カトリック司教協議会のビリェガス議長(リンガイェン=ダグパン大司教)が、今では「乾いたカトリック」が、カトリックに次ぐ二番目の主流宗教である、と発言した、と報じられている。
*(補足7月27日)ただ、記事を読み返すと、本当にタイトルにあるように「カトリックに次ぐ2番目」と言ったのかどうかは疑問に付してもいいかもしれない。引用されているのは、どんな⁽カトリックでない⁾宗教よりも多い、という言い方である。記事を読む限り、これらの人々はカトリック内部の人たちで、ケアすべき人たちだ、という扱いである。もしそうであれば、この記事を書いた人の理解がゆがんでいるか、あるいはカトリックを殊更に少なく見せようとする悪意があるのか、であろう。とはいえ、カトリックのカラーの強いPhilippine Star紙にそういう記事が載るということ自体も興味深い。
‘Dry Catholics’ now second predominant religion in Philippines
乾いたカトリック(dry Catholics)の定義は、予想通り、教会にとって好ましくない人たちを総括した、分析性を欠くレッテルに近いものである。曰く、「冷たく、傷ついた、懐疑的な人々で、カトリック教会を去って他の宗教に加わった人々(those who are cold, hurting, skeptics and those who left the Catholic church to join other religions)」とある(補足7月27日:但し、攻撃的な意図ではなく、文脈的には不幸な仲間をどういたわり引き戻すか、という話の中にある)。そしてそれらの人たちが、カトリック以外のどんな宗教よりも多いと言う。
他宗教に移った人々が定義の中にありながら他宗教と数を比較するという基本的な矛盾は別として、それ以外に三つほどコメントしたい。
1.そもそも、こういう人たちは果たして、「カトリックに次ぐ2番目」なのか。もしかすると、定義の適用範囲では、一番なのかもしれない。カトリック教会が反対したRH法案への国民の広範な支持に対し、ビリェガス議長は厳しい発言をしてきた。だとすれば、そちらの方が数が多いのかもしれないとは考えないのだろうか。(補足7月27日:上記の通り、これはビリェガス議長の問題ではないかもしれない)
2.乾いた、と言うが、それは一方的ではないか。そういわれる人たちの中には、むしろ自分たちこそ人間的で、カトリック教会の指導者たちこそ乾いている、と考える人たちも少なくないのではないか。彼らの中には、自分たちこそカトリックを潤しているのだ、と考えている人たちも少なくないのではないだろうか。
*(補足7月27日)但し、ビリェガス議長はこれを非難しているというよりも、彼らは傷つき冷えて乾いてしまっているのだから、その痛みを癒してあげましょう、という優しいトーンではある。しかしそれもまた、一方的な決めつけではないかともいえるし、ある種のパターナリズムではないかとも考える。
3.仮にこれを受け入れるとして、それは、これらの「乾いたカトリック」の人たちを、教会が「乾いたまま」あるいは「カトリックのまま」にしたことを意味するのではないか。控えめに言って、これは教会のミニストリーに重大な問題があったことを示唆するはずのものであるが、その点に触れられていない。(補足7月27日:むしろ問題は「福音よりもカトリック信仰への反対論を知らされていたり、貧しい人たちで教会など富者のものだと思っていたり、以前はカトリックだったが幻滅して神のことなど話したくないという人たち」を作り出した状況、ということのようである)むしろこの記事でも、カトリックの既婚者たちに、教会に幻滅した人々に手を差し伸べるよう勧めている。それ自体は問題ではないが、それにとどまり、教会の指導者たちが問われるものの方が大きい、という発想ははっきりとは示されない。ビリェガス議長が考える教会の司牧というものの特徴の一端が示されているように思える。
*(補足7月27日) カトリック教会はこれまで「社会全体の世俗化の進行があり、それによって多くの人々が伝統的な信仰から疎外されている」という分析をしてきた。ここでそういう理解が継承されているかどうかは断言できないが、「乾いたカトリック」のような理解、表現はそうしたこれまで築かれてきた理解と響きあう。つまりカトリック信徒の中から「乾いた」人たちが出てくるのは世俗化の犠牲になったという理解であって、彼らの主体的な生き方とは理解されない。そもそも「福音を知らされていない人」を「カトリック」とみなし続けていること自体が、こういうカテゴリーを生んでいるようにも見える。つまりこういう人たちがいる、というよりも、教会から疎外されている様々の人々を、こういうふうにまとめてしまっている、ということだろう。しかし、これで本当に、司牧者の人々への理解は進むのだろうか。
***
ちなみに、この件に関して、カトリック司教協議会のサイトには、当日の会合についての記事はあったが、上記の点についての紹介はなかった。むしろ、キリストが示した謙卑に倣って謙遜に宣教すべきであり、雄弁さや組織能力などに頼るべきではない、と語った点が紹介されている。というわけで、今のところ十分なクロスチェックができないままだ。刺激的な題の記事に素直に乗ってしまって記事を書いたことについて、自戒したいと思うので、元の記事を残し、補足をした次第である。
Humility key to effective evangelization – CBCP president
2015年7月26日日曜日
2015年7月12日日曜日
CBCP司牧声明「『尊い賜物を固守せよ』 人口抑制法制と『Ligtas Buntis』計画に関する司牧書簡」2005年2月18日
“HOLD ON TO YOUR PRECIOUS GIFT” A Pastoral Letter on Population Control Legislation and the “Ligtas Buntis” Program
学会発表のために公文書は読み進めていたものの、このブログを用いた丁寧なフォローの試みはこの数年完全に中断していたことを反省したい。ただ、怪我の功名というか、さまざまの修正受けた上でとはいえリプロダクティブヘルスに関する法律が成立したことを踏まえて振り返るような形でテキストを読み直せるのは、それはそれで意義のあることだとも思われる。
このテキストは、下院の当該委員会においてリプロダクティブヘルス法案が可決されたことを踏まえて、この法案の不当性を訴え、政治家をはじめとするこの政策に賛同すると思われる人々に、それはカトリックの教えに反する重大な違反であると強く警告する、そしてそのことで法案の成立を阻止することを目指す活動の一環とするものとまとめられるだろう。
フィリピンのカトリック司教たちの表明してきた教理的、及び政治的な立場はほぼ一貫して明瞭である。ただ、2000年代には、法案に賛同、期待する人々への具体的な、読む人によっては恫喝にも思えるような(賛成するものはもはや信仰はないとみなされる、重大な結果がもたらされる、というような)警告が繰り返される。多数派性に支えられてきた教会にとって、教会の指導に従わない人たちへの対応はジレンマを伴うが、この点での寛容性が弱まってきたことの表れとも見える態度表明の頻発は、いくつかの観点から検討される必要があると思われる。
1)教会改革の方向性として、人々の信心のあり方を、教会が定めた枠にはめようとする傾向の強化を、この問題にもあてはめようとする志向。これは1980年代末以降継続する、要理教育の強化、及び信心行に対する頻繁な介入などに明らかにあらわされている。
2)人々のリプロダクティブヘルス政策への期待の高まりと反対の減退を実感し、切迫感をもって強い対応をする方向性。これは実証的な裏付けが必要かもしれないが、状況証拠的には世論調査やフィールド調査報告などによってかなり支えることができそうである。
3)1)、2)と関連し、いずれにせよ人々を上から導くに際し、教会の構造を用いて動員をかけるには人員数が圧倒的に足りないので、政治問題、政策問題を殊更に大きくすることで、報道を通じて人々に声を広く届けさせ、圧力をかけようとする方向性。但しこれについては、インターネットの時代における教会の多様な発信は、以前よりは多くの人たちに潜在的には届きやすくなっているように思えるので、この点の重要度はもう少し吟味が必要かもしれない。
***
ここで一度、この文書でも明らかにされているカトリック教会のリプロダクティブヘルス政策への基本姿勢について、少し整理することを試みたい。
いわゆるリプロダクティブヘルス政策は、
1)家族計画支援活動や性教育を、
2)公費の支出を絡めて、
3)学校や医療機関や関連セミナーなどにおいて、
4)特に医療従事者や保健関係者によって実施することで、
5)人々の性と生殖に関する情報を提供し、自己決定を高め、人口の抑制にもつなげていく、
というふうにとりあえず仮にまとめてよいかと思う(もう少し厳密な書き方もあるのかもしれないが、教会の文書を分析する目的としては、とりあえずまあこのくらいでいいかと思う)。
この文書を読むと、他の文書でも繰り返される問題の立て方が見えてくる。
1)家族計画や性教育については教会が承認するものもあるが、フィリピンの司教協議会の文書ではごく控えめにしか触れられないこと(この文書では全く言及がない)
2)この法制に問題ありとする立場から、公費の支出は不適切である(甚だしい場合にはこれは公金の不正使用という汚職である、とまで言う)
3)学校については、生徒ら未成年への性教育は親の専権事項(親による承認がある時だけ教育可能)であるとするし、医療機関に関しては実質上家族計画を、教会が殺人の一種とする中絶と等しいとみなして医療機関の基本倫理に反するものと主張する。
4)実施主体に関して、彼らの信仰上の自由を保障すべきと主張する半面、カトリックの信徒に対しては、信仰上の立場(しかし遠まわしに言われていることを詰めて考えれば、結局は教会の命じるところ)に縛られなければならないことが主張され、結果として政策として一律に勧められてはならないもの、また医療従事者がいやしくもカトリックであるならば、決して従ってはならないものとして、教会の権威の名をもって圧力をかける言い回しになる。
5)政策効果については、こうした政策をマルサス的とレッテルを張り、リプロダクティブヘルス政策が貧困を減らす鍵だ、というふうに矮小化し(実際にはリプロダクティブヘルス政策は多様な政策アイテムの一つであって、万能薬たることを主張してはいないからその点を批判するのは公平とは思えない)、そのような効果は学問的にも反証されている、とする。しかし、ここでは、いかに人々が制についての知識を得、望まない妊娠を回避するか、多産によってしばしばもたらされてきた家庭生活へのひずみ(特に母親に傾斜する負担や子供の将来)をどうすべきかについて、具体的な提言が提示されない。
恐らく、この教会のスタンスが支持を失い、最終的に法案がアキノ政権期に大幅な妥協を重ねながらも可決に至った要因の一部として、青年や夫婦が現実に直面する生々しい問いや課題と響きあう形で提言を作り出せなかったことにあるのではないかと思う。この点について自覚的に発言してきたのは主に信徒運動であり、加えてイエズス会などの少数の聖職者であった。そもそも教会自身が作り出してきた避妊法や性教育のプログラムは、ごく一部を除いて積極的に進められてこなかったようである。
人々の実際的な信仰的応答がどのようなものか、あるいはリプロダクティブヘルスに関する立場がどういう広がりを持っているのかは、それ自体できちんと研究する余地があるだろう。ただ、それを置いたとしても、そもそも現場の緊急な問いがあるのに、反対論だけで対案を積極的に提示できないものに、積極的な賛同が広がる余地は少ないだろう。
学会発表のために公文書は読み進めていたものの、このブログを用いた丁寧なフォローの試みはこの数年完全に中断していたことを反省したい。ただ、怪我の功名というか、さまざまの修正受けた上でとはいえリプロダクティブヘルスに関する法律が成立したことを踏まえて振り返るような形でテキストを読み直せるのは、それはそれで意義のあることだとも思われる。
このテキストは、下院の当該委員会においてリプロダクティブヘルス法案が可決されたことを踏まえて、この法案の不当性を訴え、政治家をはじめとするこの政策に賛同すると思われる人々に、それはカトリックの教えに反する重大な違反であると強く警告する、そしてそのことで法案の成立を阻止することを目指す活動の一環とするものとまとめられるだろう。
フィリピンのカトリック司教たちの表明してきた教理的、及び政治的な立場はほぼ一貫して明瞭である。ただ、2000年代には、法案に賛同、期待する人々への具体的な、読む人によっては恫喝にも思えるような(賛成するものはもはや信仰はないとみなされる、重大な結果がもたらされる、というような)警告が繰り返される。多数派性に支えられてきた教会にとって、教会の指導に従わない人たちへの対応はジレンマを伴うが、この点での寛容性が弱まってきたことの表れとも見える態度表明の頻発は、いくつかの観点から検討される必要があると思われる。
1)教会改革の方向性として、人々の信心のあり方を、教会が定めた枠にはめようとする傾向の強化を、この問題にもあてはめようとする志向。これは1980年代末以降継続する、要理教育の強化、及び信心行に対する頻繁な介入などに明らかにあらわされている。
2)人々のリプロダクティブヘルス政策への期待の高まりと反対の減退を実感し、切迫感をもって強い対応をする方向性。これは実証的な裏付けが必要かもしれないが、状況証拠的には世論調査やフィールド調査報告などによってかなり支えることができそうである。
3)1)、2)と関連し、いずれにせよ人々を上から導くに際し、教会の構造を用いて動員をかけるには人員数が圧倒的に足りないので、政治問題、政策問題を殊更に大きくすることで、報道を通じて人々に声を広く届けさせ、圧力をかけようとする方向性。但しこれについては、インターネットの時代における教会の多様な発信は、以前よりは多くの人たちに潜在的には届きやすくなっているように思えるので、この点の重要度はもう少し吟味が必要かもしれない。
***
ここで一度、この文書でも明らかにされているカトリック教会のリプロダクティブヘルス政策への基本姿勢について、少し整理することを試みたい。
いわゆるリプロダクティブヘルス政策は、
1)家族計画支援活動や性教育を、
2)公費の支出を絡めて、
3)学校や医療機関や関連セミナーなどにおいて、
4)特に医療従事者や保健関係者によって実施することで、
5)人々の性と生殖に関する情報を提供し、自己決定を高め、人口の抑制にもつなげていく、
というふうにとりあえず仮にまとめてよいかと思う(もう少し厳密な書き方もあるのかもしれないが、教会の文書を分析する目的としては、とりあえずまあこのくらいでいいかと思う)。
この文書を読むと、他の文書でも繰り返される問題の立て方が見えてくる。
1)家族計画や性教育については教会が承認するものもあるが、フィリピンの司教協議会の文書ではごく控えめにしか触れられないこと(この文書では全く言及がない)
2)この法制に問題ありとする立場から、公費の支出は不適切である(甚だしい場合にはこれは公金の不正使用という汚職である、とまで言う)
3)学校については、生徒ら未成年への性教育は親の専権事項(親による承認がある時だけ教育可能)であるとするし、医療機関に関しては実質上家族計画を、教会が殺人の一種とする中絶と等しいとみなして医療機関の基本倫理に反するものと主張する。
4)実施主体に関して、彼らの信仰上の自由を保障すべきと主張する半面、カトリックの信徒に対しては、信仰上の立場(しかし遠まわしに言われていることを詰めて考えれば、結局は教会の命じるところ)に縛られなければならないことが主張され、結果として政策として一律に勧められてはならないもの、また医療従事者がいやしくもカトリックであるならば、決して従ってはならないものとして、教会の権威の名をもって圧力をかける言い回しになる。
5)政策効果については、こうした政策をマルサス的とレッテルを張り、リプロダクティブヘルス政策が貧困を減らす鍵だ、というふうに矮小化し(実際にはリプロダクティブヘルス政策は多様な政策アイテムの一つであって、万能薬たることを主張してはいないからその点を批判するのは公平とは思えない)、そのような効果は学問的にも反証されている、とする。しかし、ここでは、いかに人々が制についての知識を得、望まない妊娠を回避するか、多産によってしばしばもたらされてきた家庭生活へのひずみ(特に母親に傾斜する負担や子供の将来)をどうすべきかについて、具体的な提言が提示されない。
恐らく、この教会のスタンスが支持を失い、最終的に法案がアキノ政権期に大幅な妥協を重ねながらも可決に至った要因の一部として、青年や夫婦が現実に直面する生々しい問いや課題と響きあう形で提言を作り出せなかったことにあるのではないかと思う。この点について自覚的に発言してきたのは主に信徒運動であり、加えてイエズス会などの少数の聖職者であった。そもそも教会自身が作り出してきた避妊法や性教育のプログラムは、ごく一部を除いて積極的に進められてこなかったようである。
人々の実際的な信仰的応答がどのようなものか、あるいはリプロダクティブヘルスに関する立場がどういう広がりを持っているのかは、それ自体できちんと研究する余地があるだろう。ただ、それを置いたとしても、そもそも現場の緊急な問いがあるのに、反対論だけで対案を積極的に提示できないものに、積極的な賛同が広がる余地は少ないだろう。
2010年4月9日金曜日
WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110; May 31, 2003
再度、家族計画関連法への反対声明である。タイトルとリンクは以下の通り。
WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110 (A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines)
冒頭に引用されるのは、新約聖書、テモテへの手紙二4章1-2節である。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(新共同訳)
そして司教協議会はこの言葉に基づいて「戒める」(ただし教書の英語ではcorrect errorなので「矯正する」)責任がある、とした上で、下院法案4110に教会の教えに反する考え方が含まれている、とする。引用された聖書の文脈は読んで明らかにキリスト教の信仰共同体の「内部」での活動を指すものであるから、これを議会で審議中の法案に適応するのは、教会が国会に対して、「重大な道徳的問題について」と限定しつつも監督者として指導を与える、というきわめて「キリスト教世界」(Christendom)の見地から論じるという教会の政教関係への典型的な接近法をとっている。
まず下院法案4110は「教会の教えに反する信条を含む」「そのために微妙かつ欺瞞的な語り方と方法を用いている」との全体的な評価を出した上で、以下の点を挙げる。
1.法案に見られる「リプロダクティブ・ヘルスケア」「リプロダクティブ・ライツ」は国際連合のカイロ文書(1994年の国際人口開発会議のこと)以降国際的に用いられている表現で(国連人口基金東京事務所のホームページの用語では「性と生殖に関する健康/権利」とある)、「最も糾弾すべき犯罪である」中絶を明らかに含んでいる。また上記概念はあらゆる避妊法を認めるものであり、法案においても青年にもこうした避妊手段が入手できるようにしようとしている。
2.法案の支持者は中絶に関する法(中絶の禁止)を変えるつもりはないと言っているが、「受胎 conception」の意味を再定義し、本来の「受精時点 fertilization」とする代わりに、「着床 implantation」の時点と主張する。その結果、着床前の受精卵は人間ではなく、権利もない、とする。さらに法案はピル、避妊リングなど受精卵の成育を阻害するものに「流産促進的な効果 abortifacient effect」があるとの認識を示していない。
3.法案支持者は「安全でない中絶」で多くの死者が出ていることに言及することが多いが、そもそも中絶は犯罪であり悲劇的なのだ。しかるにリプロダクティブ・ヘルスの考えで行っては、「安全な中絶」であれば許容する、ということになりかねない。
法案を丁寧に読むと、以下の誤りが明らかになる、という。
・自分の身体に対する人間が神から与えられた管理者性(stewardship)という道徳上の問題が、単なる健康上の問題に還元されている。法案の支持者の中には、自身の身体を完全に支配することを「人権」と呼びさえするが、これは間違いである。
・法案の、人口増加が貧困の原因であるという想定は間違っている。開発というものは教育、良い統治、一貫性と透明性、交易、工業、農業などの複雑な相互作用の結果である。
・法案全体の調子は、キリスト教的な人間の性について、また責任ある親としてのあり方の理想をゆがめるものであり、道徳というものを片隅に追いやってしまう。
その上で、自分たちも女性たちの健康と権利を擁護し促進することを目指しているが、この法案はこの目的にも合わない、とし、教会の教えに反する深刻な過ちがあるゆえに我々(weがどこまでを指すのかがあいまいだが)はこの法案を拒絶せねばならない、とする。
冒頭のパウロの言葉に再度言及し、「私たちのカトリック教徒の議員たちは教会を通して神から受けた道徳的な教えに従って行動するであろうと確信している」と結ぶ。
***
いつものトーンである。残念なほど発見が少ない。信念を貫き、妥協を配するというのはそれ自体では結構なことであろうが。
・特に、非合法の危険な中絶の横行に対する懸念、人口問題の深刻さ(1億になるのも近いと聞く・・・10年前、確か6000万人と言っていたような・・・)について正面から論じず、対案を提起していない。
・性や家族のあり方が変化している(教会の立場からすれば崩れてきている)からこそ、こうした法案も出てくるのだとすれば、教会こそ、こうした法案の廃案にかけるエネルギーに比して、性教育や家族支援の努力は微々たるものであり、効果を挙げていないのではないか。とすれば、教会こそ性や家族といった広がりのある問題を、結果的には特定の法案の阻止という所に過剰に力を注ぐことで自ら矮小化しているのではないか。その意味では、彼らが批判する法案支持者の「性や家族の問題を健康問題に矮小化する」姿勢とさほど異ならないのではないか。
(*ちなみに、私個人の倫理観として、性や家族の問題をもっと包括的に捉えるべき、というのに異存はないし、中絶はやはり殺人であると理解している。とはいえ、政策としてどうするか、という場合には、そういうナマの倫理はそのまま法律にできるものではないと考える。自分たちのコミュニティの内外での地道な説得と、そうした生き方がしやすい環境作りこそが、まず第一になされるべきことであろうと考える。カトリック教会内にも地道にこうしたことに努めている方々がおられることも確かではあるが、なおフィリピンでは法をどうするか、ということに力点が置かれやすいようであり、これは適切でも効果的でもないと考えずにいられない。倫理はすべて法によって規定することはできない。ましてカトリック独自の倫理観を一律に押し付けることもできない。カトリック人口が8割といわれるが、少数派もいるし、政教分離、信教の自由を保障した憲法もあり、なおかつカトリック信徒といわれる人の多くも、性や家族の問題についての教会の政治的な影響力行使に眉をひそめたり、教会の反対する家族計画に賛成する人々も少なくないのだから。)
・「我々」の範囲のあいまいさを操作することで、相手を分断したり自分の土俵の中に入れて上から裁いたりすることを織り交ぜている。国会議員に対し、あなたはこちら側ですか、それともこちらにはいてはならない人ですか、と言っているわけで、暗に恫喝的な姿勢をもって臨んでいる。公共善の問題と教会の教えというのが区別されず、さりとて同一視されているのでもなく、あいまいなまま(教会の都合に合わせて)適宜使い分けられている。
もっとも、この点については、人々の側もカトリックに関することを、都合に合わせて「自分たちのこと」にしたり「彼ら(教会指導者とその指導に忠実な人々)」の問題として突き放したり、「我々」の範囲を使い分けているのである。さすがにtayo(相手を含む私たち)/kami(相手を含まない私たち)の文化(マラヨ・ポリネシア語族の特徴と聞く)、ともいえるのかもしれない。
WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110 (A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines)
冒頭に引用されるのは、新約聖書、テモテへの手紙二4章1-2節である。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(新共同訳)
そして司教協議会はこの言葉に基づいて「戒める」(ただし教書の英語ではcorrect errorなので「矯正する」)責任がある、とした上で、下院法案4110に教会の教えに反する考え方が含まれている、とする。引用された聖書の文脈は読んで明らかにキリスト教の信仰共同体の「内部」での活動を指すものであるから、これを議会で審議中の法案に適応するのは、教会が国会に対して、「重大な道徳的問題について」と限定しつつも監督者として指導を与える、というきわめて「キリスト教世界」(Christendom)の見地から論じるという教会の政教関係への典型的な接近法をとっている。
まず下院法案4110は「教会の教えに反する信条を含む」「そのために微妙かつ欺瞞的な語り方と方法を用いている」との全体的な評価を出した上で、以下の点を挙げる。
1.法案に見られる「リプロダクティブ・ヘルスケア」「リプロダクティブ・ライツ」は国際連合のカイロ文書(1994年の国際人口開発会議のこと)以降国際的に用いられている表現で(国連人口基金東京事務所のホームページの用語では「性と生殖に関する健康/権利」とある)、「最も糾弾すべき犯罪である」中絶を明らかに含んでいる。また上記概念はあらゆる避妊法を認めるものであり、法案においても青年にもこうした避妊手段が入手できるようにしようとしている。
2.法案の支持者は中絶に関する法(中絶の禁止)を変えるつもりはないと言っているが、「受胎 conception」の意味を再定義し、本来の「受精時点 fertilization」とする代わりに、「着床 implantation」の時点と主張する。その結果、着床前の受精卵は人間ではなく、権利もない、とする。さらに法案はピル、避妊リングなど受精卵の成育を阻害するものに「流産促進的な効果 abortifacient effect」があるとの認識を示していない。
3.法案支持者は「安全でない中絶」で多くの死者が出ていることに言及することが多いが、そもそも中絶は犯罪であり悲劇的なのだ。しかるにリプロダクティブ・ヘルスの考えで行っては、「安全な中絶」であれば許容する、ということになりかねない。
法案を丁寧に読むと、以下の誤りが明らかになる、という。
・自分の身体に対する人間が神から与えられた管理者性(stewardship)という道徳上の問題が、単なる健康上の問題に還元されている。法案の支持者の中には、自身の身体を完全に支配することを「人権」と呼びさえするが、これは間違いである。
・法案の、人口増加が貧困の原因であるという想定は間違っている。開発というものは教育、良い統治、一貫性と透明性、交易、工業、農業などの複雑な相互作用の結果である。
・法案全体の調子は、キリスト教的な人間の性について、また責任ある親としてのあり方の理想をゆがめるものであり、道徳というものを片隅に追いやってしまう。
その上で、自分たちも女性たちの健康と権利を擁護し促進することを目指しているが、この法案はこの目的にも合わない、とし、教会の教えに反する深刻な過ちがあるゆえに我々(weがどこまでを指すのかがあいまいだが)はこの法案を拒絶せねばならない、とする。
冒頭のパウロの言葉に再度言及し、「私たちのカトリック教徒の議員たちは教会を通して神から受けた道徳的な教えに従って行動するであろうと確信している」と結ぶ。
***
いつものトーンである。残念なほど発見が少ない。信念を貫き、妥協を配するというのはそれ自体では結構なことであろうが。
・特に、非合法の危険な中絶の横行に対する懸念、人口問題の深刻さ(1億になるのも近いと聞く・・・10年前、確か6000万人と言っていたような・・・)について正面から論じず、対案を提起していない。
・性や家族のあり方が変化している(教会の立場からすれば崩れてきている)からこそ、こうした法案も出てくるのだとすれば、教会こそ、こうした法案の廃案にかけるエネルギーに比して、性教育や家族支援の努力は微々たるものであり、効果を挙げていないのではないか。とすれば、教会こそ性や家族といった広がりのある問題を、結果的には特定の法案の阻止という所に過剰に力を注ぐことで自ら矮小化しているのではないか。その意味では、彼らが批判する法案支持者の「性や家族の問題を健康問題に矮小化する」姿勢とさほど異ならないのではないか。
(*ちなみに、私個人の倫理観として、性や家族の問題をもっと包括的に捉えるべき、というのに異存はないし、中絶はやはり殺人であると理解している。とはいえ、政策としてどうするか、という場合には、そういうナマの倫理はそのまま法律にできるものではないと考える。自分たちのコミュニティの内外での地道な説得と、そうした生き方がしやすい環境作りこそが、まず第一になされるべきことであろうと考える。カトリック教会内にも地道にこうしたことに努めている方々がおられることも確かではあるが、なおフィリピンでは法をどうするか、ということに力点が置かれやすいようであり、これは適切でも効果的でもないと考えずにいられない。倫理はすべて法によって規定することはできない。ましてカトリック独自の倫理観を一律に押し付けることもできない。カトリック人口が8割といわれるが、少数派もいるし、政教分離、信教の自由を保障した憲法もあり、なおかつカトリック信徒といわれる人の多くも、性や家族の問題についての教会の政治的な影響力行使に眉をひそめたり、教会の反対する家族計画に賛成する人々も少なくないのだから。)
・「我々」の範囲のあいまいさを操作することで、相手を分断したり自分の土俵の中に入れて上から裁いたりすることを織り交ぜている。国会議員に対し、あなたはこちら側ですか、それともこちらにはいてはならない人ですか、と言っているわけで、暗に恫喝的な姿勢をもって臨んでいる。公共善の問題と教会の教えというのが区別されず、さりとて同一視されているのでもなく、あいまいなまま(教会の都合に合わせて)適宜使い分けられている。
もっとも、この点については、人々の側もカトリックに関することを、都合に合わせて「自分たちのこと」にしたり「彼ら(教会指導者とその指導に忠実な人々)」の問題として突き放したり、「我々」の範囲を使い分けているのである。さすがにtayo(相手を含む私たち)/kami(相手を含まない私たち)の文化(マラヨ・ポリネシア語族の特徴と聞く)、ともいえるのかもしれない。
2010年3月30日火曜日
THE CHRISTIAN FAMILY: GOOD NEWS FOR THE THIRD MILLENNIUM; 2 December 2002
原文は
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2002-4thworldmeetingoffamilies.html
原題は
THE CHRISTIAN FAMILY: GOOD NEWS FOR THE THIRD MILLENNIUM
A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines for the Fourth World Meeting of Families
再び「家庭」を主題とした、再び包括性のある声明である。そしてこれもまた、バチカンの動きと関わっている。当時のヨハネ=パウロ2世教皇主催の「第4回世界家族会議(Fourth World Meeting of Families)」がマニラで翌2003年1月22-26日に開催されるに際してこの声明が出されたのであった。
声明は、マニラが選ばれたことを名誉とし、フィリピン人クリスチャン家庭が会議の標語「第三千年紀のための福音(良い知らせ)(Good News for the Third Millennium)」となるようにとの神の呼びかけ(神の召しdivine call)である、とする。
1.家庭についての悪い知らせ(Bad News)
家庭は悪い知らせでもありうるという。特に貧困による極度の圧力、出稼ぎによる家庭崩壊、児童労働、ストリート・チルドレンなどの問題がまず挙げられるが、特に問題にしているのは、「物質主義的で消費主義的な価値観」(materialist and consumerist values)がマスメディアを通じ貧しい人々にまでサブリミナルに刷り込まれ浸透しつつあり、これが「福音の価値観」(Gospel values)に重大なダメージを及ぼしている、という点である。これにより結婚しないで親になるケースが増え、「ケリーダ(愛人)・システム」も容認されてしまっているとする。
特に問題とされているのは、離婚の合法化を目指す法案が繰り返し上程されていることであり、この法案の推進者は離婚を一度容認し、結婚の神聖性の意味が衰退した国ではかつてないほどの社会的・道義的な問題が起こってきたことがわかっていない、という。さらに「選択の自由」「リプロダクティブ・ヘルス」の名の下に中絶を容認したり、ピルを解禁することで違法な中絶の変わりに、実質上「安全な」中絶を提供しようとする動きが世界的にあると警鐘を鳴らす。「女性は自身の体についての権利がある」というそうした人々に対して、教書は「神がわれわれすべてをただ神に仕える者として創造され、われわれは道徳的原則に導かれなくてはならないという宗教的、道徳的現実」を無視していると反論する。
こうして「死の文化」(culture of death)が確立し、生まれる前も含めたすべての人間の尊厳と価値に関する、命、死、愛、結婚、家庭、他社関係についての「福音の価値観」は死に追いやられている、とする。
2.クリスチャン家庭は良い知らせ(Good News)
これに対し、すべての家庭はそもそも神が共におられ、私たちを愛しておられるということのしるしであるとし、特にクリスチャン家庭はミニチュア教会たる「家の教会」(domestic Church)として特に祝福されたものであって、フィリピン社会の進歩に著しく貢献しており、フィリピン人の大半のキリスト教信仰と並び、クリスチャン家族はフィリピン国家にとって神よりの真に最大の贈り物となりうるという。
創世記にあるとおり、家庭は男女の結婚愛の場として神の愛を反映する場であり、新しい命の宿る実り多い場でもあって、子どもはよい知らせであり、結婚のもたらす最上の贈り物であるという。また神の子がマリアとヨセフの家庭にやってくることにより、結婚はいっそう祝されたものとなり、結婚はキリストの秘跡のひとつとなり、ご自身の人間家庭に対する忠実な愛のしるしともなったという。だから結婚に問題が生じやすいことは知りつつも、イエスは「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」と言われたのだ、という。
そしてクリスチャン家庭が「死の文化」と対照的によい知らせであることを再度確認する。
3.使命に生きる家庭:イエスの福音(Good News)を知らせる
クリスチャン家庭の使命はイエス・キリストの福音を生活のあらゆる側面において宣べ伝えることであり、それは第1に愛に満ちた家庭を形成すること、第2に「神の像」(divine image)を人から人へと伝達することで子を産み育て、命に仕えること(特に中絶や政府推奨の人口抑制プログラム、「避妊メンタリティ」を拒絶すること)、そして社会と教会の刷新を支援することであるという。キリストの価値観を子どもの内に形成することは社会全体の変革につながるという。
社会変革のために、諸家庭は、法制度が家庭の権利と義務を支援し、積極的に守るようになるべく、政治的に介入しなくてはならないという。また社会正義を促進し、貧困を除去し、否定的な文化価値によって「損なわれた」(damaged)といわれることもある現在の文化を刷新することに積極的に参加すべきである、という。
そして家庭は教会の刷新の業に参加しなくてはならない、というのも、教会が「正統的な弟子たちの教会、真実な共同体、貧しい者たちの教会、参加的教会、文化に根付いた教会となる」というのが自分たちの教会としてのビジョンであり、この困難なビジョンをリードするのは家庭でなくてはならないからだという。
4.結論:証言する使命を担う家庭
教皇ヨハネ=パウロ2世が、家庭が本来の姿になることを呼びかけたことを想起しつつ、教書は、すべてのカトリック教育機関とすべての小教区に家庭形成のための教育にまい進するよう呼びかけ、最後は聖母マリアのとりなしを祈って終わる。
***
いくつかの点について考察してみる。
1.フィリピン人の大半がクリスチャンで、なおかつ家庭を大事と考える価値観を持っている、というのは実感も含め異論、違和感はない。ただ、それをどの程度、どういう意味で「福音の価値観」と呼ぶのか、またいわば「神の恵み」という鉄壁の強さを持つはずのものによってもたらされているはずのフィリピンのキリスト教化、そして福音の価値観というものが、どうして、どのようにして「物質主義的で消費主義的な価値観」によって掘り崩されているというのか、という内在的な考察がない。では、どういう考えなのか。
「福音の価値観」はアプリオリにフィリピンに存在するものとなっている。これは、過去、現在の教会の働き、教会形成、宣教活動、家族関係のケアなどの主体的な働きについての吟味につながらない。
これに対して、「物質主義・消費主義の価値観」は巧妙にひそかに、権力とマスメディアを通じてこれを掘り崩している。つまりはずるがしこい闇の力であり、かつある種帝国主義的なものとしての含意がある。こうなると、悪いのはそっちだということになり、警戒、非難、そして現状維持(のために家族計画に関するほうを悪魔的なものとし、断固排除すべきものとする声高な姿勢)につながってくる。
しかし、問題が価値観ならば、解決は価値のレベルのことであり、法制度の問題はそれとの関連でこそ考えられるべきなのに、教会として自分たちの現場、足元で、また家庭の現場で、どのような価値観をどう構築してきたか、どうしているのか、どうしていくのかがこの文章でも、また前年の文書でも(今に至るまで)見えない。
2.そもそもカトリック聖職者が、家庭のあり方について云々するときに、いわく言いがたい違和感が残る。もちろん、宗教指導者が家庭のあるべき姿について語るのは別にそれ自体でどうのということではないだろうが、それでも、いくつかの論点を拾うことはできそうである。なによりも、彼らは自分たちで家庭を築かない人たちであることが、ここでいくつかの問いを生じさせるように思える。というのは、彼らこそ、家庭というものの価値を相対化しているのであり、それはキリスト教のより広い伝統にも符合しているといえる。ところが、ここでは家庭が生み出す価値というものが、恐ろしく高く評価されている。そこで二つの方向で問いが出される。
ひとつは単純に、自分たちが主体とならない家庭の問題について、彼らが指導者として模範を見せることもないまま権威の座から語り続けるということの特異性である。結婚しない人が結婚のすばらしさについて、子どもを持たない、家庭を持たない決意をし、誓約をしている人が、子を宿すこと、家庭を築くことの重要性について力説していることは、ある種のねじれと疎外を信徒に与えるのではないか、と思われる。そんなこと言ったってあなたは独身の誓約をし、聖職者になることの特別な祝福を強調しているではないか、そもそも家族を持っていないくせに、家族のことについてわかるのか、口出しする資格があるのか、という問題である。
もうひとつはそのような独身聖職者が妙に結婚や家庭の至上性を強調しているところから来る。やはり結婚しない上座仏教の僧侶は家庭の価値について、ここまで積極的には語らないだろう。家庭も大事だが、出家というもっと大事な価値もある、というであろう。それがここにどうして見当たらないのかと思わずにおれない。キリスト教という宗教の存在感は、家庭よりもむしろ個人の神への献身によって現されてきたはずであり、それはむしろ家庭を相対化するような側面を持っていたはずであろう。家庭が文化を作り、文化が社会を作る、というのは、いかにも構造機能主義的な理解であって、宗教の持つ超越的な側面がぼやけてしまっている。
3.総じて言うと、いつもの話だが、やはりキリスト教社会を保守したい、という願望がよく現れているように思える。その観点からの現状の脅威認識であり、自らのなすべき働きに言及しないままの課題の一般信徒への丸投げである。そうしたことを、教皇の定めた祝祭に合わせる形で上手に纏め上げたこの文書を読んで、残るのは、やはり教会にはこの国について、家庭について、具体的な代替的政策案や方策を提示できていない、という印象ではないか。離婚や中絶の容認と人口抑制計画の推進といった政策の背後には、やむにやまれぬ人々の現実がある。教書は、ここに届いていない。現実を死と呼び、それと結びつかない理想を掲げ、それをフィリピン家庭の本来の姿だといって終わってしまっている。
どうしてこのように、地に足のつかないものになってしまうのか。この「地に足の着かない感じ」は、フィリピン社会において指導的な立場にある人たちの文化を理解する際のひとつの鍵になるのではないかと思うし、その背後にあるものを注視していかないといけないと思わされている。
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2002-4thworldmeetingoffamilies.html
原題は
THE CHRISTIAN FAMILY: GOOD NEWS FOR THE THIRD MILLENNIUM
A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines for the Fourth World Meeting of Families
再び「家庭」を主題とした、再び包括性のある声明である。そしてこれもまた、バチカンの動きと関わっている。当時のヨハネ=パウロ2世教皇主催の「第4回世界家族会議(Fourth World Meeting of Families)」がマニラで翌2003年1月22-26日に開催されるに際してこの声明が出されたのであった。
声明は、マニラが選ばれたことを名誉とし、フィリピン人クリスチャン家庭が会議の標語「第三千年紀のための福音(良い知らせ)(Good News for the Third Millennium)」となるようにとの神の呼びかけ(神の召しdivine call)である、とする。
1.家庭についての悪い知らせ(Bad News)
家庭は悪い知らせでもありうるという。特に貧困による極度の圧力、出稼ぎによる家庭崩壊、児童労働、ストリート・チルドレンなどの問題がまず挙げられるが、特に問題にしているのは、「物質主義的で消費主義的な価値観」(materialist and consumerist values)がマスメディアを通じ貧しい人々にまでサブリミナルに刷り込まれ浸透しつつあり、これが「福音の価値観」(Gospel values)に重大なダメージを及ぼしている、という点である。これにより結婚しないで親になるケースが増え、「ケリーダ(愛人)・システム」も容認されてしまっているとする。
特に問題とされているのは、離婚の合法化を目指す法案が繰り返し上程されていることであり、この法案の推進者は離婚を一度容認し、結婚の神聖性の意味が衰退した国ではかつてないほどの社会的・道義的な問題が起こってきたことがわかっていない、という。さらに「選択の自由」「リプロダクティブ・ヘルス」の名の下に中絶を容認したり、ピルを解禁することで違法な中絶の変わりに、実質上「安全な」中絶を提供しようとする動きが世界的にあると警鐘を鳴らす。「女性は自身の体についての権利がある」というそうした人々に対して、教書は「神がわれわれすべてをただ神に仕える者として創造され、われわれは道徳的原則に導かれなくてはならないという宗教的、道徳的現実」を無視していると反論する。
こうして「死の文化」(culture of death)が確立し、生まれる前も含めたすべての人間の尊厳と価値に関する、命、死、愛、結婚、家庭、他社関係についての「福音の価値観」は死に追いやられている、とする。
2.クリスチャン家庭は良い知らせ(Good News)
これに対し、すべての家庭はそもそも神が共におられ、私たちを愛しておられるということのしるしであるとし、特にクリスチャン家庭はミニチュア教会たる「家の教会」(domestic Church)として特に祝福されたものであって、フィリピン社会の進歩に著しく貢献しており、フィリピン人の大半のキリスト教信仰と並び、クリスチャン家族はフィリピン国家にとって神よりの真に最大の贈り物となりうるという。
創世記にあるとおり、家庭は男女の結婚愛の場として神の愛を反映する場であり、新しい命の宿る実り多い場でもあって、子どもはよい知らせであり、結婚のもたらす最上の贈り物であるという。また神の子がマリアとヨセフの家庭にやってくることにより、結婚はいっそう祝されたものとなり、結婚はキリストの秘跡のひとつとなり、ご自身の人間家庭に対する忠実な愛のしるしともなったという。だから結婚に問題が生じやすいことは知りつつも、イエスは「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」と言われたのだ、という。
そしてクリスチャン家庭が「死の文化」と対照的によい知らせであることを再度確認する。
3.使命に生きる家庭:イエスの福音(Good News)を知らせる
クリスチャン家庭の使命はイエス・キリストの福音を生活のあらゆる側面において宣べ伝えることであり、それは第1に愛に満ちた家庭を形成すること、第2に「神の像」(divine image)を人から人へと伝達することで子を産み育て、命に仕えること(特に中絶や政府推奨の人口抑制プログラム、「避妊メンタリティ」を拒絶すること)、そして社会と教会の刷新を支援することであるという。キリストの価値観を子どもの内に形成することは社会全体の変革につながるという。
社会変革のために、諸家庭は、法制度が家庭の権利と義務を支援し、積極的に守るようになるべく、政治的に介入しなくてはならないという。また社会正義を促進し、貧困を除去し、否定的な文化価値によって「損なわれた」(damaged)といわれることもある現在の文化を刷新することに積極的に参加すべきである、という。
そして家庭は教会の刷新の業に参加しなくてはならない、というのも、教会が「正統的な弟子たちの教会、真実な共同体、貧しい者たちの教会、参加的教会、文化に根付いた教会となる」というのが自分たちの教会としてのビジョンであり、この困難なビジョンをリードするのは家庭でなくてはならないからだという。
4.結論:証言する使命を担う家庭
教皇ヨハネ=パウロ2世が、家庭が本来の姿になることを呼びかけたことを想起しつつ、教書は、すべてのカトリック教育機関とすべての小教区に家庭形成のための教育にまい進するよう呼びかけ、最後は聖母マリアのとりなしを祈って終わる。
***
いくつかの点について考察してみる。
1.フィリピン人の大半がクリスチャンで、なおかつ家庭を大事と考える価値観を持っている、というのは実感も含め異論、違和感はない。ただ、それをどの程度、どういう意味で「福音の価値観」と呼ぶのか、またいわば「神の恵み」という鉄壁の強さを持つはずのものによってもたらされているはずのフィリピンのキリスト教化、そして福音の価値観というものが、どうして、どのようにして「物質主義的で消費主義的な価値観」によって掘り崩されているというのか、という内在的な考察がない。では、どういう考えなのか。
「福音の価値観」はアプリオリにフィリピンに存在するものとなっている。これは、過去、現在の教会の働き、教会形成、宣教活動、家族関係のケアなどの主体的な働きについての吟味につながらない。
これに対して、「物質主義・消費主義の価値観」は巧妙にひそかに、権力とマスメディアを通じてこれを掘り崩している。つまりはずるがしこい闇の力であり、かつある種帝国主義的なものとしての含意がある。こうなると、悪いのはそっちだということになり、警戒、非難、そして現状維持(のために家族計画に関するほうを悪魔的なものとし、断固排除すべきものとする声高な姿勢)につながってくる。
しかし、問題が価値観ならば、解決は価値のレベルのことであり、法制度の問題はそれとの関連でこそ考えられるべきなのに、教会として自分たちの現場、足元で、また家庭の現場で、どのような価値観をどう構築してきたか、どうしているのか、どうしていくのかがこの文章でも、また前年の文書でも(今に至るまで)見えない。
2.そもそもカトリック聖職者が、家庭のあり方について云々するときに、いわく言いがたい違和感が残る。もちろん、宗教指導者が家庭のあるべき姿について語るのは別にそれ自体でどうのということではないだろうが、それでも、いくつかの論点を拾うことはできそうである。なによりも、彼らは自分たちで家庭を築かない人たちであることが、ここでいくつかの問いを生じさせるように思える。というのは、彼らこそ、家庭というものの価値を相対化しているのであり、それはキリスト教のより広い伝統にも符合しているといえる。ところが、ここでは家庭が生み出す価値というものが、恐ろしく高く評価されている。そこで二つの方向で問いが出される。
ひとつは単純に、自分たちが主体とならない家庭の問題について、彼らが指導者として模範を見せることもないまま権威の座から語り続けるということの特異性である。結婚しない人が結婚のすばらしさについて、子どもを持たない、家庭を持たない決意をし、誓約をしている人が、子を宿すこと、家庭を築くことの重要性について力説していることは、ある種のねじれと疎外を信徒に与えるのではないか、と思われる。そんなこと言ったってあなたは独身の誓約をし、聖職者になることの特別な祝福を強調しているではないか、そもそも家族を持っていないくせに、家族のことについてわかるのか、口出しする資格があるのか、という問題である。
もうひとつはそのような独身聖職者が妙に結婚や家庭の至上性を強調しているところから来る。やはり結婚しない上座仏教の僧侶は家庭の価値について、ここまで積極的には語らないだろう。家庭も大事だが、出家というもっと大事な価値もある、というであろう。それがここにどうして見当たらないのかと思わずにおれない。キリスト教という宗教の存在感は、家庭よりもむしろ個人の神への献身によって現されてきたはずであり、それはむしろ家庭を相対化するような側面を持っていたはずであろう。家庭が文化を作り、文化が社会を作る、というのは、いかにも構造機能主義的な理解であって、宗教の持つ超越的な側面がぼやけてしまっている。
3.総じて言うと、いつもの話だが、やはりキリスト教社会を保守したい、という願望がよく現れているように思える。その観点からの現状の脅威認識であり、自らのなすべき働きに言及しないままの課題の一般信徒への丸投げである。そうしたことを、教皇の定めた祝祭に合わせる形で上手に纏め上げたこの文書を読んで、残るのは、やはり教会にはこの国について、家庭について、具体的な代替的政策案や方策を提示できていない、という印象ではないか。離婚や中絶の容認と人口抑制計画の推進といった政策の背後には、やむにやまれぬ人々の現実がある。教書は、ここに届いていない。現実を死と呼び、それと結びつかない理想を掲げ、それをフィリピン家庭の本来の姿だといって終わってしまっている。
どうしてこのように、地に足のつかないものになってしまうのか。この「地に足の着かない感じ」は、フィリピン社会において指導的な立場にある人たちの文化を理解する際のひとつの鍵になるのではないかと思うし、その背後にあるものを注視していかないといけないと思わされている。
2010年3月16日火曜日
SAVING AND STRENGTHENING THE FILIPINO FAMILY; 02 December 2001
正式にはタイトルは以下の通り。
SAVING AND STRENGTHENING THE FILIPINO FAMILY
A CBCP Pastoral Statement on the 20th Anniversary of Familiaris Consortio
02 December 2001
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2001-familiaris_consortio.html
前教皇(当時は現役)ヨハネ・パウロ2世の使徒的勧告『家庭 愛といのちのきずな(Familiaris Consortio)』の20周年を記念したもので、緊急の呼びかけなどと異なり、計画的に準備して書かれた大部のある程度教えを総合的に述べた文書であると言ってよい。今回は長いので、折々ごとにコメントを盛り込んでいく。
***
1.導入、フィリピン人家庭の状況
教皇が、家庭が現代、さまざまの危機にさらされている、と指摘していることを取り上げ、フィリピン人の家庭をこの観点から分析している。
フィリピンにおいては家庭になお高い価値が置かれており、家族関係、結婚、子ども、お年寄りを大事にする傾向がみられると称賛する。また1987年憲法が、1973年憲法にはなかった家庭優先(pro-family)、命優先(pro-life)の特徴があり、これが家庭を大事にする価値観(family values)を強力に支援しているとする。
しかし多くの社会状況が家庭を破壊し、ゆがめているという。クリスチャン夫婦、親としての責任を果たすのに欠かせないはずの教会での結婚という秘跡(sacrament)なしに同棲する男女が増えていること、結婚の前にほとんど準備をしなかったり、お互いの価値観を確認しなかったりする場合も多いこと、婚前の妊娠や駆け落ちが当たり前になっていること、海外出稼ぎによって家族がバラバラになり、子どもが犠牲になり、しばしば家庭崩壊に至ることが指摘される。有名人の不倫が結婚における貞節の評価を下げ、ポルノの蔓延は結婚の絆と「性という贈り物の聖性の感覚」(sense of the sacredness of the gift of sexuality)を弱めており、薬物の蔓延も家庭や共同体の安定を揺るがしているという。またいわゆる先進国の現代的な考えなるものがマスメディアを通じて広められ、これが家庭を重んじる価値観をゆがめ「結婚、家庭、人の命を重んじる我々の伝統的な姿勢」(our traditional esteem for marriage, family, and human life)を損ねているという。
そして、現在、「我らの宗教的信仰が理解するところの家庭というものを究極的に破壊するであろうと、我々が固く信じるような提案」を立法府が提案している、とする。離婚を認容し、憲法における中絶禁止条項を削除し、人口抑制政策を強行する諸法案である。また同性愛関係を新たな家庭のあり方として容認すべきとの声もあり、さらに学校において、命と「性という贈り物の聖性」を大切にしない性教育のプログラムが施行されようとしている、と警鐘を鳴らす。
<つぶやき> 前回と同じような話だが、ここにもあるのは、「悪い者は外から来る」という理解。「フィリピン人は元々はいいのだけれど、近代化でだまされて悪くなっている。テレビに欺かれている。有名人の悪い模範に惑わされている。先進国の考えに汚染されてきている…」 だから、法律で守る、という発想になるのだろうか。しかし、昔の人々がそんなに「いい」のなら、そんなに簡単に「堕落」していくであろうか、現状問題がこれほどあるというのなら、実は昔からその問題の根になるようなこともあったと考えられないのであろうか。
全国展開し、多くの信徒を傘下に持っているはずの教会が本来できるはずのことは、人々の日常に近づき、そこにおいて対話し、仕えることで体質づくりをしていくことであって、問題は法ではないのかもしれない、という、いわば権力や政治的影響力をあまり持たない運動体であれば自然なアプローチが、ここには見えてきにくいようだ。
2 使徒的勧告の教え
これらの現状に対し、教皇の使徒的勧告の導きを求めるべき、とし、①コミュニティ形成、②命への奉仕、③社会の開発に参加すること、④教会の生命と使命遂行にあずかること、の4点を挙げ、以下展開していく。
3 コミュニティを形成し離婚にNoと言う
マタイによる福音書19章6節を引きつつ、夫婦間の契約としての結婚は解消不能である、とする。夫婦生活の要は「誠実さ」(fidelity)「忠実さ」(faithfulness)であり、神の恵みが働くゆえに困難があっても乗り越えられるとする。この夫婦間の「結び合い」(communion―カトリックの秘跡としてのミサ聖祭にも用いられる言葉)は親子兄弟関係の土台であり、秘跡の受けることにおいて、また聖霊の賜物として、愛という自然な「結び合い」は家庭内の人々をキリストと、そして神の民と結び合わせる、とする。「犠牲、忍耐、許し、和解の大いなる精神を通して初めて家庭内の結び合いは保たれ、完成される、とする。
<つぶやき> もしそうなら、やはり家庭が実際にはうまくいかないケースが少なからず起こってくるのは必然、という結論になるのでは?とつい私は思ってしまう。うまくいかなかったとき、それでも離婚を避けるべきだとするなら、破たんの危機に直面した家族はどうすればよいというのか、そこの処方箋が現状のカトリック教会には欠けているのではないか、という疑念が消えない。
4 生命に仕え、生命に反するメンタリティと政策を拒絶する
第2の働きとして、子どもを産み育てることが挙げられる。ここで掲げられる使命は崇高なものに響く。「人間の生命の本質的な価値、特に自由についての正しい態度、真実な正義の感覚、さらに真実な愛の感覚、ことに貧しい者たちに対する愛の感覚」を教育するように、としている。そして、「明瞭かつ繊細な性教育を施す」ことで、「セクシュアリティにおいて確実に責任ある人格的な成長を遂げさせる道徳規範の知識と尊重の姿勢をもつようにする」べきであるとする。
<つぶやき> 家庭に対するこの現実離れでは、と思わずにいられない讃美、期待の大きさ、過大な要求は、やはり家庭をもたないカトリック聖職者の地に足のつかない演繹的な議論とみるべきか、あるいは現状の問題に教会がどう取り組むか、という難問を回避し、家庭に多くを要求しているということなのだろうか。
5 社会の開発に参加し、教会の生命と使命にあずかる
・社会と教会の刷新
ここでは、「家庭の政治(politics of family)」が提唱される。家庭の日常に存在する(という)「結び合い」と「分かち合い」こそが社会を土台から支えているから、この「家庭の政治」の社会介入を政府は妨げず、むしろ支援すべきである、とする。これは社会を変革することで「結婚という秘跡の徳によってキリスト者夫婦が持つ王者のごとき奉仕の働き」を全うすることであるという。
また、家庭はまた、「イエス・キリストとその教会の三職(預言者、司祭、王)への参加」を家庭内の相互の愛によって表現し現実化するという。そして、カトリック教会内のさまざまな家庭支援のプログラムや組織が紹介されている
<つぶやき>
家庭内の愛が社会を変革する、というのは理念やイメージとしては大変結構なことだが、「結婚」「家庭」が教会と社会の半ば無条件の媒介者として位置付けられているのは、果たして現実的な理解なのか。「秘跡」(つまりは聖職者階級の信徒階級への権威作用)が、結婚に社会変革という軌跡を担ういわば魔力を無条件に与えているような印象を受ける。
・社会正義の促進と貧困の根絶
上記教会の「家庭使徒職」(family apostolate)活動に関わる人々に対して、まず第1に貧困問題に注目するようにと呼びかける。貧困は家庭を破壊するものであり、神のみ心に反するという。貧富格差のはなはだしい中で、われわれはみな社会正義、公共善(common good)の正義を追求すべきであり、国の物品(goods)の公平な分配を要求すべきである、という。
そして、政府に対し、貧困の根絶のために、貧しい人々のための住宅、教育、医療政策に力を入れるよう呼びかける。このような中で汚職は多くの人々に益するはずの信じがたいほどの額の公金をかすめ取る最悪の盗みの罪である、と糾弾する。
ビジネス指導者に対しては、利潤追及を超えた貧困者への配慮、そして雇用創出努力を呼びかける。そしてしばしば引かれる新約聖書、マタイ福音書25章のイエスの言葉「これらの最も小さなものたちにしたのは、私にしたのである」で閉じる。
<つぶやき>
重要な問題ではあると思うが、少なくとも捉え方が貧困家庭の側の視点ではないという印象をもつ。こうした家庭がどのように自立していくのか、当事者は当事者の立場からいろいろ模索しているのだと思うが、そこの評価が抜けたまま、政府とビジネス指導者に呼び掛けるというのは、やはり教会の関心はそのあたりにあるのかな、と思わさせられる。
国がよくなるためには政府と産業界が頑張るべし、というのは勿論一つの分かりやすい、支配的な考えではあると思う。極端な場合、私が知る中では例えばマニラ首都圏オルティガスのグリーンヒルズ・クリスチャン・フェローシップ(GCF)のように、ビジネスマンをターゲットに教会形成し、彼らのような社会において指導力も富もある人々が変われば国全体が変わるはず、という考え方で行くようなやり方すらある。カトリック教会の場合それとは異なるにせよ、やはり、このGCF流のいい方でいえば「戦略的に重要な人々」の動向こそが問題であり大事だ、という発想は共通のものであると思われる。これも一つの考えではあるが、教会のあり方として、これをどう評価するのか、興味深いと思った。
6 家庭の文化を刷新する
もう一つ第2に深刻な問題は家族の浄化(purification)と道徳的刷新(moral renewal)であるという。子どもたちは大人たちの姿、映画、テレビを見て悪い影響を受け、また「物質主義的、世俗主義的なグローバル文化」(a materialistic and secularist global culture)がフィリピン人家庭にひどい影響を及ぼしているという。
他方でフィリピン家庭には元々、自分たちの家庭を偶像化し、その利益のために公共善を犠牲にする悪い側面もあり、これが様々な汚職や私利私欲の原因になるという。
7 家庭を聖性の学校とする
これに対し、家庭はむしろ筋を曲げぬ誠実さ、正義、平和、愛の最初の学びやたるべし、という。2001年の初めて夫婦が列福された(beatified)ことを挙げ、優れた子どもを育てることの素晴らしさ、結婚生活がお互いを聖なるものとすることを表しているという。これは教会の教えなしでは成し遂げられない、という。とくに婚姻の秘跡が結実したのであり、聖餐の犠牲の秘跡によってキリストと教会の愛の結合に連なることで夫婦は養いと力づけを受け、和解の秘跡(告解)により許しと刷新を受けた、といったことが重要であるという。
特に家族一緒に祈り(特に家庭ロザリオ)を唱えることが重要だという。
フィリピンでは祈りにおいて父親が模範もリーダーシップも示さないのが悲劇的であり、父の祈りが特に不可欠である、と強調する。
<つぶやき>
秘跡…どうもこの言葉のカトリック特有の使い方の理解はとても重要であると思う。プロテスタントでは「聖礼典」と呼ばれる(洗礼と聖餐の二つの場合がほとんど‐カトリックは7つ)が、カトリックに比べると重要度が低いといえる。聖書の説教や勉強会、教会形成・運営、メンバー間の交流、伝道集会などのイベントの方が重要となる。カトリックにもこれらの側面はあるが、これらを包摂するのが秘跡であり、教会というもの自体が包括的に「秘跡的なもの」として理解されている。これは単に神からの恵み、という超越的な面だけで理解されているのではなく(これだけならばプロテスタントでも似た理解は可能)、その恵みはキリストが立てた指導者ペトロの正統な後継者であるバチカンとその配下にある司教(そしてその代理者としての司祭)による典礼を通じて注がれるものとされる。
だから、秘跡という言葉と特定の世俗の事象(例えばここでの「家庭」など)が結び付けられると、それらが神の祝福のもとにある、というだけでなく、位階制聖職(教会ヒエラルキー)の監督のもとに置かれている、ということになってしまう。だから、「秘跡」は、単に超越的な「恵み」の概念のもつある種のヘゲモニーのみならず、そのヘゲモニーが具体的な組織によって独占されていることを表すことになる。
これは、もっと考察する価値がありそうだと直感する。
とすると、教会もまた秘跡そのもの、と捉えられているわけで、「教会」という概念も、この視点から改めて考察することもできるのだろうと思う。
8 宣教の焦点としての家庭
家庭は「第一義的で生き生きとした社会の核」であるとともに、「家族的教会」「家における教会」すなわち愛といのちの共同体であるという。
すでに以前取り上げた2001年初頭の「教会刷新に関する全国司牧会議」(national Pastoral Consultation on Church Renewal)では家庭こそ福音化(evangelization)の焦点でなくてはならないとした。教書の当事者である司教たち(「あなた方の司教たちである私たち」(we your Bishops))も改めてフィリピン人の家庭を守り強めることに献身するという。
<つぶやき>
いつものことではあるが、具体策がない。この問題は長期的な課題でありつづけていることを考えれば、繰り返される、「努力を傾けなくてはならない」は、これまでしてきたことを続ければよい、ということを含意しているのだろうか。
結論
結論は、「教皇の勧告を実践しましょう」に尽きる。イエス、マリア、ヨセフの家族の祝福を祈り、最後に「恩寵満てる処女、聖母マリア、家庭の女王、我々がその子どもたちである方」(Blessed Virgin Mother, Mary, whose children we are)がフィリピン人家庭を守り、すべての家庭の救い主である御子イエスに近づけてくださるように、と祈って閉じる。
<つぶやき>
いつも思うこと。カトリックでは、この「聖家族」が「家庭の模範」となっているが、これをどう見るか、ということである。プロテスタントとしてすでにかなりのバイアスのある私としてみれば、(今さらではあるが)どう踏み込むのが適切か、改めて戸惑うが、とりあえずこのメモでは偏見丸出しで突進することにする。
この家族、はっきり言って特殊である。プロテスタントでは、マリアはイエスが生まれるまでは処女だったかもしれないが、そのあと二人は夫婦生活を営み、イエスには弟や妹がいる、という理解になっている。だから、まあイエスの生い立ちは特殊として、そこからあとは普通の家庭とも言える。
ところが、カトリックではそうではなく、マリアは終生処女であったと理解されている。だから、子どもも他にはいない。またマリア自身も通常の人間にあるはずの原罪なくして奇跡的に生まれたという「無原罪の御宿り」という独特の事情も加わる。セックスレスの夫婦のもとにひとりっ子、そして偉大な神の子イエス・キリスト、そして実はこのイエスよりもよっぽど頼りにされていて、この教書でも祈りの仕上げもイエスよりもむしろ彼女にいってしまうほどのカリスマ母にして処女というスーパーウーマンのマリア、そこに所在無げな父ヨセフ。
ごーまんかましてよかですか。
正直、この家庭、どう模範にしたらよいのでしょう?
ごーまんかましたところで、長い長い文章を終わりにします。読んでくれた奇特な方、ありがとうございます。そのような方は、「読みました」だけでもいいので、足跡を残していってくださいませ。
SAVING AND STRENGTHENING THE FILIPINO FAMILY
A CBCP Pastoral Statement on the 20th Anniversary of Familiaris Consortio
02 December 2001
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2001-familiaris_consortio.html
前教皇(当時は現役)ヨハネ・パウロ2世の使徒的勧告『家庭 愛といのちのきずな(Familiaris Consortio)』の20周年を記念したもので、緊急の呼びかけなどと異なり、計画的に準備して書かれた大部のある程度教えを総合的に述べた文書であると言ってよい。今回は長いので、折々ごとにコメントを盛り込んでいく。
***
1.導入、フィリピン人家庭の状況
教皇が、家庭が現代、さまざまの危機にさらされている、と指摘していることを取り上げ、フィリピン人の家庭をこの観点から分析している。
フィリピンにおいては家庭になお高い価値が置かれており、家族関係、結婚、子ども、お年寄りを大事にする傾向がみられると称賛する。また1987年憲法が、1973年憲法にはなかった家庭優先(pro-family)、命優先(pro-life)の特徴があり、これが家庭を大事にする価値観(family values)を強力に支援しているとする。
しかし多くの社会状況が家庭を破壊し、ゆがめているという。クリスチャン夫婦、親としての責任を果たすのに欠かせないはずの教会での結婚という秘跡(sacrament)なしに同棲する男女が増えていること、結婚の前にほとんど準備をしなかったり、お互いの価値観を確認しなかったりする場合も多いこと、婚前の妊娠や駆け落ちが当たり前になっていること、海外出稼ぎによって家族がバラバラになり、子どもが犠牲になり、しばしば家庭崩壊に至ることが指摘される。有名人の不倫が結婚における貞節の評価を下げ、ポルノの蔓延は結婚の絆と「性という贈り物の聖性の感覚」(sense of the sacredness of the gift of sexuality)を弱めており、薬物の蔓延も家庭や共同体の安定を揺るがしているという。またいわゆる先進国の現代的な考えなるものがマスメディアを通じて広められ、これが家庭を重んじる価値観をゆがめ「結婚、家庭、人の命を重んじる我々の伝統的な姿勢」(our traditional esteem for marriage, family, and human life)を損ねているという。
そして、現在、「我らの宗教的信仰が理解するところの家庭というものを究極的に破壊するであろうと、我々が固く信じるような提案」を立法府が提案している、とする。離婚を認容し、憲法における中絶禁止条項を削除し、人口抑制政策を強行する諸法案である。また同性愛関係を新たな家庭のあり方として容認すべきとの声もあり、さらに学校において、命と「性という贈り物の聖性」を大切にしない性教育のプログラムが施行されようとしている、と警鐘を鳴らす。
<つぶやき> 前回と同じような話だが、ここにもあるのは、「悪い者は外から来る」という理解。「フィリピン人は元々はいいのだけれど、近代化でだまされて悪くなっている。テレビに欺かれている。有名人の悪い模範に惑わされている。先進国の考えに汚染されてきている…」 だから、法律で守る、という発想になるのだろうか。しかし、昔の人々がそんなに「いい」のなら、そんなに簡単に「堕落」していくであろうか、現状問題がこれほどあるというのなら、実は昔からその問題の根になるようなこともあったと考えられないのであろうか。
全国展開し、多くの信徒を傘下に持っているはずの教会が本来できるはずのことは、人々の日常に近づき、そこにおいて対話し、仕えることで体質づくりをしていくことであって、問題は法ではないのかもしれない、という、いわば権力や政治的影響力をあまり持たない運動体であれば自然なアプローチが、ここには見えてきにくいようだ。
2 使徒的勧告の教え
これらの現状に対し、教皇の使徒的勧告の導きを求めるべき、とし、①コミュニティ形成、②命への奉仕、③社会の開発に参加すること、④教会の生命と使命遂行にあずかること、の4点を挙げ、以下展開していく。
3 コミュニティを形成し離婚にNoと言う
マタイによる福音書19章6節を引きつつ、夫婦間の契約としての結婚は解消不能である、とする。夫婦生活の要は「誠実さ」(fidelity)「忠実さ」(faithfulness)であり、神の恵みが働くゆえに困難があっても乗り越えられるとする。この夫婦間の「結び合い」(communion―カトリックの秘跡としてのミサ聖祭にも用いられる言葉)は親子兄弟関係の土台であり、秘跡の受けることにおいて、また聖霊の賜物として、愛という自然な「結び合い」は家庭内の人々をキリストと、そして神の民と結び合わせる、とする。「犠牲、忍耐、許し、和解の大いなる精神を通して初めて家庭内の結び合いは保たれ、完成される、とする。
<つぶやき> もしそうなら、やはり家庭が実際にはうまくいかないケースが少なからず起こってくるのは必然、という結論になるのでは?とつい私は思ってしまう。うまくいかなかったとき、それでも離婚を避けるべきだとするなら、破たんの危機に直面した家族はどうすればよいというのか、そこの処方箋が現状のカトリック教会には欠けているのではないか、という疑念が消えない。
4 生命に仕え、生命に反するメンタリティと政策を拒絶する
第2の働きとして、子どもを産み育てることが挙げられる。ここで掲げられる使命は崇高なものに響く。「人間の生命の本質的な価値、特に自由についての正しい態度、真実な正義の感覚、さらに真実な愛の感覚、ことに貧しい者たちに対する愛の感覚」を教育するように、としている。そして、「明瞭かつ繊細な性教育を施す」ことで、「セクシュアリティにおいて確実に責任ある人格的な成長を遂げさせる道徳規範の知識と尊重の姿勢をもつようにする」べきであるとする。
<つぶやき> 家庭に対するこの現実離れでは、と思わずにいられない讃美、期待の大きさ、過大な要求は、やはり家庭をもたないカトリック聖職者の地に足のつかない演繹的な議論とみるべきか、あるいは現状の問題に教会がどう取り組むか、という難問を回避し、家庭に多くを要求しているということなのだろうか。
5 社会の開発に参加し、教会の生命と使命にあずかる
・社会と教会の刷新
ここでは、「家庭の政治(politics of family)」が提唱される。家庭の日常に存在する(という)「結び合い」と「分かち合い」こそが社会を土台から支えているから、この「家庭の政治」の社会介入を政府は妨げず、むしろ支援すべきである、とする。これは社会を変革することで「結婚という秘跡の徳によってキリスト者夫婦が持つ王者のごとき奉仕の働き」を全うすることであるという。
また、家庭はまた、「イエス・キリストとその教会の三職(預言者、司祭、王)への参加」を家庭内の相互の愛によって表現し現実化するという。そして、カトリック教会内のさまざまな家庭支援のプログラムや組織が紹介されている
<つぶやき>
家庭内の愛が社会を変革する、というのは理念やイメージとしては大変結構なことだが、「結婚」「家庭」が教会と社会の半ば無条件の媒介者として位置付けられているのは、果たして現実的な理解なのか。「秘跡」(つまりは聖職者階級の信徒階級への権威作用)が、結婚に社会変革という軌跡を担ういわば魔力を無条件に与えているような印象を受ける。
・社会正義の促進と貧困の根絶
上記教会の「家庭使徒職」(family apostolate)活動に関わる人々に対して、まず第1に貧困問題に注目するようにと呼びかける。貧困は家庭を破壊するものであり、神のみ心に反するという。貧富格差のはなはだしい中で、われわれはみな社会正義、公共善(common good)の正義を追求すべきであり、国の物品(goods)の公平な分配を要求すべきである、という。
そして、政府に対し、貧困の根絶のために、貧しい人々のための住宅、教育、医療政策に力を入れるよう呼びかける。このような中で汚職は多くの人々に益するはずの信じがたいほどの額の公金をかすめ取る最悪の盗みの罪である、と糾弾する。
ビジネス指導者に対しては、利潤追及を超えた貧困者への配慮、そして雇用創出努力を呼びかける。そしてしばしば引かれる新約聖書、マタイ福音書25章のイエスの言葉「これらの最も小さなものたちにしたのは、私にしたのである」で閉じる。
<つぶやき>
重要な問題ではあると思うが、少なくとも捉え方が貧困家庭の側の視点ではないという印象をもつ。こうした家庭がどのように自立していくのか、当事者は当事者の立場からいろいろ模索しているのだと思うが、そこの評価が抜けたまま、政府とビジネス指導者に呼び掛けるというのは、やはり教会の関心はそのあたりにあるのかな、と思わさせられる。
国がよくなるためには政府と産業界が頑張るべし、というのは勿論一つの分かりやすい、支配的な考えではあると思う。極端な場合、私が知る中では例えばマニラ首都圏オルティガスのグリーンヒルズ・クリスチャン・フェローシップ(GCF)のように、ビジネスマンをターゲットに教会形成し、彼らのような社会において指導力も富もある人々が変われば国全体が変わるはず、という考え方で行くようなやり方すらある。カトリック教会の場合それとは異なるにせよ、やはり、このGCF流のいい方でいえば「戦略的に重要な人々」の動向こそが問題であり大事だ、という発想は共通のものであると思われる。これも一つの考えではあるが、教会のあり方として、これをどう評価するのか、興味深いと思った。
6 家庭の文化を刷新する
もう一つ第2に深刻な問題は家族の浄化(purification)と道徳的刷新(moral renewal)であるという。子どもたちは大人たちの姿、映画、テレビを見て悪い影響を受け、また「物質主義的、世俗主義的なグローバル文化」(a materialistic and secularist global culture)がフィリピン人家庭にひどい影響を及ぼしているという。
他方でフィリピン家庭には元々、自分たちの家庭を偶像化し、その利益のために公共善を犠牲にする悪い側面もあり、これが様々な汚職や私利私欲の原因になるという。
7 家庭を聖性の学校とする
これに対し、家庭はむしろ筋を曲げぬ誠実さ、正義、平和、愛の最初の学びやたるべし、という。2001年の初めて夫婦が列福された(beatified)ことを挙げ、優れた子どもを育てることの素晴らしさ、結婚生活がお互いを聖なるものとすることを表しているという。これは教会の教えなしでは成し遂げられない、という。とくに婚姻の秘跡が結実したのであり、聖餐の犠牲の秘跡によってキリストと教会の愛の結合に連なることで夫婦は養いと力づけを受け、和解の秘跡(告解)により許しと刷新を受けた、といったことが重要であるという。
特に家族一緒に祈り(特に家庭ロザリオ)を唱えることが重要だという。
フィリピンでは祈りにおいて父親が模範もリーダーシップも示さないのが悲劇的であり、父の祈りが特に不可欠である、と強調する。
<つぶやき>
秘跡…どうもこの言葉のカトリック特有の使い方の理解はとても重要であると思う。プロテスタントでは「聖礼典」と呼ばれる(洗礼と聖餐の二つの場合がほとんど‐カトリックは7つ)が、カトリックに比べると重要度が低いといえる。聖書の説教や勉強会、教会形成・運営、メンバー間の交流、伝道集会などのイベントの方が重要となる。カトリックにもこれらの側面はあるが、これらを包摂するのが秘跡であり、教会というもの自体が包括的に「秘跡的なもの」として理解されている。これは単に神からの恵み、という超越的な面だけで理解されているのではなく(これだけならばプロテスタントでも似た理解は可能)、その恵みはキリストが立てた指導者ペトロの正統な後継者であるバチカンとその配下にある司教(そしてその代理者としての司祭)による典礼を通じて注がれるものとされる。
だから、秘跡という言葉と特定の世俗の事象(例えばここでの「家庭」など)が結び付けられると、それらが神の祝福のもとにある、というだけでなく、位階制聖職(教会ヒエラルキー)の監督のもとに置かれている、ということになってしまう。だから、「秘跡」は、単に超越的な「恵み」の概念のもつある種のヘゲモニーのみならず、そのヘゲモニーが具体的な組織によって独占されていることを表すことになる。
これは、もっと考察する価値がありそうだと直感する。
とすると、教会もまた秘跡そのもの、と捉えられているわけで、「教会」という概念も、この視点から改めて考察することもできるのだろうと思う。
8 宣教の焦点としての家庭
家庭は「第一義的で生き生きとした社会の核」であるとともに、「家族的教会」「家における教会」すなわち愛といのちの共同体であるという。
すでに以前取り上げた2001年初頭の「教会刷新に関する全国司牧会議」(national Pastoral Consultation on Church Renewal)では家庭こそ福音化(evangelization)の焦点でなくてはならないとした。教書の当事者である司教たち(「あなた方の司教たちである私たち」(we your Bishops))も改めてフィリピン人の家庭を守り強めることに献身するという。
<つぶやき>
いつものことではあるが、具体策がない。この問題は長期的な課題でありつづけていることを考えれば、繰り返される、「努力を傾けなくてはならない」は、これまでしてきたことを続ければよい、ということを含意しているのだろうか。
結論
結論は、「教皇の勧告を実践しましょう」に尽きる。イエス、マリア、ヨセフの家族の祝福を祈り、最後に「恩寵満てる処女、聖母マリア、家庭の女王、我々がその子どもたちである方」(Blessed Virgin Mother, Mary, whose children we are)がフィリピン人家庭を守り、すべての家庭の救い主である御子イエスに近づけてくださるように、と祈って閉じる。
<つぶやき>
いつも思うこと。カトリックでは、この「聖家族」が「家庭の模範」となっているが、これをどう見るか、ということである。プロテスタントとしてすでにかなりのバイアスのある私としてみれば、(今さらではあるが)どう踏み込むのが適切か、改めて戸惑うが、とりあえずこのメモでは偏見丸出しで突進することにする。
この家族、はっきり言って特殊である。プロテスタントでは、マリアはイエスが生まれるまでは処女だったかもしれないが、そのあと二人は夫婦生活を営み、イエスには弟や妹がいる、という理解になっている。だから、まあイエスの生い立ちは特殊として、そこからあとは普通の家庭とも言える。
ところが、カトリックではそうではなく、マリアは終生処女であったと理解されている。だから、子どもも他にはいない。またマリア自身も通常の人間にあるはずの原罪なくして奇跡的に生まれたという「無原罪の御宿り」という独特の事情も加わる。セックスレスの夫婦のもとにひとりっ子、そして偉大な神の子イエス・キリスト、そして実はこのイエスよりもよっぽど頼りにされていて、この教書でも祈りの仕上げもイエスよりもむしろ彼女にいってしまうほどのカリスマ母にして処女というスーパーウーマンのマリア、そこに所在無げな父ヨセフ。
ごーまんかましてよかですか。
正直、この家庭、どう模範にしたらよいのでしょう?
ごーまんかましたところで、長い長い文章を終わりにします。読んでくれた奇特な方、ありがとうございます。そのような方は、「読みました」だけでもいいので、足跡を残していってくださいませ。
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