2010年11月22日月曜日

CBCP司牧書簡「「創造の日」「創造のとき」を祝う」 2003年9月1日

CELEBRATING CREATION DAY AND CREATION TIME

カトリック教会では9月1日が「創造の日」として、またアシジの聖フランチェスコの祝日である10月4日(あるいは直後の日曜日)が「創造のとき」として祝われているとのこと。キリスト教には、神がこの世界を創造し、特に人間は「神の似型」に創造されたという根本思想があるが、これを改めて想起する、というのがこの教書の内容である。

カトリック司教協議会は1988年に「我らの美しい大地に起こっていること」と題して環境問題についての声明を出している(本文の1998年は誤り)。

WHAT IS HAPPENING TO OUR BEAUTIFUL LAND - A Pastoral Letter on Ecology

ここでも改めて、昨今の災害、特に洪水とその背後にある森林伐採に触れるなど、生態的な危機状況を挙げる。また鉱山開発のもたらす汚染や遺伝子組み換えの潜在的危険性などにも議論が及ぶ。

これを踏まえ、教会は「回心」(conversion)を訴える。このために教区、小教区、教会基礎共同体、キリスト教学校、修道会など教会関連の諸団体の、環境教育、環境保全活動、持続可能な開発計画などが始められていることを挙げる。また、教会教派を超えたエコロジカルな提言がなされてきていることも指摘する。

また、これら祝祭に際しては、教会の典礼で世界の美しさと苦悩、人間が自然と不可分であること、社会正義を求める闘いが継続中であることに触れるよう求め、また環境保全のための働きを教会の各レベルで促進するよう訴えている。また、政府に対して、短期的な経済的利益を優先して長期的な生態的破壊をもたらすことのないよう呼びかけている。

最後に世界創造の父、世界の救済者である子イエス・キリスト、命を支える聖霊の三位一体の神への信仰を深めるよう訴えた上で、「命の母なる聖母マリア」の加護と大地の癒しを求めて終わる。

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フィリピンのカトリック教会は、特に森林の過剰伐採に対して、また近隣住民の生活環境への配慮を欠いた鉱業に対して、厳しく対峙してきた。この文書にも、そうした教会としてのコミットメントが確認されている。文章の全体的な簡潔さに、かえって各部門で地道な取り組みがなされてきたことが伺われる。

マスコミの中では、森林の(特に)違法伐採監視による保全努力は、比較的好意的に取り扱われてきたと思う。他方、鉱山開発に対する厳しい対応(環境問題及び地元への利益還元のなさ)については、主要紙は特に中間層・富裕層を対象とすることもあってか、投書欄や意見広告を通じて、産業振興、雇用創出を根拠とした開発推進論、また教会関係者を素人としてその干渉を批判する議論が繰り返し出されてきている。個人的には、過去に読んだいくつかの資料に基づいて、雇用創出効果は、特に地元への間限度は非常に限定されていると共に、鉱山開発に伴う汚染は明らかで、かつ住民への十分な補償がなされたためしがないという理解をしている。だから、カトリック教会の側が基本的に正当であると理解している。

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(おまけ)

プロテスタントの私は、どうしても、せっかく最後に三位一体の神にふれたあとに、わざわざ聖母マリアに触れて終わる、という文章のスタイルが毎度ながら気になる。もちろん教理的に神が一番なのだが、心情的には(本音としては)本当は聖母マリアのほうが親しく近い存在、ということなのだろうか。

別に他者の信仰の是非をここで云々しようというのではなくて、何というのか、そのある種の二重構造のようなものを、改めて考える必要があるのかもしれない、と思ったということだ。この手の信心にかかわる二重性が、どうも何というか、プロとアマ、玄人と素人、聖職者と信徒、おとなたちの神学的議論と、子ども扱いの信徒向けの説教、のようなダブルスタンダードとも見えるような「霊性」の形成方式に現れているように思われてしまう。この点は、今後もう少しきちんと考察しなくては、と思っている。

CBCP司牧書簡「イエスの聖心において:我らの地を癒し、我らの生を刷新する」 2003年9月1日

In the Heart of Jesus: Healing Our Land, Renewing Our Lives

この文書については、要理的な要素が中心であるが、ここではそのことについては簡単に抑えつつ、特に教会・社会観関係との関わりを中心に見ていきたい。

章構成は次のとおり。

・序国難に際して、第一にイエスの聖心にささげる「9回の第一金曜日」とそのあとの聖マリア年のプロジェクトを含め霊的な刷新、悔悟と祈りを取り上げ、これに当たろうという決意を表明する。

・「イエスの聖心」をたたえる「9回の第一金曜日」(の祝い)
 イエスの聖心に対するフィリピン国内の熱意、関連行事の成果を挙げ、2003年9月7日から翌年7月2日まで第一金曜日にイエスの聖心のための典礼に積極的に参加しようと呼びかける。この機会にミサや聖体礼拝(holy hour)に参加し、聖体を受け、和解の秘跡(つまりいわゆる懺悔)を受けるよう勧めている。
 またミサや聖体礼拝の中で要理的な教育(catechesis)として、このための短い説教や黙想談話を行うことで、イエスの聖心への信心の意味をより深く理解するよう支援すべきとしている。
 この信心を教会のみならずあらゆるところで行うよう勧めた上で、以下のように主張する。「私たちの国をより真実に人間らしく、本当に正しく助け合いのある社会として、つまり正統な愛の文明を生きるフィリピン国民として立て上げようとする取り組みにおいて、イエスの聖心は聖霊からの光とエネルギーの尽きることのない源となりうる。」
 今回は、特に以下の2つを目標とする。

1)司祭たちの聖化
 司祭たちの過ちや犯罪(特に性犯罪)が多く報じられる中で、特に深刻な問題として挙げられている。

2)キリスト教徒の生活の刷新
 フィリピン社会全般、特に政府とあらゆる公的な生活領域における改革の必要を挙げる。生活のイエスの聖心への聖別により、国民の希求と努力が変化への願いとなり、断固たる勇敢な行動への動機付けとなることを願っている。

・プログラム:C(回心)-O(生活(人生)を捧げる)-R(償い)
 C-O-Rは、1985年のマリア2000年記念の際にCBCPが提起したモットーであると説明し、この枠組みで今回も実施することを確認している。

・イエスの聖心への聖別
  ・家庭の聖別
  ・国全体の聖別

・マリア年
 2004年はピウス9世教皇による「無原罪懐胎」の教義の制定150周年、及びフィリピンの最初の聖マリア年の祝祭の50周年であることが確認されている。

・結論
 積極的な準備と参加を呼びかけ、神の祝福を祈って終わる。

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 政治・社会の刷新に際し、ある種の精神主義が掲げられているとともに、教会が国全体を聖別して捧げてしまうというような国教会的ないしキリスト教世界(Christendom)的な発想に彩られている。
 この表現は、おそらく多くの人々に、さほど違和感なく聞き流されているだろうが、発想自体は、熱心なカトリック信心の持ち主だけが共有するものであろうと思う。

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 ちなみに、「イエスの聖心」(あるいはイエスのみこころ)信心については、たとえば
イエスの聖心の月
にある。ある修道女が見たイエスの心臓の幻(出現)に基づくという。この際、9ヶ月続けての第1金曜日の聖体拝領うんぬんということも幻で示された、ということだそうだ。プロテスタントの私にはわけが分からないが、カトリックでは、イエスをただ信じるだけでなく、心臓はまた心臓として、特別な仕方で信心する、ということになるのだろうか。

2010年11月17日水曜日

CBCP司牧書簡「憲法改正に関する司教協議会の宣言」2003年7月7日

CBCP STATEMENT ON CHARTER CHANGE


憲法改正の動きに対する慎重論である。すでにざっと読んだので、今回は逐一要約せず、論点をざっとまとめ、論評したい。

憲法改正の動きの背後にあるものとして、

建前上は、
・大統領制から議院内閣制へ
・中央集権制から連邦制へ
への移行が政治改革として緊急であり効果的である、という議論になっている、と整理する。

これに対し、いくつかの問題点を挙げる。
・憲法は国の成り立ちの中核であり、特に民主化政変を経て制定された現憲法の改正にはそもそも慎重を期する。現状の急がせようとする論調には同調できない。
・国会をそのまま憲法制定議会(Constituent Assembly)として改正に進もうとするのは拙速である。憲法改正の是非を2004年総選挙の際にまず国民に問い、これを踏まえて憲法制定会議(Constitutional Convention)を開くべきである(ここに明示はないが、これは国会議員とは別に改めて選挙で選ばれるべきものと一般に考えられている)。
・憲法における大統領や国会議員、地方の知事や議員には任期の制限が課されているが、憲法改正の際にこれを除去してしまいたい、という隠れた思惑があるのであれば言語道断である。総選挙が近い時期の拙速な対応では、こうした疑いが晴れない。

その上で、憲法の改正を検討する際に考えておくべき論点を列挙している。
・政治が貧しい庶民をケアする能力を高める効果があるか(累進課税が例として挙げられている)
・政治参加が促進されることで、名望政治エリート家系の終焉と利益誘導型政治の克服に至るか
・公務員の説明責任性(透明性)を高める具体的な方策があるか
・グローバル化の時代の中でフィリピンの資源の開発を外国籍の企業が保有出来るようにすることを認める場合は、それが雇用、企業活動の機会の拡大など、フィリピンの人々の益となるかどうか
・権力の分散(脱中央化)による市民社会グループの統治へのより積極的な参加につながるか
・貧しい人々を代表しつつ効果的な政策策定の出来る政党の形成につながるか
・投票行動が変化し、人々がこれまでのように人気ら利益誘導やらによらず、政策や実績に基づいて
投票するようになるか
・多数派の支持する明瞭な政策による指導者たちが選ばれるようになるか

とにかく、まず憲法改正の是非を問う田植えで、じっくり話し合いをすべきである、というころである。

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確かに一理ある、という面もある。政治過程に対する批判はおおよそ的確ではないかと思う。つまり、政治家たちの本音はおおよそこの文書にあるようなところにあるだろうし、司教たちが指摘するような論点がどこまでまじめに取り組まれてきたか、また取り組まれそうなのかは疑問でもある。

と同時に、二つ気になることがある。

ひとつは、「論ずべきこと」として列挙されていることが、憲法改正の目標としても、現状の改革に関する議論としても、現実的に言って高すぎるのではないか、ということである。高い目標を持つこと自体は、特に教会のような理想を語る組織にとっては、それほど問題ではないだろう。しかし、そうは言っても、この文書も憲法改正が俎上に上っている中では、政策論としての実際性がないと意義が薄れてしまう。フィリピンの政治過程、選挙、正当、経済格差などは、長年の間、繰り返し改革が叫ばれつつも、どうにも決定的な改善が見られなかった問題である。それらを解決することは至難の業であり、まして、憲法を改正することで自体が改善するならそんな簡単なことはあるまい。すでに現行の1987年憲法は高い理想にあふれた憲法である。そもそもほとんどの問題は法が制定されたところで、これをどう履行するかというレベルで起こってきた。

もうひとつは、一見逆のことのようであるが、改革に向けた緊迫感、緊急性の感覚の欠如である。「じっくりやる」というのは聞こえは良いが、要は急がなくてもよいのでは、ということでもある。上記の改革が憲法改正で成し遂げられるのかどうかを論じるかどうかと別に、これらの論点は、いずれも長年の難問であり、重要課題である。どうにかしないといけないのがどうにもならぬまま来てしまっている。憲法の改正が慎重を要するとしても、政治社会改革そのものは緊急の課題として一生懸命取り組んでもなかなか難しい。教会がこのことを否定しているわけではないのは分かっているつもりだが、これらの論点が何よりも憲法改正の正当性の吟味の根拠として出される、という語りの展開自体が示唆するものがあると思う。

もし本気なら、昨今の政治に何が緊要であるかを先に明示したであろうし、短い論評の中ではあれ、多少なりとも憲法改正以外に何をすべきかも併せて論じることが出来たはずである。高い目標を掲げながら、のんびり論じるよう進めるところには、(最近ワンパターンで申し訳ないが)結果的に現状維持的なとまでは言わなくとも(今回も心情的にはそういいたいくらいだが、それは公平を欠くのかもしれないと自重する)、変革に力を貸さない言葉になってしまっているといえよう。

2010年7月2日金曜日

訃報・クラベール司教

フィリピン・ルソン島の山岳地出身初の司教であり、教会の政治社会的な参与に尽力してきたフランシスコ・クラベール師の訃報に接した。

普段はカトリック教会のあり方に批判的な論じ方をすることが多い私ではあるが、フィリピンの変転する政治社会状況の中での師の働き、思想、その葛藤と試行錯誤には深く敬意を覚えてきた。哀悼の意を改めて表したいと思う。

First Igorot bishop, martial law foe dies; 81

2010年5月4日火曜日

CBCP司牧書簡 「恵みの業を大河のように流れさせよ」 2003年7月7日

LET INTEGRITY FLOW LIKE A STREAM!(A Pastoral Statement of the CBCP)

政治腐敗と汚職(graft and corruption)についての教書である。

とはいえ、冒頭、高位聖職者のスキャンダルをまず挙げ、悲嘆し、神と民とに赦しを請う文章から始まる。1991年の第2回教会会議において聖職者の刷新の優先性を挙げた点を想起し、これを受けてさまざまのプログラムを作り、また聖職者の性的不適切行為への対処の司牧的ガイドラインを制定してきたと述べる。さらに今後神学教育においても「キリストの歩みに倣う真の良識に立った人物」こそが聖職者となるよう検討を加えるという。

それでも、たとえ聖職者の側に罪深さがあり、刷新の努力を怠ることが出来ないとしても、社会に巣食う道徳上の問題について言明する道徳上の役割はなお自分たちにあり、これを避けることは出来ないとして本論に入る。

1989年の「盗んではならない」、1997年の「フィリピン政治に関する司牧教書」においてCBCPはすでに政治腐敗と汚職について触れ、これを社会に対する反逆、そして神に対する罪であると難じている。そして市民委員会の創設により一般の認識を高め、公金の用途を監査し、違反した公職者の訴追を行うべきであると提言しており、今回もこの点を再度強調している。

汚職の問題性について確認しながら、政治家の罪のみならず、これを容認している国民全体(we as a people)の責任を問うている。政治家の公金の不正使用とともに、民間企業の不正行為が賄賂などによって野放しになっていることが問題として挙げられる。

汚職の問題は世界的な現象であり、道徳倫理の水準が崩壊していることと関連するという。しかし、フィリピンの場合国内の不平等性のはなはだしさと合わせるとこの罪の深刻さは大きい、とする。

対外債務返済のため圧迫された国家予算の中から、さらに40%もの公金が汚職に消え、本来貧しい人々のための開発に使われるはずのものが失われていくことは、道義的に決して受け入れられないことである。これは国際的にもかなりひどい水準であり、フィリピンの通貨ペソの評価を下げる要因でもある。またこうしたことが蔓延することで治安の悪化や公的サービスにおける賄賂要求などがはなはだしくなって、国民の道徳的、霊的な意識が失われ、他者への不信感が増すとする。そうした中で汚職は行政や政治の隅々にいきわたり、開発資金の用途、マスメディア、市民社会にまで影響を及ぼしている。教会すら、腐敗で知られる人々からの献金を受け取ることで知られるようになってきており、教会は悔い改めを表明し、主の赦しを請わなくてはならない、とする。

社会の中にはこの問題に対する認識が広がっているが、具体的な行動こそが求められている。多くの教会系の組織や市民団体が動き始めており、教会はこれを支持するという。政府の取り組みにも注視している。この問題にかかわる団体が増えること、特にカトリック系の組織や学校、小教区、宗教運動、そして教会基礎共同体が価値観の形成(value formation)に力をいれ、汚職撲滅の働きに参加するよう呼びかける。イエズス会の作成したマニュアルがあるので活用するよう勧める。

より積極的な法制度の形成や、政府の市民団体と一丸となっての活動、市民運動の政治家のライフスタイルチェック、行政官に対する監視、容疑のある行政官の告発などの促進を提案している。

司教協議会としては、下部組織の社会活動部門であるNASSAおよびフィリピン信徒委員会に、政治腐敗・汚職への取り組みを実施する主導的役割を果たす役目を委託している。と同時に教会自身としても内部の問題にきちんと対処するように決議している。司教たちは腐敗で知られる人々からは献金を受け取らないし、彼らの活動を容認しているというメッセージとならないためにも、特別な仕方で彼らに栄誉を与えたりすることはしない、とする。

最後にアモス書5章24節のの「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」を引用し、聖母マリアの範を引いて教書を終えている。

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読み通して不自然に思えるのは、政治腐敗と教会の性的スキャンダルとを、「道徳上の腐敗」として一律に論じている点である。

確かにひとつの国民社会の中で、共通の国民文化がさまざまの場において共通の問題を惹起する面がある、という議論は考察に値するだろうと思う。教会が怪しい政治家から献金を受け取ってしまうという話は、この国家的な汚職の問題と連続性を持って論じる意味があるようには思う。

しかし、性的スキャンダルは、やはりこれとは別の問題に思える。

こういう別々の問題、しかもいずれも単に道徳や霊的な問題だけでなく、制度上の問題を含む問題において、まったく別の問題を、教会が「責任を持つ」(がゆえに発言権のある)道徳問題に還元して論じようとするとき、教会の性的スキャンダルの場合の聖職者の任職や教会の制度と透明性、説明責任、問題への対処のシステムといった問題も、また政治的汚職に関連した行政や司法の制度整備、公務員の給与などのより実際的な問題から遠ざかってしまっているように思える。そうなると、こうした議論をすればするほど大事な問題が見えなくなって、かえって現状維持に力を貸してしまうのではないか。

教会の道徳的説教は、道徳的な高みから論難することや、その論難を聞くこと自体のカタルシスによって、かえって現実に具体的に対峙していく方向への動きを鈍らせかねない面があるのではないか。このことを、教会の司牧教書を読むたびに考えてしまう。

2010年5月1日土曜日

マニラ大司教区・司牧書簡「選挙2010」

フィリピン・カトリック司教協議会の司牧教書を読むシリーズを中断し、昨今の選挙がらみで書いてみます。

いよいよフィリピンの総選挙が近づき、諸教会(カトリック、プロテスタント等々いずれも)の動きもいろいろと報じられるようになってきている。マニラに滞在して様子を検分できた前回と異なり、今回は日本で模様眺めということになるが、ふとマニラ大司教区の「Election 2010」というシリーズがホームページ上に公表されていることに気づいたので、これを読んでみることに。

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Election2010 Part 1

Part 1 は3月14日付、英語とフィリピン語の翻訳(Filipino Translationとある―オリジナルは英語である、ということか)が並列され、マニラ首都圏教会管区(Manila Metropolitan Ecclesiastical Province)の司教たちの名が列記されている。つまり、これはマニラ大司教区を中心する管区全体の意思表示ということになる。

管区内の教区は、マニラ(大司教+補佐司教2名)、アンティポロ(司教+補佐司教)、クバオ、イムス、カロオカン、マロロス、ノバリチェス、パラニャーケ、パシグ、サンパブロ、プエルト・プリンセサ(使徒座代理区 Apostolic Vicariate)、タイタイ、であり、従軍司教(Military Ordinary)も名を連ねている。

ポイントは明瞭である。来る5月10日に国政選挙がある。これは自由選挙であるが、自由選挙とは脅しや金に左右されないものであるべきだ。有権者は特に貧困と政府の腐敗という問題と立候補者の資質を照らし、良心的な市民の集いで注意深く検討すべきであるとする。こうした諸集団は自分たちの選択に関する主の導きを祈る市民集団たるべきとする。

その資質としては、神を恐れる人、道徳的で、悪習に染まらず、命への畏敬の念を持ち、常に貧しい者たちの真の友であり、世界の生態系の友であり、つつましく、責任あるフィリピン人市民のよい模範であること、とする。

こう締めくくる。「主とその御母がわれらの国を祝し守ってくださるように。というのも、神を恐れる国としてわれわれが人々をも愛しているということを、彼らはご存知なのだから。」

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Election2010 Part 2

二つ目のものは3月21日付の回勅(Circular)である。マニラ大司教ガウデンシオ・ロサレス枢機卿名で、マニラ大司教区内の聖職者、修道士、信徒に向けられている。

内容としては以下のとおりである。
上述の司牧書簡をもう一度よく読むように勧める。今度の選挙は、国内の諸問題を背景に、国民が投票に関する成熟したよく考えられた決定をすることを支援する機会だかからである。さもないと選挙時の過ちを正すために人々が街頭に繰り出すことにもなりうるからだ。司牧書簡にあるように、市民グループを各部門、年代層、小教区などにおいて積極的に組織し、また人々の運動を支援してほしい。こうした団体は中立的なものであるべきである。投票は良心の選択によるものであり、お金、脅迫、欺きによって影響されてはならない。市民組織を通して、責任を持って望むことで、市民は国づくりをはじめなくてはならない。最後に、識別と判断に際しては常に祈りが伴はなくてはならない。支援するとともに祈ろう。

こう閉じる。「主イエスとその御母が常に導き、われらを触発してくださるように。彼らもまたよき市民として生きることを学ばれたのだから。」

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Election2010 Part 3

こちらは4月28日付である。マニラ大司教ガウデンシオ・ロサレス枢機卿名で、宛名を示さずにMessageとだけ記されている。

内容は以下のとおり。
選挙当日まであと数日、騒がしく混乱に満ちた選挙戦が戦われ、よいうわさは耳にしないが、これぞ「選挙戦、フィリピン版 political campaign, Pilipino style」である。われわれはこのようなことを自由の民として成長するにつれ乗り越えていくようにと祈る。国の将来は、誠実で神を恐れる、信頼に足る人々に任されるべきであり、そのような人々こそ大いなる一致を生み出しうると信じているであろう。一部特権階級のためでなくすべての人々の益を大切にする指導者を選ぶ確信を得るためにも、情報収集のみならず、黙想と祈りが不可欠となる。
民としてのわれらの歴史において重要なこの時にあたり、マニラ大司教区の小教区等の共同体が、5月の最初の9日間を「誠実で平和な選挙日のための特別な祈祷期間」とし、また選挙直前の3日間を「イエスの聖心および無原罪の聖母の聖心を記念する御聖体の聖なる賛仰」の特別の三日祭とするよう求める。

こう閉じる。「来るべき選挙で誰が勝つにせよ、フィリピンという国こそが勝者となるように。」

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いつものことではあるが、今回も基本的に、政治の霊的な理解の強調、政策やシステムよりも政治家個人の資質の強調、それらから来る、選挙で霊的な指導者を選び、その人が国をよい方向に導いてくれるように、という論じ方が一貫して見られる。その結果、教会の政治への参与とエネルギーは、国政選挙の「有権者教育」や「選挙監視」にかなり集中することになる。

もうひとつ。今回は初めて選挙のコンピュータ化が導入される。この点についてはさまざまの期待と懸念、そして資材導入や準備をめぐる報道が多く見られてきたが、このことについてまったく触れられていないのも気になる。もっともこれについては、教会関係者が状況を注視しているのは確かである。たとえば以下の記事にはそうした姿勢が現れている。(ちなみにこれは、Part 3についてのCBCPのニュース記事である。)
Cardinal Rosales dismayed over pinoy-style political campaign

グループ作りについても、教会系の運動がどうしても中間層寄りになってしまうこと、低所得層の庶民との間にある種の文化ギャップが存在してきたことなどについて、どう取り組むのか、というような発想が欠けている。市民(citizen)という言葉が貧しい人々(the poor)との間に、ある種不愉快な緊張感をはらんできたことは、特に2001年の一連の事件(大統領放逐の政変と、これに対抗する親エストラーダ派のデモ)で大きな衝撃とともに学んできたはずではないのか。

にもかかわらず、同じことの繰り返しである。強い賛成も反対も仕様がないが現実から遊離しているようで、とても多くの人々の注意を喚起する文書とは考えられない。これでは運動(政治の改善)よりも、構造(現状維持)を指し示しているとしか考えられない。

2010年4月9日金曜日

WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110; May 31, 2003

再度、家族計画関連法への反対声明である。タイトルとリンクは以下の通り。

WE MUST REJECT HOUSE BILL 4110 (A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines)

冒頭に引用されるのは、新約聖書、テモテへの手紙二4章1-2節である。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(新共同訳)

そして司教協議会はこの言葉に基づいて「戒める」(ただし教書の英語ではcorrect errorなので「矯正する」)責任がある、とした上で、下院法案4110に教会の教えに反する考え方が含まれている、とする。引用された聖書の文脈は読んで明らかにキリスト教の信仰共同体の「内部」での活動を指すものであるから、これを議会で審議中の法案に適応するのは、教会が国会に対して、「重大な道徳的問題について」と限定しつつも監督者として指導を与える、というきわめて「キリスト教世界」(Christendom)の見地から論じるという教会の政教関係への典型的な接近法をとっている。

まず下院法案4110は「教会の教えに反する信条を含む」「そのために微妙かつ欺瞞的な語り方と方法を用いている」との全体的な評価を出した上で、以下の点を挙げる。

1.法案に見られる「リプロダクティブ・ヘルスケア」「リプロダクティブ・ライツ」は国際連合のカイロ文書(1994年の国際人口開発会議のこと)以降国際的に用いられている表現で(国連人口基金東京事務所のホームページの用語では「性と生殖に関する健康/権利」とある)、「最も糾弾すべき犯罪である」中絶を明らかに含んでいる。また上記概念はあらゆる避妊法を認めるものであり、法案においても青年にもこうした避妊手段が入手できるようにしようとしている。

2.法案の支持者は中絶に関する法(中絶の禁止)を変えるつもりはないと言っているが、「受胎 conception」の意味を再定義し、本来の「受精時点 fertilization」とする代わりに、「着床 implantation」の時点と主張する。その結果、着床前の受精卵は人間ではなく、権利もない、とする。さらに法案はピル、避妊リングなど受精卵の成育を阻害するものに「流産促進的な効果 abortifacient effect」があるとの認識を示していない。

3.法案支持者は「安全でない中絶」で多くの死者が出ていることに言及することが多いが、そもそも中絶は犯罪であり悲劇的なのだ。しかるにリプロダクティブ・ヘルスの考えで行っては、「安全な中絶」であれば許容する、ということになりかねない。

法案を丁寧に読むと、以下の誤りが明らかになる、という。

・自分の身体に対する人間が神から与えられた管理者性(stewardship)という道徳上の問題が、単なる健康上の問題に還元されている。法案の支持者の中には、自身の身体を完全に支配することを「人権」と呼びさえするが、これは間違いである。

・法案の、人口増加が貧困の原因であるという想定は間違っている。開発というものは教育、良い統治、一貫性と透明性、交易、工業、農業などの複雑な相互作用の結果である。

・法案全体の調子は、キリスト教的な人間の性について、また責任ある親としてのあり方の理想をゆがめるものであり、道徳というものを片隅に追いやってしまう。

その上で、自分たちも女性たちの健康と権利を擁護し促進することを目指しているが、この法案はこの目的にも合わない、とし、教会の教えに反する深刻な過ちがあるゆえに我々(weがどこまでを指すのかがあいまいだが)はこの法案を拒絶せねばならない、とする。

冒頭のパウロの言葉に再度言及し、「私たちのカトリック教徒の議員たちは教会を通して神から受けた道徳的な教えに従って行動するであろうと確信している」と結ぶ。

***

いつものトーンである。残念なほど発見が少ない。信念を貫き、妥協を配するというのはそれ自体では結構なことであろうが。

・特に、非合法の危険な中絶の横行に対する懸念、人口問題の深刻さ(1億になるのも近いと聞く・・・10年前、確か6000万人と言っていたような・・・)について正面から論じず、対案を提起していない。

・性や家族のあり方が変化している(教会の立場からすれば崩れてきている)からこそ、こうした法案も出てくるのだとすれば、教会こそ、こうした法案の廃案にかけるエネルギーに比して、性教育や家族支援の努力は微々たるものであり、効果を挙げていないのではないか。とすれば、教会こそ性や家族といった広がりのある問題を、結果的には特定の法案の阻止という所に過剰に力を注ぐことで自ら矮小化しているのではないか。その意味では、彼らが批判する法案支持者の「性や家族の問題を健康問題に矮小化する」姿勢とさほど異ならないのではないか。

(*ちなみに、私個人の倫理観として、性や家族の問題をもっと包括的に捉えるべき、というのに異存はないし、中絶はやはり殺人であると理解している。とはいえ、政策としてどうするか、という場合には、そういうナマの倫理はそのまま法律にできるものではないと考える。自分たちのコミュニティの内外での地道な説得と、そうした生き方がしやすい環境作りこそが、まず第一になされるべきことであろうと考える。カトリック教会内にも地道にこうしたことに努めている方々がおられることも確かではあるが、なおフィリピンでは法をどうするか、ということに力点が置かれやすいようであり、これは適切でも効果的でもないと考えずにいられない。倫理はすべて法によって規定することはできない。ましてカトリック独自の倫理観を一律に押し付けることもできない。カトリック人口が8割といわれるが、少数派もいるし、政教分離、信教の自由を保障した憲法もあり、なおかつカトリック信徒といわれる人の多くも、性や家族の問題についての教会の政治的な影響力行使に眉をひそめたり、教会の反対する家族計画に賛成する人々も少なくないのだから。)

・「我々」の範囲のあいまいさを操作することで、相手を分断したり自分の土俵の中に入れて上から裁いたりすることを織り交ぜている。国会議員に対し、あなたはこちら側ですか、それともこちらにはいてはならない人ですか、と言っているわけで、暗に恫喝的な姿勢をもって臨んでいる。公共善の問題と教会の教えというのが区別されず、さりとて同一視されているのでもなく、あいまいなまま(教会の都合に合わせて)適宜使い分けられている。
 もっとも、この点については、人々の側もカトリックに関することを、都合に合わせて「自分たちのこと」にしたり「彼ら(教会指導者とその指導に忠実な人々)」の問題として突き放したり、「我々」の範囲を使い分けているのである。さすがにtayo(相手を含む私たち)/kami(相手を含まない私たち)の文化(マラヨ・ポリネシア語族の特徴と聞く)、ともいえるのかもしれない。