2010年5月4日火曜日

CBCP司牧書簡 「恵みの業を大河のように流れさせよ」 2003年7月7日

LET INTEGRITY FLOW LIKE A STREAM!(A Pastoral Statement of the CBCP)

政治腐敗と汚職(graft and corruption)についての教書である。

とはいえ、冒頭、高位聖職者のスキャンダルをまず挙げ、悲嘆し、神と民とに赦しを請う文章から始まる。1991年の第2回教会会議において聖職者の刷新の優先性を挙げた点を想起し、これを受けてさまざまのプログラムを作り、また聖職者の性的不適切行為への対処の司牧的ガイドラインを制定してきたと述べる。さらに今後神学教育においても「キリストの歩みに倣う真の良識に立った人物」こそが聖職者となるよう検討を加えるという。

それでも、たとえ聖職者の側に罪深さがあり、刷新の努力を怠ることが出来ないとしても、社会に巣食う道徳上の問題について言明する道徳上の役割はなお自分たちにあり、これを避けることは出来ないとして本論に入る。

1989年の「盗んではならない」、1997年の「フィリピン政治に関する司牧教書」においてCBCPはすでに政治腐敗と汚職について触れ、これを社会に対する反逆、そして神に対する罪であると難じている。そして市民委員会の創設により一般の認識を高め、公金の用途を監査し、違反した公職者の訴追を行うべきであると提言しており、今回もこの点を再度強調している。

汚職の問題性について確認しながら、政治家の罪のみならず、これを容認している国民全体(we as a people)の責任を問うている。政治家の公金の不正使用とともに、民間企業の不正行為が賄賂などによって野放しになっていることが問題として挙げられる。

汚職の問題は世界的な現象であり、道徳倫理の水準が崩壊していることと関連するという。しかし、フィリピンの場合国内の不平等性のはなはだしさと合わせるとこの罪の深刻さは大きい、とする。

対外債務返済のため圧迫された国家予算の中から、さらに40%もの公金が汚職に消え、本来貧しい人々のための開発に使われるはずのものが失われていくことは、道義的に決して受け入れられないことである。これは国際的にもかなりひどい水準であり、フィリピンの通貨ペソの評価を下げる要因でもある。またこうしたことが蔓延することで治安の悪化や公的サービスにおける賄賂要求などがはなはだしくなって、国民の道徳的、霊的な意識が失われ、他者への不信感が増すとする。そうした中で汚職は行政や政治の隅々にいきわたり、開発資金の用途、マスメディア、市民社会にまで影響を及ぼしている。教会すら、腐敗で知られる人々からの献金を受け取ることで知られるようになってきており、教会は悔い改めを表明し、主の赦しを請わなくてはならない、とする。

社会の中にはこの問題に対する認識が広がっているが、具体的な行動こそが求められている。多くの教会系の組織や市民団体が動き始めており、教会はこれを支持するという。政府の取り組みにも注視している。この問題にかかわる団体が増えること、特にカトリック系の組織や学校、小教区、宗教運動、そして教会基礎共同体が価値観の形成(value formation)に力をいれ、汚職撲滅の働きに参加するよう呼びかける。イエズス会の作成したマニュアルがあるので活用するよう勧める。

より積極的な法制度の形成や、政府の市民団体と一丸となっての活動、市民運動の政治家のライフスタイルチェック、行政官に対する監視、容疑のある行政官の告発などの促進を提案している。

司教協議会としては、下部組織の社会活動部門であるNASSAおよびフィリピン信徒委員会に、政治腐敗・汚職への取り組みを実施する主導的役割を果たす役目を委託している。と同時に教会自身としても内部の問題にきちんと対処するように決議している。司教たちは腐敗で知られる人々からは献金を受け取らないし、彼らの活動を容認しているというメッセージとならないためにも、特別な仕方で彼らに栄誉を与えたりすることはしない、とする。

最後にアモス書5章24節のの「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」を引用し、聖母マリアの範を引いて教書を終えている。

***

読み通して不自然に思えるのは、政治腐敗と教会の性的スキャンダルとを、「道徳上の腐敗」として一律に論じている点である。

確かにひとつの国民社会の中で、共通の国民文化がさまざまの場において共通の問題を惹起する面がある、という議論は考察に値するだろうと思う。教会が怪しい政治家から献金を受け取ってしまうという話は、この国家的な汚職の問題と連続性を持って論じる意味があるようには思う。

しかし、性的スキャンダルは、やはりこれとは別の問題に思える。

こういう別々の問題、しかもいずれも単に道徳や霊的な問題だけでなく、制度上の問題を含む問題において、まったく別の問題を、教会が「責任を持つ」(がゆえに発言権のある)道徳問題に還元して論じようとするとき、教会の性的スキャンダルの場合の聖職者の任職や教会の制度と透明性、説明責任、問題への対処のシステムといった問題も、また政治的汚職に関連した行政や司法の制度整備、公務員の給与などのより実際的な問題から遠ざかってしまっているように思える。そうなると、こうした議論をすればするほど大事な問題が見えなくなって、かえって現状維持に力を貸してしまうのではないか。

教会の道徳的説教は、道徳的な高みから論難することや、その論難を聞くこと自体のカタルシスによって、かえって現実に具体的に対峙していく方向への動きを鈍らせかねない面があるのではないか。このことを、教会の司牧教書を読むたびに考えてしまう。

2010年5月1日土曜日

マニラ大司教区・司牧書簡「選挙2010」

フィリピン・カトリック司教協議会の司牧教書を読むシリーズを中断し、昨今の選挙がらみで書いてみます。

いよいよフィリピンの総選挙が近づき、諸教会(カトリック、プロテスタント等々いずれも)の動きもいろいろと報じられるようになってきている。マニラに滞在して様子を検分できた前回と異なり、今回は日本で模様眺めということになるが、ふとマニラ大司教区の「Election 2010」というシリーズがホームページ上に公表されていることに気づいたので、これを読んでみることに。

***
Election2010 Part 1

Part 1 は3月14日付、英語とフィリピン語の翻訳(Filipino Translationとある―オリジナルは英語である、ということか)が並列され、マニラ首都圏教会管区(Manila Metropolitan Ecclesiastical Province)の司教たちの名が列記されている。つまり、これはマニラ大司教区を中心する管区全体の意思表示ということになる。

管区内の教区は、マニラ(大司教+補佐司教2名)、アンティポロ(司教+補佐司教)、クバオ、イムス、カロオカン、マロロス、ノバリチェス、パラニャーケ、パシグ、サンパブロ、プエルト・プリンセサ(使徒座代理区 Apostolic Vicariate)、タイタイ、であり、従軍司教(Military Ordinary)も名を連ねている。

ポイントは明瞭である。来る5月10日に国政選挙がある。これは自由選挙であるが、自由選挙とは脅しや金に左右されないものであるべきだ。有権者は特に貧困と政府の腐敗という問題と立候補者の資質を照らし、良心的な市民の集いで注意深く検討すべきであるとする。こうした諸集団は自分たちの選択に関する主の導きを祈る市民集団たるべきとする。

その資質としては、神を恐れる人、道徳的で、悪習に染まらず、命への畏敬の念を持ち、常に貧しい者たちの真の友であり、世界の生態系の友であり、つつましく、責任あるフィリピン人市民のよい模範であること、とする。

こう締めくくる。「主とその御母がわれらの国を祝し守ってくださるように。というのも、神を恐れる国としてわれわれが人々をも愛しているということを、彼らはご存知なのだから。」

***

Election2010 Part 2

二つ目のものは3月21日付の回勅(Circular)である。マニラ大司教ガウデンシオ・ロサレス枢機卿名で、マニラ大司教区内の聖職者、修道士、信徒に向けられている。

内容としては以下のとおりである。
上述の司牧書簡をもう一度よく読むように勧める。今度の選挙は、国内の諸問題を背景に、国民が投票に関する成熟したよく考えられた決定をすることを支援する機会だかからである。さもないと選挙時の過ちを正すために人々が街頭に繰り出すことにもなりうるからだ。司牧書簡にあるように、市民グループを各部門、年代層、小教区などにおいて積極的に組織し、また人々の運動を支援してほしい。こうした団体は中立的なものであるべきである。投票は良心の選択によるものであり、お金、脅迫、欺きによって影響されてはならない。市民組織を通して、責任を持って望むことで、市民は国づくりをはじめなくてはならない。最後に、識別と判断に際しては常に祈りが伴はなくてはならない。支援するとともに祈ろう。

こう閉じる。「主イエスとその御母が常に導き、われらを触発してくださるように。彼らもまたよき市民として生きることを学ばれたのだから。」

***

Election2010 Part 3

こちらは4月28日付である。マニラ大司教ガウデンシオ・ロサレス枢機卿名で、宛名を示さずにMessageとだけ記されている。

内容は以下のとおり。
選挙当日まであと数日、騒がしく混乱に満ちた選挙戦が戦われ、よいうわさは耳にしないが、これぞ「選挙戦、フィリピン版 political campaign, Pilipino style」である。われわれはこのようなことを自由の民として成長するにつれ乗り越えていくようにと祈る。国の将来は、誠実で神を恐れる、信頼に足る人々に任されるべきであり、そのような人々こそ大いなる一致を生み出しうると信じているであろう。一部特権階級のためでなくすべての人々の益を大切にする指導者を選ぶ確信を得るためにも、情報収集のみならず、黙想と祈りが不可欠となる。
民としてのわれらの歴史において重要なこの時にあたり、マニラ大司教区の小教区等の共同体が、5月の最初の9日間を「誠実で平和な選挙日のための特別な祈祷期間」とし、また選挙直前の3日間を「イエスの聖心および無原罪の聖母の聖心を記念する御聖体の聖なる賛仰」の特別の三日祭とするよう求める。

こう閉じる。「来るべき選挙で誰が勝つにせよ、フィリピンという国こそが勝者となるように。」

***

いつものことではあるが、今回も基本的に、政治の霊的な理解の強調、政策やシステムよりも政治家個人の資質の強調、それらから来る、選挙で霊的な指導者を選び、その人が国をよい方向に導いてくれるように、という論じ方が一貫して見られる。その結果、教会の政治への参与とエネルギーは、国政選挙の「有権者教育」や「選挙監視」にかなり集中することになる。

もうひとつ。今回は初めて選挙のコンピュータ化が導入される。この点についてはさまざまの期待と懸念、そして資材導入や準備をめぐる報道が多く見られてきたが、このことについてまったく触れられていないのも気になる。もっともこれについては、教会関係者が状況を注視しているのは確かである。たとえば以下の記事にはそうした姿勢が現れている。(ちなみにこれは、Part 3についてのCBCPのニュース記事である。)
Cardinal Rosales dismayed over pinoy-style political campaign

グループ作りについても、教会系の運動がどうしても中間層寄りになってしまうこと、低所得層の庶民との間にある種の文化ギャップが存在してきたことなどについて、どう取り組むのか、というような発想が欠けている。市民(citizen)という言葉が貧しい人々(the poor)との間に、ある種不愉快な緊張感をはらんできたことは、特に2001年の一連の事件(大統領放逐の政変と、これに対抗する親エストラーダ派のデモ)で大きな衝撃とともに学んできたはずではないのか。

にもかかわらず、同じことの繰り返しである。強い賛成も反対も仕様がないが現実から遊離しているようで、とても多くの人々の注意を喚起する文書とは考えられない。これでは運動(政治の改善)よりも、構造(現状維持)を指し示しているとしか考えられない。

2010年4月9日金曜日

WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110; May 31, 2003

再度、家族計画関連法への反対声明である。タイトルとリンクは以下の通り。

WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110 (A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines)

冒頭に引用されるのは、新約聖書、テモテへの手紙二4章1-2節である。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(新共同訳)

そして司教協議会はこの言葉に基づいて「戒める」(ただし教書の英語ではcorrect errorなので「矯正する」)責任がある、とした上で、下院法案4110に教会の教えに反する考え方が含まれている、とする。引用された聖書の文脈は読んで明らかにキリスト教の信仰共同体の「内部」での活動を指すものであるから、これを議会で審議中の法案に適応するのは、教会が国会に対して、「重大な道徳的問題について」と限定しつつも監督者として指導を与える、というきわめて「キリスト教世界」(Christendom)の見地から論じるという教会の政教関係への典型的な接近法をとっている。

まず下院法案4110は「教会の教えに反する信条を含む」「そのために微妙かつ欺瞞的な語り方と方法を用いている」との全体的な評価を出した上で、以下の点を挙げる。

1.法案に見られる「リプロダクティブ・ヘルスケア」「リプロダクティブ・ライツ」は国際連合のカイロ文書(1994年の国際人口開発会議のこと)以降国際的に用いられている表現で(国連人口基金東京事務所のホームページの用語では「性と生殖に関する健康/権利」とある)、「最も糾弾すべき犯罪である」中絶を明らかに含んでいる。また上記概念はあらゆる避妊法を認めるものであり、法案においても青年にもこうした避妊手段が入手できるようにしようとしている。

2.法案の支持者は中絶に関する法(中絶の禁止)を変えるつもりはないと言っているが、「受胎 conception」の意味を再定義し、本来の「受精時点 fertilization」とする代わりに、「着床 implantation」の時点と主張する。その結果、着床前の受精卵は人間ではなく、権利もない、とする。さらに法案はピル、避妊リングなど受精卵の成育を阻害するものに「流産促進的な効果 abortifacient effect」があるとの認識を示していない。

3.法案支持者は「安全でない中絶」で多くの死者が出ていることに言及することが多いが、そもそも中絶は犯罪であり悲劇的なのだ。しかるにリプロダクティブ・ヘルスの考えで行っては、「安全な中絶」であれば許容する、ということになりかねない。

法案を丁寧に読むと、以下の誤りが明らかになる、という。

・自分の身体に対する人間が神から与えられた管理者性(stewardship)という道徳上の問題が、単なる健康上の問題に還元されている。法案の支持者の中には、自身の身体を完全に支配することを「人権」と呼びさえするが、これは間違いである。

・法案の、人口増加が貧困の原因であるという想定は間違っている。開発というものは教育、良い統治、一貫性と透明性、交易、工業、農業などの複雑な相互作用の結果である。

・法案全体の調子は、キリスト教的な人間の性について、また責任ある親としてのあり方の理想をゆがめるものであり、道徳というものを片隅に追いやってしまう。

その上で、自分たちも女性たちの健康と権利を擁護し促進することを目指しているが、この法案はこの目的にも合わない、とし、教会の教えに反する深刻な過ちがあるゆえに我々(weがどこまでを指すのかがあいまいだが)はこの法案を拒絶せねばならない、とする。

冒頭のパウロの言葉に再度言及し、「私たちのカトリック教徒の議員たちは教会を通して神から受けた道徳的な教えに従って行動するであろうと確信している」と結ぶ。

***

いつものトーンである。残念なほど発見が少ない。信念を貫き、妥協を配するというのはそれ自体では結構なことであろうが。

・特に、非合法の危険な中絶の横行に対する懸念、人口問題の深刻さ(1億になるのも近いと聞く・・・10年前、確か6000万人と言っていたような・・・)について正面から論じず、対案を提起していない。

・性や家族のあり方が変化している(教会の立場からすれば崩れてきている)からこそ、こうした法案も出てくるのだとすれば、教会こそ、こうした法案の廃案にかけるエネルギーに比して、性教育や家族支援の努力は微々たるものであり、効果を挙げていないのではないか。とすれば、教会こそ性や家族といった広がりのある問題を、結果的には特定の法案の阻止という所に過剰に力を注ぐことで自ら矮小化しているのではないか。その意味では、彼らが批判する法案支持者の「性や家族の問題を健康問題に矮小化する」姿勢とさほど異ならないのではないか。

(*ちなみに、私個人の倫理観として、性や家族の問題をもっと包括的に捉えるべき、というのに異存はないし、中絶はやはり殺人であると理解している。とはいえ、政策としてどうするか、という場合には、そういうナマの倫理はそのまま法律にできるものではないと考える。自分たちのコミュニティの内外での地道な説得と、そうした生き方がしやすい環境作りこそが、まず第一になされるべきことであろうと考える。カトリック教会内にも地道にこうしたことに努めている方々がおられることも確かではあるが、なおフィリピンでは法をどうするか、ということに力点が置かれやすいようであり、これは適切でも効果的でもないと考えずにいられない。倫理はすべて法によって規定することはできない。ましてカトリック独自の倫理観を一律に押し付けることもできない。カトリック人口が8割といわれるが、少数派もいるし、政教分離、信教の自由を保障した憲法もあり、なおかつカトリック信徒といわれる人の多くも、性や家族の問題についての教会の政治的な影響力行使に眉をひそめたり、教会の反対する家族計画に賛成する人々も少なくないのだから。)

・「我々」の範囲のあいまいさを操作することで、相手を分断したり自分の土俵の中に入れて上から裁いたりすることを織り交ぜている。国会議員に対し、あなたはこちら側ですか、それともこちらにはいてはならない人ですか、と言っているわけで、暗に恫喝的な姿勢をもって臨んでいる。公共善の問題と教会の教えというのが区別されず、さりとて同一視されているのでもなく、あいまいなまま(教会の都合に合わせて)適宜使い分けられている。
 もっとも、この点については、人々の側もカトリックに関することを、都合に合わせて「自分たちのこと」にしたり「彼ら(教会指導者とその指導に忠実な人々)」の問題として突き放したり、「我々」の範囲を使い分けているのである。さすがにtayo(相手を含む私たち)/kami(相手を含まない私たち)の文化(マラヨ・ポリネシア語族の特徴と聞く)、ともいえるのかもしれない。

2010年4月8日木曜日

"NO TO WAR!"; January 28, 2003

声明のリンクはこちら。
"NO TO WAR!" (A CBCP Statement on Possible War in Iraq)

2003年初頭のアメリカ合衆国を中心とする有志連合によるイラク攻撃を前にしての反対声明である。一読して明らかにバチカンによる反戦声明に連なるものであり、フィリピン政府に先制攻撃(pre-emptive strike)に同調しないよう呼び掛けている点を除けば、きわめて一般的な内容である。だから、特に論ずべきことも見当たらない。

教皇の「戦争というものはいつでも人類にとって敗北である」という全般的な反戦思想に基づいているため、反戦をアピールするだけで終わってしまっている。ではサダム=フセイン政権のように国際社会を挑発し続け、地域の安全保障上の不安定要因となっている権威主義的性格の強い政府をどのように評価し、どのように関わるのかについての、積極的な提案は欠けている。つまり、戦争はとにかくだめだ、ということではあるが、ではどういう方向性で行くのか、そもそも国際テロの問題についてどういうパースペクティブで臨むのか、そういう見通し(ビジョン)が示されていないため、どうも言いっぱなしの感が否めないが、宗教家が出す平和を求める声明なんてそんなものだ、とも言えるのかもしれない。

平和問題についてはミンダナオ問題を抱えるフィリピンで、この問題について関心が高いはずの、取り組みを重ねてきたはずのカトリック司教協議会としては、もう少し踏み込んだ考察に基づいて、もっと方向性を打ち出せなかったのだろうか、と思ってしまった。

2010年4月2日金曜日

PRIMER ON NEW AGE; January 08, 2003

「ニューエイジ」の霊性について取り組んだ「手引き」である。リンクは以下の通り

CBCP Documents - PRIMER ON NEW AGE

この文書はかなり大部なものではあるが、私の現在の研究上の関心と今一つ結びつかないものでもあるので、今回は要点の紹介と少しのコメントにとどめる。

この手引きは、「ニューエイジ」と呼ばれる諸宗教と科学、瞑想とエコロジーなどを独自の仕方で統合することを目指す世界的な宗教運動について、これが教会の内外に浸透してきていることについて警告する立場から整理し、解説し、指導することを目指したものである。

ただ、正直なところ、既にずいぶんと長期にわたり存在するこの運動について、この時期にこれが出てくる必然性についてもまた調べられていないし、この運動についてまだよく理解していないので、書けることは少ない。勉強の必要を感じる。直感的には、ニューエイジはこの文書に指摘されているとおり中間層、富裕層への影響が大きいと思われるので、教会のアイデンティティや関心がこうした層に向けられている、ということはできるのかもしれない。

また、この文書にもあるとおり、ニューエイジに対する警戒は、基本的には「キリスト教国」の霊性を「内側から侵食」するという見方から来ている点は確認してよいと思われる。これは一時期アメリカのキリスト教保守派で流行したニューエイジ警戒論と似ているようにも思える。つまり、キリスト教のヘゲモニーが確立している場所で、これを危うくするものへの警戒である。

しかし、信教の自由が保障されている社会において、また教会教育や司牧が行き届いていない教会の現状を踏まえるとき、さまざまな宗教運動や思想が入り込んでくるのはいわば必然であり、警告したところで何も起こらないように思える。この文書のように、カトリックから見てこの思想がどうだこうだ、と評価するだけでは、人々に届くことはない。そのことの是非は見方によるであろうが、教会がその固有の活動における人々へのコミットメントがないまま、既存の勢力範囲を保持しようとするというその姿勢は、やはり政治・社会的保守主義と連結するものであろうと思われる。それは、教会が大事だと言っている「貧しい人々」の現状をも、結局固定する方向に有利に働いてしまうのではないか、と勘繰ってしまう。

またいずれ折りを得て考察しなおさなくては、と思いますが、今は研究の主題をフィリピン社会との関わりに置いているので、この話題は今回はこれくらいにして次に進みます。

2010年3月30日火曜日

THE CHRISTIAN FAMILY: GOOD NEWS FOR THE THIRD MILLENNIUM; 2 December 2002

原文は
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2002-4thworldmeetingoffamilies.html

原題は
THE CHRISTIAN FAMILY: GOOD NEWS FOR THE THIRD MILLENNIUM
A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines for the Fourth World Meeting of Families

再び「家庭」を主題とした、再び包括性のある声明である。そしてこれもまた、バチカンの動きと関わっている。当時のヨハネ=パウロ2世教皇主催の「第4回世界家族会議(Fourth World Meeting of Families)」がマニラで翌2003年1月22-26日に開催されるに際してこの声明が出されたのであった。

声明は、マニラが選ばれたことを名誉とし、フィリピン人クリスチャン家庭が会議の標語「第三千年紀のための福音(良い知らせ)(Good News for the Third Millennium)」となるようにとの神の呼びかけ(神の召しdivine call)である、とする。

1.家庭についての悪い知らせ(Bad News)
家庭は悪い知らせでもありうるという。特に貧困による極度の圧力、出稼ぎによる家庭崩壊、児童労働、ストリート・チルドレンなどの問題がまず挙げられるが、特に問題にしているのは、「物質主義的で消費主義的な価値観」(materialist and consumerist values)がマスメディアを通じ貧しい人々にまでサブリミナルに刷り込まれ浸透しつつあり、これが「福音の価値観」(Gospel values)に重大なダメージを及ぼしている、という点である。これにより結婚しないで親になるケースが増え、「ケリーダ(愛人)・システム」も容認されてしまっているとする。

特に問題とされているのは、離婚の合法化を目指す法案が繰り返し上程されていることであり、この法案の推進者は離婚を一度容認し、結婚の神聖性の意味が衰退した国ではかつてないほどの社会的・道義的な問題が起こってきたことがわかっていない、という。さらに「選択の自由」「リプロダクティブ・ヘルス」の名の下に中絶を容認したり、ピルを解禁することで違法な中絶の変わりに、実質上「安全な」中絶を提供しようとする動きが世界的にあると警鐘を鳴らす。「女性は自身の体についての権利がある」というそうした人々に対して、教書は「神がわれわれすべてをただ神に仕える者として創造され、われわれは道徳的原則に導かれなくてはならないという宗教的、道徳的現実」を無視していると反論する。

こうして「死の文化」(culture of death)が確立し、生まれる前も含めたすべての人間の尊厳と価値に関する、命、死、愛、結婚、家庭、他社関係についての「福音の価値観」は死に追いやられている、とする。


2.クリスチャン家庭は良い知らせ(Good News)

これに対し、すべての家庭はそもそも神が共におられ、私たちを愛しておられるということのしるしであるとし、特にクリスチャン家庭はミニチュア教会たる「家の教会」(domestic Church)として特に祝福されたものであって、フィリピン社会の進歩に著しく貢献しており、フィリピン人の大半のキリスト教信仰と並び、クリスチャン家族はフィリピン国家にとって神よりの真に最大の贈り物となりうるという。

創世記にあるとおり、家庭は男女の結婚愛の場として神の愛を反映する場であり、新しい命の宿る実り多い場でもあって、子どもはよい知らせであり、結婚のもたらす最上の贈り物であるという。また神の子がマリアとヨセフの家庭にやってくることにより、結婚はいっそう祝されたものとなり、結婚はキリストの秘跡のひとつとなり、ご自身の人間家庭に対する忠実な愛のしるしともなったという。だから結婚に問題が生じやすいことは知りつつも、イエスは「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」と言われたのだ、という。

そしてクリスチャン家庭が「死の文化」と対照的によい知らせであることを再度確認する。

3.使命に生きる家庭:イエスの福音(Good News)を知らせる

クリスチャン家庭の使命はイエス・キリストの福音を生活のあらゆる側面において宣べ伝えることであり、それは第1に愛に満ちた家庭を形成すること、第2に「神の像」(divine image)を人から人へと伝達することで子を産み育て、命に仕えること(特に中絶や政府推奨の人口抑制プログラム、「避妊メンタリティ」を拒絶すること)、そして社会と教会の刷新を支援することであるという。キリストの価値観を子どもの内に形成することは社会全体の変革につながるという。

社会変革のために、諸家庭は、法制度が家庭の権利と義務を支援し、積極的に守るようになるべく、政治的に介入しなくてはならないという。また社会正義を促進し、貧困を除去し、否定的な文化価値によって「損なわれた」(damaged)といわれることもある現在の文化を刷新することに積極的に参加すべきである、という。

そして家庭は教会の刷新の業に参加しなくてはならない、というのも、教会が「正統的な弟子たちの教会、真実な共同体、貧しい者たちの教会、参加的教会、文化に根付いた教会となる」というのが自分たちの教会としてのビジョンであり、この困難なビジョンをリードするのは家庭でなくてはならないからだという。

4.結論:証言する使命を担う家庭

教皇ヨハネ=パウロ2世が、家庭が本来の姿になることを呼びかけたことを想起しつつ、教書は、すべてのカトリック教育機関とすべての小教区に家庭形成のための教育にまい進するよう呼びかけ、最後は聖母マリアのとりなしを祈って終わる。

***

いくつかの点について考察してみる。

1.フィリピン人の大半がクリスチャンで、なおかつ家庭を大事と考える価値観を持っている、というのは実感も含め異論、違和感はない。ただ、それをどの程度、どういう意味で「福音の価値観」と呼ぶのか、またいわば「神の恵み」という鉄壁の強さを持つはずのものによってもたらされているはずのフィリピンのキリスト教化、そして福音の価値観というものが、どうして、どのようにして「物質主義的で消費主義的な価値観」によって掘り崩されているというのか、という内在的な考察がない。では、どういう考えなのか。

「福音の価値観」はアプリオリにフィリピンに存在するものとなっている。これは、過去、現在の教会の働き、教会形成、宣教活動、家族関係のケアなどの主体的な働きについての吟味につながらない。
これに対して、「物質主義・消費主義の価値観」は巧妙にひそかに、権力とマスメディアを通じてこれを掘り崩している。つまりはずるがしこい闇の力であり、かつある種帝国主義的なものとしての含意がある。こうなると、悪いのはそっちだということになり、警戒、非難、そして現状維持(のために家族計画に関するほうを悪魔的なものとし、断固排除すべきものとする声高な姿勢)につながってくる。
しかし、問題が価値観ならば、解決は価値のレベルのことであり、法制度の問題はそれとの関連でこそ考えられるべきなのに、教会として自分たちの現場、足元で、また家庭の現場で、どのような価値観をどう構築してきたか、どうしているのか、どうしていくのかがこの文章でも、また前年の文書でも(今に至るまで)見えない。

2.そもそもカトリック聖職者が、家庭のあり方について云々するときに、いわく言いがたい違和感が残る。もちろん、宗教指導者が家庭のあるべき姿について語るのは別にそれ自体でどうのということではないだろうが、それでも、いくつかの論点を拾うことはできそうである。なによりも、彼らは自分たちで家庭を築かない人たちであることが、ここでいくつかの問いを生じさせるように思える。というのは、彼らこそ、家庭というものの価値を相対化しているのであり、それはキリスト教のより広い伝統にも符合しているといえる。ところが、ここでは家庭が生み出す価値というものが、恐ろしく高く評価されている。そこで二つの方向で問いが出される。

ひとつは単純に、自分たちが主体とならない家庭の問題について、彼らが指導者として模範を見せることもないまま権威の座から語り続けるということの特異性である。結婚しない人が結婚のすばらしさについて、子どもを持たない、家庭を持たない決意をし、誓約をしている人が、子を宿すこと、家庭を築くことの重要性について力説していることは、ある種のねじれと疎外を信徒に与えるのではないか、と思われる。そんなこと言ったってあなたは独身の誓約をし、聖職者になることの特別な祝福を強調しているではないか、そもそも家族を持っていないくせに、家族のことについてわかるのか、口出しする資格があるのか、という問題である。

もうひとつはそのような独身聖職者が妙に結婚や家庭の至上性を強調しているところから来る。やはり結婚しない上座仏教の僧侶は家庭の価値について、ここまで積極的には語らないだろう。家庭も大事だが、出家というもっと大事な価値もある、というであろう。それがここにどうして見当たらないのかと思わずにおれない。キリスト教という宗教の存在感は、家庭よりもむしろ個人の神への献身によって現されてきたはずであり、それはむしろ家庭を相対化するような側面を持っていたはずであろう。家庭が文化を作り、文化が社会を作る、というのは、いかにも構造機能主義的な理解であって、宗教の持つ超越的な側面がぼやけてしまっている。

3.総じて言うと、いつもの話だが、やはりキリスト教社会を保守したい、という願望がよく現れているように思える。その観点からの現状の脅威認識であり、自らのなすべき働きに言及しないままの課題の一般信徒への丸投げである。そうしたことを、教皇の定めた祝祭に合わせる形で上手に纏め上げたこの文書を読んで、残るのは、やはり教会にはこの国について、家庭について、具体的な代替的政策案や方策を提示できていない、という印象ではないか。離婚や中絶の容認と人口抑制計画の推進といった政策の背後には、やむにやまれぬ人々の現実がある。教書は、ここに届いていない。現実を死と呼び、それと結びつかない理想を掲げ、それをフィリピン家庭の本来の姿だといって終わってしまっている。

どうしてこのように、地に足のつかないものになってしまうのか。この「地に足の着かない感じ」は、フィリピン社会において指導的な立場にある人たちの文化を理解する際のひとつの鍵になるのではないかと思うし、その背後にあるものを注視していかないといけないと思わされている。

2010年3月29日月曜日

HOPE IN THE MIDST OF CRISIS; 7 July 2002

本文は下記の通り。

http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2002-hopeincrisis.html

内容は、7月の司教協議会の総会を経て公表された一般向けメッセージであり、自然災害、政治社会の諸問題に加え、教会における聖職者の性的不品行(sexual misconduct)を取り上げ、不始末をわびるとともにこれを神学的に解釈し、問題が山積する国情のもとでなお希望を持って生きることについて簡潔に述べている。

声明はまずその時期に襲った台風、引き続く貧困問題、犯罪、暴力、政治不正等を挙げ、希望を失いかねない危機の現状を述べたあと、聖職者達(司祭と修道士)による性的不品行が教会を揺るがしたことに言及する。これについて、①キリストの祭司職の聖性を裏切るものである、②「聖にして罪人の集いである」という教会の神秘を指し示すものであるという二様の理解を示した上で、神からの勇気という贈り物によって自分たち牧者(We your Pastors)は、一部指導者達がその群れ(flock)の人々に対して犯した重大な罪を「赦してほしい、と謙遜に求める」(humbly ask for forgiveness)という。このような行いは司祭にふさわしいものではなく、大多数の司祭と修道士はそのつとめに忠実であることを確認するとともに、謝罪した以上必ず刷新をなさなくてはならないと認識している、とする。今後専門家と広範に協議しつつ様々の性的虐待、性的不品行の問題を扱う規約の作成に取りかかっているという。

旧約聖書ミカ書の「正義を行い、憐れみを愛し、へりくだって神と共に歩め」を引き、この言葉に、嵐のただ中を生きるがごとき我々は希望を見いだす、という。そしてこれを教会指導者の歩むべき道として解説している。そしてフィリピンがよりよくなることへの希望、教会の聖性への希望は、この正義の実行、愛、そして謙遜な神とともなる歩みによってもたらされるものであり、このような生き方自身、神の恵みである、とする。

そして最後に、イエスが「希望を持て! 信仰を持て」と言っておられ、彼にこそ希望があり、この希望は失望に終わることがない、と結んでいる。

***

この時期、CBCPの中では、将来を期待されていたヤルン司教の隠し子騒動が起こっており、この後には高齢と健康問題故に引退を目前にしていたカリスマ的指導者であった当時のマニラ大司教であったシン枢機卿後の次世代の指導者として期待されていた著名なバカニ司教にも及び、彼らの事実上の更迭にまで至った。それ以外にも様々な性的スキャンダルが取りざたされた。

この文章にショックを受けたはずの彼らなりの誠意というものを読みとることは出来るだろう。具体的に規約を作成する(実際に数年後にできたと聞いている-原文は私は未確認だが)というところにそれなりの本気が現れていると思う。

ただ、いくつかの問題が残っていることも指摘していいと思う。私自身はプロテスタントであり、世界的にプロテスタントも含め、性的不品行や虐待のケースが続々と公になる現状を鑑み、決してカトリックだけの問題としないようにすべきだと意識しつつ、述べていきたい。

1)この時期の新聞記事を読んでいたときの記憶によると、教会側は強制性のあるセクシャルハラスメントや性的虐待のケースと、合意の上で成り立つ「不適切な性関係」(illicit love affair)を一つにして扱ってきた。この文書にもそういう態度が現れている。バカニのケースは前者(セクシャルハラスメントの容疑、被害者の訴えに対し、本人は「そのつもりはなかったが、不適切な親密さの表現があった」として謝罪した)、クリソストモ・ヤルン(Crisostomo Yalung)司教の場合は後者(不倫の末の隠し子がいた)であった。また後には、自分たちの関係を認め、結婚式を行い、教会当局に聖職者の結婚を認めるべきだと主張するに至った聖職者達もいる。世俗的にいっても前者は刑法犯だが、後者は犯罪の範疇ではない。
http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/byalung.html
http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/bbacani.html

 勉強した上で結論を出すべきなのだろうが、今仮説的に考えているのは、カトリックでは結婚という秘跡(サクラメント)を非常に重くとらえているため、両者ともこの秘跡違反という観点からはとんでもなく重大な違反、ということになるということなのかもしれない。さらに言えば、叙階(つまり聖職者としての任命)も秘跡であり、このときに貞節の誓約をするので、これを破ることもまたとにかくとんでもない罪(教書に使われた言葉で言えばgrave sin)であるだろう。それは司教達がこの叙階の秘跡に基づく権威であるが故に、何にも勝る問題であるのだろうと思う。

2)確かに被害者への謝罪はあるが、問題があくまで教会の聖性をどうするか、希望をどう持つか、ということに当てられていることに、どうしてもある種の不誠実さというか、身勝手さを覚えるのは私だけだろうか。大事なのはまず教会のことなのか。少なくとも、被害者の痛みの側に立つ姿勢からは遠く見える。これは自己吟味を迫る考察でもあるかもしれない。というのも、自己弁護というものをどう見るかは、日本的な文化の問題とも関わるように思うからだ。日本では、過ちを犯したものが自己弁護するのは見苦しい、という美意識というか感覚があるように思う。しかし、これではまだ主観的な言葉にすぎない。これは学的な議論の中にどの程度持ち込める見方なのだろうか、考えていかなくては。

3)もう一つ、この文書で扱われていない問題がある。この数日また世界的にクローズアップされてきているが、当時からあった「隠蔽」の問題である。新聞記事やCBCPのニュースサイトの記事を読んできた記憶では、教会はこの問題については否認するばかりで、組織的隠蔽があったのかどうか真相を究明する姿勢を見せていなかったはずである。最近のニュースによると、アメリカにおける大規模で悪質な聖職者による性的虐待事件についての告発を、現教皇がバチカン教理省長官時代に握りつぶしていたとの疑惑も浮上しているという。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201003/2010032500641
バチカンの教皇擁護論の紹介として次の記事もあります。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2713529/5537686

という中で、やはり問題の根本的な対処よりも、むしろ組織の防衛と活動の通常への回帰に(おそらく無意識にではなかろうかと推察するのですが)向かおうとしている姿勢が反映された文書である、と読むことができると思われる。

しかし、教会は道徳指導者であってこそその権威が保たれると言うもの。Social Weather Stationsなどの調査を見ても、今に至るまで人々の教会への信頼は基本的にはさほど揺らいではいないようではあるが、このようなスキャンダルとこのような逃げの対応は、この10年ほど欧米で見られるように、長期的な信頼と権威の喪失に繋がっていく可能性があるのではないか。フィリピンにおけるカトリック(教会も、人々の信心も)はどこに向かっているのか、注視していきたい。