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2011年4月9日土曜日

CBCP司牧書簡 「賭博を撲滅せよ:賭博は道徳的・社会的な癌」 2003年3月10日

ERADICATE GAMBLING: IT IS MORAL AND SOCIAL CANCER (A Pastoral Statement on Gambling)

ちなみに、この文書と次の文書はそれ以前に私が言及したものと分けられている。

時期や内容を考えると、それ以前のものは1月と7月の定例会合(Plenary Assembly)などで正式に詰められた文書であると考えられる。それに対して残りの2つは司教協議会の議長(ここではコタバト大司教のオルランド・ケベド)の判断で出された随時の声明であると考えられる。但し、文書自体は別段カテゴリー分けされずに整理されており、後の時代に読む際には一緒に読まれることになるから、この区別はあまり重要ではなくなると思われる。

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賭博の蔓延を非難し、克服を訴える文書である。

賭博の問題は、勤勉・誠実・正義・良心といった道徳的価値を破壊すること、そしてこれが社会において組織的な形で合法性を軽んじた形でそのお金の流れなども秘密裏なまま蔓延するために、社会全体を不法な形で腐敗させることにある、とする。また、貧しい人々を食い物に賭博経営者たちが莫大な利益を得ることも不道徳極まりないとする。

結論として組織的な賭博一般を非難し、特に非合法賭博の合法化への動きを糾弾している。政治家たちの自制を求めると共に、違法賭博フエテンとの対決で特に知られるようになったオスカー・クルス大司教(当時はリンガイェン=ダグパン大司教区、現在は教区活動からは引退)がリーダーシップを発揮しているNGO「フエテンと対決する民衆のクルセード」(Krusadang Bayan Laban sa Jueteng)のような働きを支援するように促している。

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その蔓延ぶりで知られる違法賭博「フエテン」は、エストラーダ大統領の2001年の放逐過程の弾劾裁判でも、その上納金を受け取ったとの疑惑が重要な問題となっていた。これに対し、政治的にはフエテンをそのまま押さえ込むのは困難であり、合法化することで可視化しやすくし、またその収益の一部を福祉に役立てる、という提案が出されるようになって来た。これに対し、カトリック教会指導層はほぼ一貫して賭博の不道徳性を訴え、フエテンの徹底的な取締りを主張している。

しかし、そうした中で、聖職者を含む教会関係者も賭博と無縁でないことが指摘される。
1)教会系の福祉活動が政府の合法賭博機関の資金的な支援を受けている
2)フエテン運営に関わっている人々から教会に多額の献金がある
3)末端の教会指導者の中にはフエテン関係者と親しい人たちも少なくない
4)素朴に賭博系のゲームを娯楽として楽しんでしまう聖職者がいるという報道もある
などの中で、教会指導者の多くは(クルス大司教のような例外もあるが)この問題については結局歯切れの悪い態度になってしまう。

ともあれ、カトリック教会にとって、賭博は原則的に絶対ダメなものであり、だから公文書でもその建前を前面に掲げることになっていることが、この文書でも確認できる。

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もう一点、この教書の中から気になる点を指摘したい。

「労苦して得たお金を手に、貧しい人々は日々安易にお金が手に入るという賭博の空しい誘いに惹かれていく。娯楽場の価値が多少はあるとしても、それで生活上の基本的な必要のために欠かせないお金を失うことから家族全体がさいなまれる苦しみを正当化することは出来ない」とある。これは教会関係者がよく口にすることである。

しかし、もし賭博が強制的なものでないのであれば、ここで問題になるのは、それに参加してしまう人たち自身の道徳ではないか。もしそうだとすれば、社会において長年にわたり道徳指導者であったはずの教会の指導上の問題もあるはずである。教会が賭博に反対することはそれとして、教会の本業とより密接に関わるのは、人々一人一人へのケアであり、その人たちが生活を傾けるほどギャンブルにのめりこまないように、目を覚まさせることであろう。また、教会や市民社会がもしもっと健全な娯楽を提供できるならばどうであろうか。

ここでも教会は、本業に関する問題と、きちんと向き合いきれていないように私には思えてしまう。

2011年1月25日火曜日

CBCP司牧書簡「現在の政治状況について司牧声明」 2003年9月1日

PASTORAL STATEMENT ON THE PRESENT POLITICAL SITUATION

政治の過剰、誤用による行政の停滞を批判する教書である。特に過剰な権力闘争と足の引っ張り合い、そして汚職の問題に警告を発し、政府がこうした問題の克服のためにイニシャティブを取ることを励ましている。問題の根底にあるのは個人的な、また政治的な道徳性の欠落という罪の問題であり、これと対決しなくてはならないし、教会もその点で、過ちがある点で例外ではないし、教会もこの問題に力をあわせて取り組みたい、とする。

最後に1991年の第2フィリピン教会会議の文書からビジョンを引用して終わっている。「道徳の諸原則が社会経済生活・構造において卓越する自由な国、正義、愛、団結が開発の原動力となる国・・・国民であることが参加への呼びかけであり、関与と指導性が寛大な奉仕への召集であるような主権国家・・・」

次年度の選挙に先立つ政治家たち、そしてマスメディアの動きが背景にあると考えられる。2001年1月の政変で副大統領から昇格した当時のマカパガル=アロヨ大統領は、一度は出馬しないことを約束しながらそれを反故にしており、その大統領の身辺には既にいくつかの疑惑が浮上していた。そのような中で、政変で放逐される形になったエストラーダ元大統領派のフェルナンド・ポー(FPJ)候補の優勢が伝えられる中、政争絡みの様々な情報が乱れ飛ぶ状況が背後にあった。

2004年選挙は、プロテスタント福音派(ボーンアゲイン)の「ジーザス・イズ・ロード運動」の指導者ブラザー・エディ(・ビリャヌエバ)が道徳の刷新を掲げて大統領に立候補し一定の話題を集めるなど、政治の浄化刷新が、宗教的な刷新と重ねあわされるような仕方で語られる雰囲気が少なからずあった。

しかしそれもあくまでことの一面である。同時に政治経験が乏しくエストラーダ派の実力者による腐敗した政治の導入が懸念されるFPJの当選の可能性が大きいことに危機感を抱いた人々は、中間層やビジネス界に少なからずいて、FPJだけは避けたい、という人たちの中には、腐敗の疑いはあってもアロヨ再選の方がまし、という声を上げる人々も少なからずいた。

その中で振り返ると、当時の教会はまだ2001年の政変を「ピープルパワー」として肯定的に捉える雰囲気を残していて、道徳刷新を掲げてはいても本音としてはFPJよりアロヨのほうがまし、というところに落ち着いていたのではないかと思われる。2004年の選挙に関して、開票にかなり時間がかかっていたにもかかわらずカトリック司教協議会が早々にアロヨの勝利を認めてしまったことはそのことをよくあらわしている。2005年に選挙操作問題が浮上したときに教会が今ひとつ積極的にアロヨ大統領の辞任要求に徹し切れなかったのも、そのあたりがあるのかもしれない。

そう考えると、この短い声明も、かなりの程度建前の文書であるのでは、と考えながら読むのが適切ではないか。

2010年11月22日月曜日

CBCP司牧書簡「「創造の日」「創造のとき」を祝う」 2003年9月1日

CELEBRATING CREATION DAY AND CREATION TIME

カトリック教会では9月1日が「創造の日」として、またアシジの聖フランチェスコの祝日である10月4日(あるいは直後の日曜日)が「創造のとき」として祝われているとのこと。キリスト教には、神がこの世界を創造し、特に人間は「神の似型」に創造されたという根本思想があるが、これを改めて想起する、というのがこの教書の内容である。

カトリック司教協議会は1988年に「我らの美しい大地に起こっていること」と題して環境問題についての声明を出している(本文の1998年は誤り)。

WHAT IS HAPPENING TO OUR BEAUTIFUL LAND - A Pastoral Letter on Ecology

ここでも改めて、昨今の災害、特に洪水とその背後にある森林伐採に触れるなど、生態的な危機状況を挙げる。また鉱山開発のもたらす汚染や遺伝子組み換えの潜在的危険性などにも議論が及ぶ。

これを踏まえ、教会は「回心」(conversion)を訴える。このために教区、小教区、教会基礎共同体、キリスト教学校、修道会など教会関連の諸団体の、環境教育、環境保全活動、持続可能な開発計画などが始められていることを挙げる。また、教会教派を超えたエコロジカルな提言がなされてきていることも指摘する。

また、これら祝祭に際しては、教会の典礼で世界の美しさと苦悩、人間が自然と不可分であること、社会正義を求める闘いが継続中であることに触れるよう求め、また環境保全のための働きを教会の各レベルで促進するよう訴えている。また、政府に対して、短期的な経済的利益を優先して長期的な生態的破壊をもたらすことのないよう呼びかけている。

最後に世界創造の父、世界の救済者である子イエス・キリスト、命を支える聖霊の三位一体の神への信仰を深めるよう訴えた上で、「命の母なる聖母マリア」の加護と大地の癒しを求めて終わる。

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フィリピンのカトリック教会は、特に森林の過剰伐採に対して、また近隣住民の生活環境への配慮を欠いた鉱業に対して、厳しく対峙してきた。この文書にも、そうした教会としてのコミットメントが確認されている。文章の全体的な簡潔さに、かえって各部門で地道な取り組みがなされてきたことが伺われる。

マスコミの中では、森林の(特に)違法伐採監視による保全努力は、比較的好意的に取り扱われてきたと思う。他方、鉱山開発に対する厳しい対応(環境問題及び地元への利益還元のなさ)については、主要紙は特に中間層・富裕層を対象とすることもあってか、投書欄や意見広告を通じて、産業振興、雇用創出を根拠とした開発推進論、また教会関係者を素人としてその干渉を批判する議論が繰り返し出されてきている。個人的には、過去に読んだいくつかの資料に基づいて、雇用創出効果は、特に地元への間限度は非常に限定されていると共に、鉱山開発に伴う汚染は明らかで、かつ住民への十分な補償がなされたためしがないという理解をしている。だから、カトリック教会の側が基本的に正当であると理解している。

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(おまけ)

プロテスタントの私は、どうしても、せっかく最後に三位一体の神にふれたあとに、わざわざ聖母マリアに触れて終わる、という文章のスタイルが毎度ながら気になる。もちろん教理的に神が一番なのだが、心情的には(本音としては)本当は聖母マリアのほうが親しく近い存在、ということなのだろうか。

別に他者の信仰の是非をここで云々しようというのではなくて、何というのか、そのある種の二重構造のようなものを、改めて考える必要があるのかもしれない、と思ったということだ。この手の信心にかかわる二重性が、どうも何というか、プロとアマ、玄人と素人、聖職者と信徒、おとなたちの神学的議論と、子ども扱いの信徒向けの説教、のようなダブルスタンダードとも見えるような「霊性」の形成方式に現れているように思われてしまう。この点は、今後もう少しきちんと考察しなくては、と思っている。

CBCP司牧書簡「イエスの聖心において:我らの地を癒し、我らの生を刷新する」 2003年9月1日

In the Heart of Jesus: Healing Our Land, Renewing Our Lives

この文書については、要理的な要素が中心であるが、ここではそのことについては簡単に抑えつつ、特に教会・社会観関係との関わりを中心に見ていきたい。

章構成は次のとおり。

・序国難に際して、第一にイエスの聖心にささげる「9回の第一金曜日」とそのあとの聖マリア年のプロジェクトを含め霊的な刷新、悔悟と祈りを取り上げ、これに当たろうという決意を表明する。

・「イエスの聖心」をたたえる「9回の第一金曜日」(の祝い)
 イエスの聖心に対するフィリピン国内の熱意、関連行事の成果を挙げ、2003年9月7日から翌年7月2日まで第一金曜日にイエスの聖心のための典礼に積極的に参加しようと呼びかける。この機会にミサや聖体礼拝(holy hour)に参加し、聖体を受け、和解の秘跡(つまりいわゆる懺悔)を受けるよう勧めている。
 またミサや聖体礼拝の中で要理的な教育(catechesis)として、このための短い説教や黙想談話を行うことで、イエスの聖心への信心の意味をより深く理解するよう支援すべきとしている。
 この信心を教会のみならずあらゆるところで行うよう勧めた上で、以下のように主張する。「私たちの国をより真実に人間らしく、本当に正しく助け合いのある社会として、つまり正統な愛の文明を生きるフィリピン国民として立て上げようとする取り組みにおいて、イエスの聖心は聖霊からの光とエネルギーの尽きることのない源となりうる。」
 今回は、特に以下の2つを目標とする。

1)司祭たちの聖化
 司祭たちの過ちや犯罪(特に性犯罪)が多く報じられる中で、特に深刻な問題として挙げられている。

2)キリスト教徒の生活の刷新
 フィリピン社会全般、特に政府とあらゆる公的な生活領域における改革の必要を挙げる。生活のイエスの聖心への聖別により、国民の希求と努力が変化への願いとなり、断固たる勇敢な行動への動機付けとなることを願っている。

・プログラム:C(回心)-O(生活(人生)を捧げる)-R(償い)
 C-O-Rは、1985年のマリア2000年記念の際にCBCPが提起したモットーであると説明し、この枠組みで今回も実施することを確認している。

・イエスの聖心への聖別
  ・家庭の聖別
  ・国全体の聖別

・マリア年
 2004年はピウス9世教皇による「無原罪懐胎」の教義の制定150周年、及びフィリピンの最初の聖マリア年の祝祭の50周年であることが確認されている。

・結論
 積極的な準備と参加を呼びかけ、神の祝福を祈って終わる。

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 政治・社会の刷新に際し、ある種の精神主義が掲げられているとともに、教会が国全体を聖別して捧げてしまうというような国教会的ないしキリスト教世界(Christendom)的な発想に彩られている。
 この表現は、おそらく多くの人々に、さほど違和感なく聞き流されているだろうが、発想自体は、熱心なカトリック信心の持ち主だけが共有するものであろうと思う。

***

 ちなみに、「イエスの聖心」(あるいはイエスのみこころ)信心については、たとえば
イエスの聖心の月
にある。ある修道女が見たイエスの心臓の幻(出現)に基づくという。この際、9ヶ月続けての第1金曜日の聖体拝領うんぬんということも幻で示された、ということだそうだ。プロテスタントの私にはわけが分からないが、カトリックでは、イエスをただ信じるだけでなく、心臓はまた心臓として、特別な仕方で信心する、ということになるのだろうか。

2010年11月17日水曜日

CBCP司牧書簡「憲法改正に関する司教協議会の宣言」2003年7月7日

CBCP STATEMENT ON CHARTER CHANGE


憲法改正の動きに対する慎重論である。すでにざっと読んだので、今回は逐一要約せず、論点をざっとまとめ、論評したい。

憲法改正の動きの背後にあるものとして、

建前上は、
・大統領制から議院内閣制へ
・中央集権制から連邦制へ
への移行が政治改革として緊急であり効果的である、という議論になっている、と整理する。

これに対し、いくつかの問題点を挙げる。
・憲法は国の成り立ちの中核であり、特に民主化政変を経て制定された現憲法の改正にはそもそも慎重を期する。現状の急がせようとする論調には同調できない。
・国会をそのまま憲法制定議会(Constituent Assembly)として改正に進もうとするのは拙速である。憲法改正の是非を2004年総選挙の際にまず国民に問い、これを踏まえて憲法制定会議(Constitutional Convention)を開くべきである(ここに明示はないが、これは国会議員とは別に改めて選挙で選ばれるべきものと一般に考えられている)。
・憲法における大統領や国会議員、地方の知事や議員には任期の制限が課されているが、憲法改正の際にこれを除去してしまいたい、という隠れた思惑があるのであれば言語道断である。総選挙が近い時期の拙速な対応では、こうした疑いが晴れない。

その上で、憲法の改正を検討する際に考えておくべき論点を列挙している。
・政治が貧しい庶民をケアする能力を高める効果があるか(累進課税が例として挙げられている)
・政治参加が促進されることで、名望政治エリート家系の終焉と利益誘導型政治の克服に至るか
・公務員の説明責任性(透明性)を高める具体的な方策があるか
・グローバル化の時代の中でフィリピンの資源の開発を外国籍の企業が保有出来るようにすることを認める場合は、それが雇用、企業活動の機会の拡大など、フィリピンの人々の益となるかどうか
・権力の分散(脱中央化)による市民社会グループの統治へのより積極的な参加につながるか
・貧しい人々を代表しつつ効果的な政策策定の出来る政党の形成につながるか
・投票行動が変化し、人々がこれまでのように人気ら利益誘導やらによらず、政策や実績に基づいて
投票するようになるか
・多数派の支持する明瞭な政策による指導者たちが選ばれるようになるか

とにかく、まず憲法改正の是非を問う田植えで、じっくり話し合いをすべきである、というころである。

***

確かに一理ある、という面もある。政治過程に対する批判はおおよそ的確ではないかと思う。つまり、政治家たちの本音はおおよそこの文書にあるようなところにあるだろうし、司教たちが指摘するような論点がどこまでまじめに取り組まれてきたか、また取り組まれそうなのかは疑問でもある。

と同時に、二つ気になることがある。

ひとつは、「論ずべきこと」として列挙されていることが、憲法改正の目標としても、現状の改革に関する議論としても、現実的に言って高すぎるのではないか、ということである。高い目標を持つこと自体は、特に教会のような理想を語る組織にとっては、それほど問題ではないだろう。しかし、そうは言っても、この文書も憲法改正が俎上に上っている中では、政策論としての実際性がないと意義が薄れてしまう。フィリピンの政治過程、選挙、正当、経済格差などは、長年の間、繰り返し改革が叫ばれつつも、どうにも決定的な改善が見られなかった問題である。それらを解決することは至難の業であり、まして、憲法を改正することで自体が改善するならそんな簡単なことはあるまい。すでに現行の1987年憲法は高い理想にあふれた憲法である。そもそもほとんどの問題は法が制定されたところで、これをどう履行するかというレベルで起こってきた。

もうひとつは、一見逆のことのようであるが、改革に向けた緊迫感、緊急性の感覚の欠如である。「じっくりやる」というのは聞こえは良いが、要は急がなくてもよいのでは、ということでもある。上記の改革が憲法改正で成し遂げられるのかどうかを論じるかどうかと別に、これらの論点は、いずれも長年の難問であり、重要課題である。どうにかしないといけないのがどうにもならぬまま来てしまっている。憲法の改正が慎重を要するとしても、政治社会改革そのものは緊急の課題として一生懸命取り組んでもなかなか難しい。教会がこのことを否定しているわけではないのは分かっているつもりだが、これらの論点が何よりも憲法改正の正当性の吟味の根拠として出される、という語りの展開自体が示唆するものがあると思う。

もし本気なら、昨今の政治に何が緊要であるかを先に明示したであろうし、短い論評の中ではあれ、多少なりとも憲法改正以外に何をすべきかも併せて論じることが出来たはずである。高い目標を掲げながら、のんびり論じるよう進めるところには、(最近ワンパターンで申し訳ないが)結果的に現状維持的なとまでは言わなくとも(今回も心情的にはそういいたいくらいだが、それは公平を欠くのかもしれないと自重する)、変革に力を貸さない言葉になってしまっているといえよう。

2010年5月4日火曜日

CBCP司牧書簡 「恵みの業を大河のように流れさせよ」 2003年7月7日

LET INTEGRITY FLOW LIKE A STREAM!(A Pastoral Statement of the CBCP)

政治腐敗と汚職(graft and corruption)についての教書である。

とはいえ、冒頭、高位聖職者のスキャンダルをまず挙げ、悲嘆し、神と民とに赦しを請う文章から始まる。1991年の第2回教会会議において聖職者の刷新の優先性を挙げた点を想起し、これを受けてさまざまのプログラムを作り、また聖職者の性的不適切行為への対処の司牧的ガイドラインを制定してきたと述べる。さらに今後神学教育においても「キリストの歩みに倣う真の良識に立った人物」こそが聖職者となるよう検討を加えるという。

それでも、たとえ聖職者の側に罪深さがあり、刷新の努力を怠ることが出来ないとしても、社会に巣食う道徳上の問題について言明する道徳上の役割はなお自分たちにあり、これを避けることは出来ないとして本論に入る。

1989年の「盗んではならない」、1997年の「フィリピン政治に関する司牧教書」においてCBCPはすでに政治腐敗と汚職について触れ、これを社会に対する反逆、そして神に対する罪であると難じている。そして市民委員会の創設により一般の認識を高め、公金の用途を監査し、違反した公職者の訴追を行うべきであると提言しており、今回もこの点を再度強調している。

汚職の問題性について確認しながら、政治家の罪のみならず、これを容認している国民全体(we as a people)の責任を問うている。政治家の公金の不正使用とともに、民間企業の不正行為が賄賂などによって野放しになっていることが問題として挙げられる。

汚職の問題は世界的な現象であり、道徳倫理の水準が崩壊していることと関連するという。しかし、フィリピンの場合国内の不平等性のはなはだしさと合わせるとこの罪の深刻さは大きい、とする。

対外債務返済のため圧迫された国家予算の中から、さらに40%もの公金が汚職に消え、本来貧しい人々のための開発に使われるはずのものが失われていくことは、道義的に決して受け入れられないことである。これは国際的にもかなりひどい水準であり、フィリピンの通貨ペソの評価を下げる要因でもある。またこうしたことが蔓延することで治安の悪化や公的サービスにおける賄賂要求などがはなはだしくなって、国民の道徳的、霊的な意識が失われ、他者への不信感が増すとする。そうした中で汚職は行政や政治の隅々にいきわたり、開発資金の用途、マスメディア、市民社会にまで影響を及ぼしている。教会すら、腐敗で知られる人々からの献金を受け取ることで知られるようになってきており、教会は悔い改めを表明し、主の赦しを請わなくてはならない、とする。

社会の中にはこの問題に対する認識が広がっているが、具体的な行動こそが求められている。多くの教会系の組織や市民団体が動き始めており、教会はこれを支持するという。政府の取り組みにも注視している。この問題にかかわる団体が増えること、特にカトリック系の組織や学校、小教区、宗教運動、そして教会基礎共同体が価値観の形成(value formation)に力をいれ、汚職撲滅の働きに参加するよう呼びかける。イエズス会の作成したマニュアルがあるので活用するよう勧める。

より積極的な法制度の形成や、政府の市民団体と一丸となっての活動、市民運動の政治家のライフスタイルチェック、行政官に対する監視、容疑のある行政官の告発などの促進を提案している。

司教協議会としては、下部組織の社会活動部門であるNASSAおよびフィリピン信徒委員会に、政治腐敗・汚職への取り組みを実施する主導的役割を果たす役目を委託している。と同時に教会自身としても内部の問題にきちんと対処するように決議している。司教たちは腐敗で知られる人々からは献金を受け取らないし、彼らの活動を容認しているというメッセージとならないためにも、特別な仕方で彼らに栄誉を与えたりすることはしない、とする。

最後にアモス書5章24節のの「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」を引用し、聖母マリアの範を引いて教書を終えている。

***

読み通して不自然に思えるのは、政治腐敗と教会の性的スキャンダルとを、「道徳上の腐敗」として一律に論じている点である。

確かにひとつの国民社会の中で、共通の国民文化がさまざまの場において共通の問題を惹起する面がある、という議論は考察に値するだろうと思う。教会が怪しい政治家から献金を受け取ってしまうという話は、この国家的な汚職の問題と連続性を持って論じる意味があるようには思う。

しかし、性的スキャンダルは、やはりこれとは別の問題に思える。

こういう別々の問題、しかもいずれも単に道徳や霊的な問題だけでなく、制度上の問題を含む問題において、まったく別の問題を、教会が「責任を持つ」(がゆえに発言権のある)道徳問題に還元して論じようとするとき、教会の性的スキャンダルの場合の聖職者の任職や教会の制度と透明性、説明責任、問題への対処のシステムといった問題も、また政治的汚職に関連した行政や司法の制度整備、公務員の給与などのより実際的な問題から遠ざかってしまっているように思える。そうなると、こうした議論をすればするほど大事な問題が見えなくなって、かえって現状維持に力を貸してしまうのではないか。

教会の道徳的説教は、道徳的な高みから論難することや、その論難を聞くこと自体のカタルシスによって、かえって現実に具体的に対峙していく方向への動きを鈍らせかねない面があるのではないか。このことを、教会の司牧教書を読むたびに考えてしまう。

2010年4月9日金曜日

WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110; May 31, 2003

再度、家族計画関連法への反対声明である。タイトルとリンクは以下の通り。

WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110 (A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines)

冒頭に引用されるのは、新約聖書、テモテへの手紙二4章1-2節である。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(新共同訳)

そして司教協議会はこの言葉に基づいて「戒める」(ただし教書の英語ではcorrect errorなので「矯正する」)責任がある、とした上で、下院法案4110に教会の教えに反する考え方が含まれている、とする。引用された聖書の文脈は読んで明らかにキリスト教の信仰共同体の「内部」での活動を指すものであるから、これを議会で審議中の法案に適応するのは、教会が国会に対して、「重大な道徳的問題について」と限定しつつも監督者として指導を与える、というきわめて「キリスト教世界」(Christendom)の見地から論じるという教会の政教関係への典型的な接近法をとっている。

まず下院法案4110は「教会の教えに反する信条を含む」「そのために微妙かつ欺瞞的な語り方と方法を用いている」との全体的な評価を出した上で、以下の点を挙げる。

1.法案に見られる「リプロダクティブ・ヘルスケア」「リプロダクティブ・ライツ」は国際連合のカイロ文書(1994年の国際人口開発会議のこと)以降国際的に用いられている表現で(国連人口基金東京事務所のホームページの用語では「性と生殖に関する健康/権利」とある)、「最も糾弾すべき犯罪である」中絶を明らかに含んでいる。また上記概念はあらゆる避妊法を認めるものであり、法案においても青年にもこうした避妊手段が入手できるようにしようとしている。

2.法案の支持者は中絶に関する法(中絶の禁止)を変えるつもりはないと言っているが、「受胎 conception」の意味を再定義し、本来の「受精時点 fertilization」とする代わりに、「着床 implantation」の時点と主張する。その結果、着床前の受精卵は人間ではなく、権利もない、とする。さらに法案はピル、避妊リングなど受精卵の成育を阻害するものに「流産促進的な効果 abortifacient effect」があるとの認識を示していない。

3.法案支持者は「安全でない中絶」で多くの死者が出ていることに言及することが多いが、そもそも中絶は犯罪であり悲劇的なのだ。しかるにリプロダクティブ・ヘルスの考えで行っては、「安全な中絶」であれば許容する、ということになりかねない。

法案を丁寧に読むと、以下の誤りが明らかになる、という。

・自分の身体に対する人間が神から与えられた管理者性(stewardship)という道徳上の問題が、単なる健康上の問題に還元されている。法案の支持者の中には、自身の身体を完全に支配することを「人権」と呼びさえするが、これは間違いである。

・法案の、人口増加が貧困の原因であるという想定は間違っている。開発というものは教育、良い統治、一貫性と透明性、交易、工業、農業などの複雑な相互作用の結果である。

・法案全体の調子は、キリスト教的な人間の性について、また責任ある親としてのあり方の理想をゆがめるものであり、道徳というものを片隅に追いやってしまう。

その上で、自分たちも女性たちの健康と権利を擁護し促進することを目指しているが、この法案はこの目的にも合わない、とし、教会の教えに反する深刻な過ちがあるゆえに我々(weがどこまでを指すのかがあいまいだが)はこの法案を拒絶せねばならない、とする。

冒頭のパウロの言葉に再度言及し、「私たちのカトリック教徒の議員たちは教会を通して神から受けた道徳的な教えに従って行動するであろうと確信している」と結ぶ。

***

いつものトーンである。残念なほど発見が少ない。信念を貫き、妥協を配するというのはそれ自体では結構なことであろうが。

・特に、非合法の危険な中絶の横行に対する懸念、人口問題の深刻さ(1億になるのも近いと聞く・・・10年前、確か6000万人と言っていたような・・・)について正面から論じず、対案を提起していない。

・性や家族のあり方が変化している(教会の立場からすれば崩れてきている)からこそ、こうした法案も出てくるのだとすれば、教会こそ、こうした法案の廃案にかけるエネルギーに比して、性教育や家族支援の努力は微々たるものであり、効果を挙げていないのではないか。とすれば、教会こそ性や家族といった広がりのある問題を、結果的には特定の法案の阻止という所に過剰に力を注ぐことで自ら矮小化しているのではないか。その意味では、彼らが批判する法案支持者の「性や家族の問題を健康問題に矮小化する」姿勢とさほど異ならないのではないか。

(*ちなみに、私個人の倫理観として、性や家族の問題をもっと包括的に捉えるべき、というのに異存はないし、中絶はやはり殺人であると理解している。とはいえ、政策としてどうするか、という場合には、そういうナマの倫理はそのまま法律にできるものではないと考える。自分たちのコミュニティの内外での地道な説得と、そうした生き方がしやすい環境作りこそが、まず第一になされるべきことであろうと考える。カトリック教会内にも地道にこうしたことに努めている方々がおられることも確かではあるが、なおフィリピンでは法をどうするか、ということに力点が置かれやすいようであり、これは適切でも効果的でもないと考えずにいられない。倫理はすべて法によって規定することはできない。ましてカトリック独自の倫理観を一律に押し付けることもできない。カトリック人口が8割といわれるが、少数派もいるし、政教分離、信教の自由を保障した憲法もあり、なおかつカトリック信徒といわれる人の多くも、性や家族の問題についての教会の政治的な影響力行使に眉をひそめたり、教会の反対する家族計画に賛成する人々も少なくないのだから。)

・「我々」の範囲のあいまいさを操作することで、相手を分断したり自分の土俵の中に入れて上から裁いたりすることを織り交ぜている。国会議員に対し、あなたはこちら側ですか、それともこちらにはいてはならない人ですか、と言っているわけで、暗に恫喝的な姿勢をもって臨んでいる。公共善の問題と教会の教えというのが区別されず、さりとて同一視されているのでもなく、あいまいなまま(教会の都合に合わせて)適宜使い分けられている。
 もっとも、この点については、人々の側もカトリックに関することを、都合に合わせて「自分たちのこと」にしたり「彼ら(教会指導者とその指導に忠実な人々)」の問題として突き放したり、「我々」の範囲を使い分けているのである。さすがにtayo(相手を含む私たち)/kami(相手を含まない私たち)の文化(マラヨ・ポリネシア語族の特徴と聞く)、ともいえるのかもしれない。

2010年4月8日木曜日

"NO TO WAR!"; January 28, 2003

声明のリンクはこちら。
"NO TO WAR!" (A CBCP Statement on Possible War in Iraq)

2003年初頭のアメリカ合衆国を中心とする有志連合によるイラク攻撃を前にしての反対声明である。一読して明らかにバチカンによる反戦声明に連なるものであり、フィリピン政府に先制攻撃(pre-emptive strike)に同調しないよう呼び掛けている点を除けば、きわめて一般的な内容である。だから、特に論ずべきことも見当たらない。

教皇の「戦争というものはいつでも人類にとって敗北である」という全般的な反戦思想に基づいているため、反戦をアピールするだけで終わってしまっている。ではサダム=フセイン政権のように国際社会を挑発し続け、地域の安全保障上の不安定要因となっている権威主義的性格の強い政府をどのように評価し、どのように関わるのかについての、積極的な提案は欠けている。つまり、戦争はとにかくだめだ、ということではあるが、ではどういう方向性で行くのか、そもそも国際テロの問題についてどういうパースペクティブで臨むのか、そういう見通し(ビジョン)が示されていないため、どうも言いっぱなしの感が否めないが、宗教家が出す平和を求める声明なんてそんなものだ、とも言えるのかもしれない。

平和問題についてはミンダナオ問題を抱えるフィリピンで、この問題について関心が高いはずの、取り組みを重ねてきたはずのカトリック司教協議会としては、もう少し踏み込んだ考察に基づいて、もっと方向性を打ち出せなかったのだろうか、と思ってしまった。

2010年4月2日金曜日

PRIMER ON NEW AGE; January 08, 2003

「ニューエイジ」の霊性について取り組んだ「手引き」である。リンクは以下の通り

CBCP Documents - PRIMER ON NEW AGE

この文書はかなり大部なものではあるが、私の現在の研究上の関心と今一つ結びつかないものでもあるので、今回は要点の紹介と少しのコメントにとどめる。

この手引きは、「ニューエイジ」と呼ばれる諸宗教と科学、瞑想とエコロジーなどを独自の仕方で統合することを目指す世界的な宗教運動について、これが教会の内外に浸透してきていることについて警告する立場から整理し、解説し、指導することを目指したものである。

ただ、正直なところ、既にずいぶんと長期にわたり存在するこの運動について、この時期にこれが出てくる必然性についてもまた調べられていないし、この運動についてまだよく理解していないので、書けることは少ない。勉強の必要を感じる。直感的には、ニューエイジはこの文書に指摘されているとおり中間層、富裕層への影響が大きいと思われるので、教会のアイデンティティや関心がこうした層に向けられている、ということはできるのかもしれない。

また、この文書にもあるとおり、ニューエイジに対する警戒は、基本的には「キリスト教国」の霊性を「内側から侵食」するという見方から来ている点は確認してよいと思われる。これは一時期アメリカのキリスト教保守派で流行したニューエイジ警戒論と似ているようにも思える。つまり、キリスト教のヘゲモニーが確立している場所で、これを危うくするものへの警戒である。

しかし、信教の自由が保障されている社会において、また教会教育や司牧が行き届いていない教会の現状を踏まえるとき、さまざまな宗教運動や思想が入り込んでくるのはいわば必然であり、警告したところで何も起こらないように思える。この文書のように、カトリックから見てこの思想がどうだこうだ、と評価するだけでは、人々に届くことはない。そのことの是非は見方によるであろうが、教会がその固有の活動における人々へのコミットメントがないまま、既存の勢力範囲を保持しようとするというその姿勢は、やはり政治・社会的保守主義と連結するものであろうと思われる。それは、教会が大事だと言っている「貧しい人々」の現状をも、結局固定する方向に有利に働いてしまうのではないか、と勘繰ってしまう。

またいずれ折りを得て考察しなおさなくては、と思いますが、今は研究の主題をフィリピン社会との関わりに置いているので、この話題は今回はこれくらいにして次に進みます。