかないのだろうから。それでも、ここで今一度、教会指導者たちが当然視し、疑いもしない前提を再確認することはできる。そして先ほど「絵空事」と書いたが、日本であれば教会がそんなことを言っても絵空事にしかならないのは教会にとっても自明なのでわざわざ言挙げしないが、フィリピンでは教会の影響力の強さが暗黙の前提としてあるために思慮なくこうした態度が出てしまうのかもしれない、と日頃のニュースにおける司教たちの様々の発言を読んできた印象からも思う。

(追記)

2012年に書いたこの記事であるが、その後一度ハシエンダ・ルイシタ農園問題を含むCBCPの公文書を読み通したうえで、今その3年後に、特にこれと関連する他の記事を読み返している今の段階で、ここでの書き方は少々不公平であった、と反省する。確かにカトリック教会はこれまで、十分な当事者性を持たないまま社会問題に過剰なコメントをし、正義の原則を振りかざすような文書を再三出してきた過去はある。しかし、すくなこともこのハシエンダ・ルイシタ問題、さらに農地改革については、カトリック司教協議会は明らかに一定のコミットメントをもって、特に労使間の調停努力等においてプレゼンスを見せており、農地改革に関してはのちに、農地改革法の実施推進や延長等を求めたハンガーストライキに参加するなどの関わりを見せてきた。これは特に、教会が親アロヨ的な傾向を強めていると批判されるようになってきた時期のことだけに、特に注目に値すると考える。