FARMERS AND LIFE (A Pastoral Statement on the occasion of the CBCP-NASSA and the Sustainable Agriculture Network’s 3rd Farmers’ Day)
フィリピン・カトリック教会が農民の聖人であるラブラドルの聖イシドレ(Saint Isidore of Labrador)の記念日に定めた「農民の日」の3回目を記念した書簡。2004年が国連の定める国際コメ年であることにも注意を喚起している。
フィリピンの農民が、封建主義、土地なし状況、不公正な取引慣行、ゆすり、安全性に問題のある農業慣行の下に置かれ、圧倒的多数が貧困状況に置かれている事を指摘している。その上で全ての信徒(all the faithful)に対し和解と連帯を熱心に促進し、富と機会の公平な分配に寄って貧しい人々をエンパワーすることに集中しようと訴える。また「全ての人々、特に信徒たち」が私達の農民の困難に注意を払うよう訴えている。
ということは、農民、貧しい人々は、「すべての(司教の言葉を聞く)人々」特に「信徒」の支援の「対象」の位置づけであり、主体ではないということか。農民、貧しい人々が信徒としてどう生きるか、また教会はその人たちとどう連帯するか、という視点が見えない。
確かに、農民は「土地を耕すという天職を受け取る事で、神の生産活動に参与している」、それは「世界を人類にとって真の家族とするために惜しみなく働く」ためである、とはされているが、「教会+善意の人たち」と「貧しい人たち」は区別された上で結びつけられているように見える。
教会指導者は「貧しい物たちの教会」と自己規定しているが、こういう区別と対象化こそが現実の姿に近いのだろう。
2011年9月3日土曜日
2011年9月2日金曜日
CBCP司牧声明 「選挙を通じて国家建設を」 2004年4月21日
NATION-BUILDING THROUGH ELECTIONS (Pastoral Statement on Elections 2004)
2004年総選挙に際しての二つ目、直前の声明である。1998年総選挙の際も選挙に関する声明が二つ出ている(但し当時はオスカー・クルスCBCP議長の下フィリピン文化、経済、政治に関する一連の論評的声明及び政治に関する要理問答も同時期に出ている)。2001年の中間選挙の際は一つである。
この短い声明においては、
・地方及び国政の指導者を十分な情報に基づき責任ある形で選ぶことで「ピープルパワーを制度化する」ことができる、という理解が示されている。
・選挙は「誠実で、秩序のある、そして平和な」ものであるべきとしている。そのために一般市民による選挙監視が重要であるとしている。
・選挙管理委員会の不備を指摘しながら、票の売買、立候補者や市民に対する共産党による「革命税」徴収、公金の不正流用などの腐敗の危険性を指摘、これらと戦うことは福音の要請するところ(gospel imperative)である、とする。
・各自が候補者を選ぶ際の基準として、その候補者の(1)政治家としての能力、(2)良心的であること(一貫性、透明性、説明責任性、人権の尊重)、(3)主要問題(家庭と生命、環境問題、非合法薬物・賭博、正義、平和、秩序、貧困緩和、教育など)への献身性、を挙げている。
・市民には、選挙後に政治家が約束を果たすかどうか監視する使命があるとする。
・教会は祈りつつ国家建設に不可欠な和解と連帯のために祈りつつ行動する、とする。
たゆまずに善行を行おう、との聖書の言葉を引用して閉じている。
政治の中で、選挙というものを極めて重視しているところが、ある意味で形式的民主主義を重んじる志向を感じさせる。もちろんその枠組みを活用してこそ、という話ではあるが、制度改革や法制定、政治過程、あるいは社会運動による改革よりも、選挙がきちんと行われることに力点が置かれていると言える。しかも一人一人の有権者が、一人一人の候補の資質をどう吟味するか、というところにかなり力点が置かれている。確かにそこでは有権者と候補の道徳的な資質と姿勢が問われるので、道徳問題に特権を要求する教会の土俵に持ち込みやすいのは理解できる。
こうした論法がマスメディアなどでももてはやされているし、市民運動の中で重要な位置を占めているのはよく知られたところだろう。しかし、そういうアプローチでもうこの時点でも20年近くやってきているわけで、総選挙もこれで3回目(1992,1998,2004)であるのに、政治および行政の改善の兆しが見えにくい中で、それらのことの重要性を否定しないにせよ、何か他にもっと肝心なことがあるのでは、と考えるのが筋では、と思ってしまう。ただそうは思わないのがどうも教会の体質のようで、やはりその背後には教会が公共の場で道徳上の一定の権威と特権(発言権)を確保しようとする力を見ざるを得ない。
2004年総選挙に際しての二つ目、直前の声明である。1998年総選挙の際も選挙に関する声明が二つ出ている(但し当時はオスカー・クルスCBCP議長の下フィリピン文化、経済、政治に関する一連の論評的声明及び政治に関する要理問答も同時期に出ている)。2001年の中間選挙の際は一つである。
この短い声明においては、
・地方及び国政の指導者を十分な情報に基づき責任ある形で選ぶことで「ピープルパワーを制度化する」ことができる、という理解が示されている。
・選挙は「誠実で、秩序のある、そして平和な」ものであるべきとしている。そのために一般市民による選挙監視が重要であるとしている。
・選挙管理委員会の不備を指摘しながら、票の売買、立候補者や市民に対する共産党による「革命税」徴収、公金の不正流用などの腐敗の危険性を指摘、これらと戦うことは福音の要請するところ(gospel imperative)である、とする。
・各自が候補者を選ぶ際の基準として、その候補者の(1)政治家としての能力、(2)良心的であること(一貫性、透明性、説明責任性、人権の尊重)、(3)主要問題(家庭と生命、環境問題、非合法薬物・賭博、正義、平和、秩序、貧困緩和、教育など)への献身性、を挙げている。
・市民には、選挙後に政治家が約束を果たすかどうか監視する使命があるとする。
・教会は祈りつつ国家建設に不可欠な和解と連帯のために祈りつつ行動する、とする。
たゆまずに善行を行おう、との聖書の言葉を引用して閉じている。
政治の中で、選挙というものを極めて重視しているところが、ある意味で形式的民主主義を重んじる志向を感じさせる。もちろんその枠組みを活用してこそ、という話ではあるが、制度改革や法制定、政治過程、あるいは社会運動による改革よりも、選挙がきちんと行われることに力点が置かれていると言える。しかも一人一人の有権者が、一人一人の候補の資質をどう吟味するか、というところにかなり力点が置かれている。確かにそこでは有権者と候補の道徳的な資質と姿勢が問われるので、道徳問題に特権を要求する教会の土俵に持ち込みやすいのは理解できる。
こうした論法がマスメディアなどでももてはやされているし、市民運動の中で重要な位置を占めているのはよく知られたところだろう。しかし、そういうアプローチでもうこの時点でも20年近くやってきているわけで、総選挙もこれで3回目(1992,1998,2004)であるのに、政治および行政の改善の兆しが見えにくい中で、それらのことの重要性を否定しないにせよ、何か他にもっと肝心なことがあるのでは、と考えるのが筋では、と思ってしまう。ただそうは思わないのがどうも教会の体質のようで、やはりその背後には教会が公共の場で道徳上の一定の権威と特権(発言権)を確保しようとする力を見ざるを得ない。
2011年8月28日日曜日
CBCP司牧声明 「来る2004年選挙について」 2004年1月26日
PASTORAL STATEMENT ON THE COMING 2004 ELECTIONS
大統領、副大統領、上院、下院選を含む2004年5月の総選挙に先駆けての短いアピールである。
最初に選挙戦序盤にして既に、政治原則や政党の政策論や人々の参加を抜きにした、政治的恩顧関係や人気が先行する気分に警鐘を鳴らしたうえで、三つの挑戦を挙げる。
一つ目は投票に関する不正をいかに防ぐかである。文書はここで、選挙監視団体をする市民活動を称賛している。
二つ目は政治理解の形成(formation)とネットワークづくりである。いわゆる有権者教育(voters' education)を信徒運動が積極的に推進するよう呼びかけている。
三つ目は社会変革である。選挙過程に関わる人々が忠実に仕事をするように働きかけること、また「貧しい者たちの教会」として、特に貧しい者たちが社会変革の先頭に立つべきことが訴えられる。また政治指導者が利権配分者としてではなく公僕として仕えるよう求めている。
最後に四旬節(受難節)と絡めながら、神の啓明を求めて祈るよう呼びかけて終わる。
***
選挙及び政治の改革を、制度改革によってよりは、道徳主張や市民圧力によって達成するよう呼びかける、CBCPにとっては定石の文書である。
目を引くのは(直訳だと事情を知らないとわかりにくいので補足をしながらやや意訳すると)「カトリック教会は『貧しい者たちの教会』であるから、社会変革において主導的な立場に立つのは貧しい者たちである」という主張である。しかし、実際はどうなのか。カトリック教会が自らを「貧しい者たちの教会」と規定して20年が経つが、「貧しい者たち」が本当に教会の先頭に立っているようにはとても思えない。「貧しい者たちの教会」はいわばフィリピン・カトリック教会のビジョン、理想であるが、現実が追い付いてきているようには見えない。彼ら貧しい者たちこそが「社会変革のためには、指導者たるもの、利権配分者ではなく公僕たるべきことを悟らなくてはいけない」だからそういう人に投票すべきだ、という主張に至っているが、これは利権や人気に流されやすいとされる貧困層に対する暗黙の批判ともとれる。つまり、ここでは司教たちは「無知な」貧しい人たちに「選挙教育をしている」ような側面が見える。しかし、このようなアプローチで、実際に人々は耳を傾けるのか、疑問である。
大統領、副大統領、上院、下院選を含む2004年5月の総選挙に先駆けての短いアピールである。
最初に選挙戦序盤にして既に、政治原則や政党の政策論や人々の参加を抜きにした、政治的恩顧関係や人気が先行する気分に警鐘を鳴らしたうえで、三つの挑戦を挙げる。
一つ目は投票に関する不正をいかに防ぐかである。文書はここで、選挙監視団体をする市民活動を称賛している。
二つ目は政治理解の形成(formation)とネットワークづくりである。いわゆる有権者教育(voters' education)を信徒運動が積極的に推進するよう呼びかけている。
三つ目は社会変革である。選挙過程に関わる人々が忠実に仕事をするように働きかけること、また「貧しい者たちの教会」として、特に貧しい者たちが社会変革の先頭に立つべきことが訴えられる。また政治指導者が利権配分者としてではなく公僕として仕えるよう求めている。
最後に四旬節(受難節)と絡めながら、神の啓明を求めて祈るよう呼びかけて終わる。
***
選挙及び政治の改革を、制度改革によってよりは、道徳主張や市民圧力によって達成するよう呼びかける、CBCPにとっては定石の文書である。
目を引くのは(直訳だと事情を知らないとわかりにくいので補足をしながらやや意訳すると)「カトリック教会は『貧しい者たちの教会』であるから、社会変革において主導的な立場に立つのは貧しい者たちである」という主張である。しかし、実際はどうなのか。カトリック教会が自らを「貧しい者たちの教会」と規定して20年が経つが、「貧しい者たち」が本当に教会の先頭に立っているようにはとても思えない。「貧しい者たちの教会」はいわばフィリピン・カトリック教会のビジョン、理想であるが、現実が追い付いてきているようには見えない。彼ら貧しい者たちこそが「社会変革のためには、指導者たるもの、利権配分者ではなく公僕たるべきことを悟らなくてはいけない」だからそういう人に投票すべきだ、という主張に至っているが、これは利権や人気に流されやすいとされる貧困層に対する暗黙の批判ともとれる。つまり、ここでは司教たちは「無知な」貧しい人たちに「選挙教育をしている」ような側面が見える。しかし、このようなアプローチで、実際に人々は耳を傾けるのか、疑問である。
2011年4月9日土曜日
CBCP司牧声明 「緊急平和アピール」 2003年3月10日
URGENT APPEAL FOR PEACE (A Pastoral Statement on Peace)
当時目前に迫っていたイラク戦争の正当性を否定し、戦争が短期的に事態を解決するように見えても憎しみを増幅するために却って平和を阻害することを警告し、戦争を起こさないように訴えている。
アメリカとその同盟国に対しては予防戦争を引き起こさないよう、平和的手段をとるよう訴えている。
イラクに対しては、国連の諸決議を順守し、軍備に関して透明性を増すよう訴えている。
フィリピン政府に対しては、長年の内戦状態を踏まえ、反乱諸勢力との和平交渉を進めるよう訴えている。
新人民軍=フィリピン共産党=民族民主主義戦線に対しては、和平交渉のテーブルに着くよう訴えている。
モロ・イスラム解放戦線に対しては、民族自決要求に対し理解を示しつつも、破滅的な結果を生んできた武装闘争に訴えることをやめ、和平交渉を進めるよう訴えている。
罪なき者の殺害をたくらむ者たちに対して、テロは不道徳であるとともに、目的を果たすのに有効な手段ではない、と主張している。
カトリック信徒に対してのアピールが最も長い。平和の主であるイエス・キリストと聖母マリアを覚え、ミサや祈祷集会、ロザリオの祈り、黙想祈祷会などをもって平和を覚え、祈るよう訴えている。
カトリック以外の宗教の人々に対しては、共に力を合わせて平和を築いていこうと訴える。
そして最後に、これらのアピールを、イエス・キリストと聖母マリアの手にゆだねている。
***
総花的でルーティーン的な印象を受ける。独自性のある洞察や、積極的な活動計画などは見られない。カトリック教会が基本的に戦争に反対で、平和アピールをしていることは分かるが、その影響力や効果への考慮が見られない。アピール自体はそれなりに真剣なものではあるにせよ、それ以上のものではないように思える。
当時目前に迫っていたイラク戦争の正当性を否定し、戦争が短期的に事態を解決するように見えても憎しみを増幅するために却って平和を阻害することを警告し、戦争を起こさないように訴えている。
アメリカとその同盟国に対しては予防戦争を引き起こさないよう、平和的手段をとるよう訴えている。
イラクに対しては、国連の諸決議を順守し、軍備に関して透明性を増すよう訴えている。
フィリピン政府に対しては、長年の内戦状態を踏まえ、反乱諸勢力との和平交渉を進めるよう訴えている。
新人民軍=フィリピン共産党=民族民主主義戦線に対しては、和平交渉のテーブルに着くよう訴えている。
モロ・イスラム解放戦線に対しては、民族自決要求に対し理解を示しつつも、破滅的な結果を生んできた武装闘争に訴えることをやめ、和平交渉を進めるよう訴えている。
罪なき者の殺害をたくらむ者たちに対して、テロは不道徳であるとともに、目的を果たすのに有効な手段ではない、と主張している。
カトリック信徒に対してのアピールが最も長い。平和の主であるイエス・キリストと聖母マリアを覚え、ミサや祈祷集会、ロザリオの祈り、黙想祈祷会などをもって平和を覚え、祈るよう訴えている。
カトリック以外の宗教の人々に対しては、共に力を合わせて平和を築いていこうと訴える。
そして最後に、これらのアピールを、イエス・キリストと聖母マリアの手にゆだねている。
***
総花的でルーティーン的な印象を受ける。独自性のある洞察や、積極的な活動計画などは見られない。カトリック教会が基本的に戦争に反対で、平和アピールをしていることは分かるが、その影響力や効果への考慮が見られない。アピール自体はそれなりに真剣なものではあるにせよ、それ以上のものではないように思える。
CBCP司牧書簡 「賭博を撲滅せよ:賭博は道徳的・社会的な癌」 2003年3月10日
ERADICATE GAMBLING: IT IS MORAL AND SOCIAL CANCER (A Pastoral Statement on Gambling)
ちなみに、この文書と次の文書はそれ以前に私が言及したものと分けられている。
時期や内容を考えると、それ以前のものは1月と7月の定例会合(Plenary Assembly)などで正式に詰められた文書であると考えられる。それに対して残りの2つは司教協議会の議長(ここではコタバト大司教のオルランド・ケベド)の判断で出された随時の声明であると考えられる。但し、文書自体は別段カテゴリー分けされずに整理されており、後の時代に読む際には一緒に読まれることになるから、この区別はあまり重要ではなくなると思われる。
***
賭博の蔓延を非難し、克服を訴える文書である。
賭博の問題は、勤勉・誠実・正義・良心といった道徳的価値を破壊すること、そしてこれが社会において組織的な形で合法性を軽んじた形でそのお金の流れなども秘密裏なまま蔓延するために、社会全体を不法な形で腐敗させることにある、とする。また、貧しい人々を食い物に賭博経営者たちが莫大な利益を得ることも不道徳極まりないとする。
結論として組織的な賭博一般を非難し、特に非合法賭博の合法化への動きを糾弾している。政治家たちの自制を求めると共に、違法賭博フエテンとの対決で特に知られるようになったオスカー・クルス大司教(当時はリンガイェン=ダグパン大司教区、現在は教区活動からは引退)がリーダーシップを発揮しているNGO「フエテンと対決する民衆のクルセード」(Krusadang Bayan Laban sa Jueteng)のような働きを支援するように促している。
***
その蔓延ぶりで知られる違法賭博「フエテン」は、エストラーダ大統領の2001年の放逐過程の弾劾裁判でも、その上納金を受け取ったとの疑惑が重要な問題となっていた。これに対し、政治的にはフエテンをそのまま押さえ込むのは困難であり、合法化することで可視化しやすくし、またその収益の一部を福祉に役立てる、という提案が出されるようになって来た。これに対し、カトリック教会指導層はほぼ一貫して賭博の不道徳性を訴え、フエテンの徹底的な取締りを主張している。
しかし、そうした中で、聖職者を含む教会関係者も賭博と無縁でないことが指摘される。
1)教会系の福祉活動が政府の合法賭博機関の資金的な支援を受けている
2)フエテン運営に関わっている人々から教会に多額の献金がある
3)末端の教会指導者の中にはフエテン関係者と親しい人たちも少なくない
4)素朴に賭博系のゲームを娯楽として楽しんでしまう聖職者がいるという報道もある
などの中で、教会指導者の多くは(クルス大司教のような例外もあるが)この問題については結局歯切れの悪い態度になってしまう。
ともあれ、カトリック教会にとって、賭博は原則的に絶対ダメなものであり、だから公文書でもその建前を前面に掲げることになっていることが、この文書でも確認できる。
***
もう一点、この教書の中から気になる点を指摘したい。
「労苦して得たお金を手に、貧しい人々は日々安易にお金が手に入るという賭博の空しい誘いに惹かれていく。娯楽場の価値が多少はあるとしても、それで生活上の基本的な必要のために欠かせないお金を失うことから家族全体がさいなまれる苦しみを正当化することは出来ない」とある。これは教会関係者がよく口にすることである。
しかし、もし賭博が強制的なものでないのであれば、ここで問題になるのは、それに参加してしまう人たち自身の道徳ではないか。もしそうだとすれば、社会において長年にわたり道徳指導者であったはずの教会の指導上の問題もあるはずである。教会が賭博に反対することはそれとして、教会の本業とより密接に関わるのは、人々一人一人へのケアであり、その人たちが生活を傾けるほどギャンブルにのめりこまないように、目を覚まさせることであろう。また、教会や市民社会がもしもっと健全な娯楽を提供できるならばどうであろうか。
ここでも教会は、本業に関する問題と、きちんと向き合いきれていないように私には思えてしまう。
ちなみに、この文書と次の文書はそれ以前に私が言及したものと分けられている。
時期や内容を考えると、それ以前のものは1月と7月の定例会合(Plenary Assembly)などで正式に詰められた文書であると考えられる。それに対して残りの2つは司教協議会の議長(ここではコタバト大司教のオルランド・ケベド)の判断で出された随時の声明であると考えられる。但し、文書自体は別段カテゴリー分けされずに整理されており、後の時代に読む際には一緒に読まれることになるから、この区別はあまり重要ではなくなると思われる。
***
賭博の蔓延を非難し、克服を訴える文書である。
賭博の問題は、勤勉・誠実・正義・良心といった道徳的価値を破壊すること、そしてこれが社会において組織的な形で合法性を軽んじた形でそのお金の流れなども秘密裏なまま蔓延するために、社会全体を不法な形で腐敗させることにある、とする。また、貧しい人々を食い物に賭博経営者たちが莫大な利益を得ることも不道徳極まりないとする。
結論として組織的な賭博一般を非難し、特に非合法賭博の合法化への動きを糾弾している。政治家たちの自制を求めると共に、違法賭博フエテンとの対決で特に知られるようになったオスカー・クルス大司教(当時はリンガイェン=ダグパン大司教区、現在は教区活動からは引退)がリーダーシップを発揮しているNGO「フエテンと対決する民衆のクルセード」(Krusadang Bayan Laban sa Jueteng)のような働きを支援するように促している。
***
その蔓延ぶりで知られる違法賭博「フエテン」は、エストラーダ大統領の2001年の放逐過程の弾劾裁判でも、その上納金を受け取ったとの疑惑が重要な問題となっていた。これに対し、政治的にはフエテンをそのまま押さえ込むのは困難であり、合法化することで可視化しやすくし、またその収益の一部を福祉に役立てる、という提案が出されるようになって来た。これに対し、カトリック教会指導層はほぼ一貫して賭博の不道徳性を訴え、フエテンの徹底的な取締りを主張している。
しかし、そうした中で、聖職者を含む教会関係者も賭博と無縁でないことが指摘される。
1)教会系の福祉活動が政府の合法賭博機関の資金的な支援を受けている
2)フエテン運営に関わっている人々から教会に多額の献金がある
3)末端の教会指導者の中にはフエテン関係者と親しい人たちも少なくない
4)素朴に賭博系のゲームを娯楽として楽しんでしまう聖職者がいるという報道もある
などの中で、教会指導者の多くは(クルス大司教のような例外もあるが)この問題については結局歯切れの悪い態度になってしまう。
ともあれ、カトリック教会にとって、賭博は原則的に絶対ダメなものであり、だから公文書でもその建前を前面に掲げることになっていることが、この文書でも確認できる。
***
もう一点、この教書の中から気になる点を指摘したい。
「労苦して得たお金を手に、貧しい人々は日々安易にお金が手に入るという賭博の空しい誘いに惹かれていく。娯楽場の価値が多少はあるとしても、それで生活上の基本的な必要のために欠かせないお金を失うことから家族全体がさいなまれる苦しみを正当化することは出来ない」とある。これは教会関係者がよく口にすることである。
しかし、もし賭博が強制的なものでないのであれば、ここで問題になるのは、それに参加してしまう人たち自身の道徳ではないか。もしそうだとすれば、社会において長年にわたり道徳指導者であったはずの教会の指導上の問題もあるはずである。教会が賭博に反対することはそれとして、教会の本業とより密接に関わるのは、人々一人一人へのケアであり、その人たちが生活を傾けるほどギャンブルにのめりこまないように、目を覚まさせることであろう。また、教会や市民社会がもしもっと健全な娯楽を提供できるならばどうであろうか。
ここでも教会は、本業に関する問題と、きちんと向き合いきれていないように私には思えてしまう。
2011年1月25日火曜日
CBCP司牧書簡「現在の政治状況について司牧声明」 2003年9月1日
PASTORAL STATEMENT ON THE PRESENT POLITICAL SITUATION
政治の過剰、誤用による行政の停滞を批判する教書である。特に過剰な権力闘争と足の引っ張り合い、そして汚職の問題に警告を発し、政府がこうした問題の克服のためにイニシャティブを取ることを励ましている。問題の根底にあるのは個人的な、また政治的な道徳性の欠落という罪の問題であり、これと対決しなくてはならないし、教会もその点で、過ちがある点で例外ではないし、教会もこの問題に力をあわせて取り組みたい、とする。
最後に1991年の第2フィリピン教会会議の文書からビジョンを引用して終わっている。「道徳の諸原則が社会経済生活・構造において卓越する自由な国、正義、愛、団結が開発の原動力となる国・・・国民であることが参加への呼びかけであり、関与と指導性が寛大な奉仕への召集であるような主権国家・・・」
次年度の選挙に先立つ政治家たち、そしてマスメディアの動きが背景にあると考えられる。2001年1月の政変で副大統領から昇格した当時のマカパガル=アロヨ大統領は、一度は出馬しないことを約束しながらそれを反故にしており、その大統領の身辺には既にいくつかの疑惑が浮上していた。そのような中で、政変で放逐される形になったエストラーダ元大統領派のフェルナンド・ポー(FPJ)候補の優勢が伝えられる中、政争絡みの様々な情報が乱れ飛ぶ状況が背後にあった。
2004年選挙は、プロテスタント福音派(ボーンアゲイン)の「ジーザス・イズ・ロード運動」の指導者ブラザー・エディ(・ビリャヌエバ)が道徳の刷新を掲げて大統領に立候補し一定の話題を集めるなど、政治の浄化刷新が、宗教的な刷新と重ねあわされるような仕方で語られる雰囲気が少なからずあった。
しかしそれもあくまでことの一面である。同時に政治経験が乏しくエストラーダ派の実力者による腐敗した政治の導入が懸念されるFPJの当選の可能性が大きいことに危機感を抱いた人々は、中間層やビジネス界に少なからずいて、FPJだけは避けたい、という人たちの中には、腐敗の疑いはあってもアロヨ再選の方がまし、という声を上げる人々も少なからずいた。
その中で振り返ると、当時の教会はまだ2001年の政変を「ピープルパワー」として肯定的に捉える雰囲気を残していて、道徳刷新を掲げてはいても本音としてはFPJよりアロヨのほうがまし、というところに落ち着いていたのではないかと思われる。2004年の選挙に関して、開票にかなり時間がかかっていたにもかかわらずカトリック司教協議会が早々にアロヨの勝利を認めてしまったことはそのことをよくあらわしている。2005年に選挙操作問題が浮上したときに教会が今ひとつ積極的にアロヨ大統領の辞任要求に徹し切れなかったのも、そのあたりがあるのかもしれない。
そう考えると、この短い声明も、かなりの程度建前の文書であるのでは、と考えながら読むのが適切ではないか。
政治の過剰、誤用による行政の停滞を批判する教書である。特に過剰な権力闘争と足の引っ張り合い、そして汚職の問題に警告を発し、政府がこうした問題の克服のためにイニシャティブを取ることを励ましている。問題の根底にあるのは個人的な、また政治的な道徳性の欠落という罪の問題であり、これと対決しなくてはならないし、教会もその点で、過ちがある点で例外ではないし、教会もこの問題に力をあわせて取り組みたい、とする。
最後に1991年の第2フィリピン教会会議の文書からビジョンを引用して終わっている。「道徳の諸原則が社会経済生活・構造において卓越する自由な国、正義、愛、団結が開発の原動力となる国・・・国民であることが参加への呼びかけであり、関与と指導性が寛大な奉仕への召集であるような主権国家・・・」
次年度の選挙に先立つ政治家たち、そしてマスメディアの動きが背景にあると考えられる。2001年1月の政変で副大統領から昇格した当時のマカパガル=アロヨ大統領は、一度は出馬しないことを約束しながらそれを反故にしており、その大統領の身辺には既にいくつかの疑惑が浮上していた。そのような中で、政変で放逐される形になったエストラーダ元大統領派のフェルナンド・ポー(FPJ)候補の優勢が伝えられる中、政争絡みの様々な情報が乱れ飛ぶ状況が背後にあった。
2004年選挙は、プロテスタント福音派(ボーンアゲイン)の「ジーザス・イズ・ロード運動」の指導者ブラザー・エディ(・ビリャヌエバ)が道徳の刷新を掲げて大統領に立候補し一定の話題を集めるなど、政治の浄化刷新が、宗教的な刷新と重ねあわされるような仕方で語られる雰囲気が少なからずあった。
しかしそれもあくまでことの一面である。同時に政治経験が乏しくエストラーダ派の実力者による腐敗した政治の導入が懸念されるFPJの当選の可能性が大きいことに危機感を抱いた人々は、中間層やビジネス界に少なからずいて、FPJだけは避けたい、という人たちの中には、腐敗の疑いはあってもアロヨ再選の方がまし、という声を上げる人々も少なからずいた。
その中で振り返ると、当時の教会はまだ2001年の政変を「ピープルパワー」として肯定的に捉える雰囲気を残していて、道徳刷新を掲げてはいても本音としてはFPJよりアロヨのほうがまし、というところに落ち着いていたのではないかと思われる。2004年の選挙に関して、開票にかなり時間がかかっていたにもかかわらずカトリック司教協議会が早々にアロヨの勝利を認めてしまったことはそのことをよくあらわしている。2005年に選挙操作問題が浮上したときに教会が今ひとつ積極的にアロヨ大統領の辞任要求に徹し切れなかったのも、そのあたりがあるのかもしれない。
そう考えると、この短い声明も、かなりの程度建前の文書であるのでは、と考えながら読むのが適切ではないか。
2010年11月22日月曜日
CBCP司牧書簡「「創造の日」「創造のとき」を祝う」 2003年9月1日
CELEBRATING CREATION DAY AND CREATION TIME
カトリック教会では9月1日が「創造の日」として、またアシジの聖フランチェスコの祝日である10月4日(あるいは直後の日曜日)が「創造のとき」として祝われているとのこと。キリスト教には、神がこの世界を創造し、特に人間は「神の似型」に創造されたという根本思想があるが、これを改めて想起する、というのがこの教書の内容である。
カトリック司教協議会は1988年に「我らの美しい大地に起こっていること」と題して環境問題についての声明を出している(本文の1998年は誤り)。
WHAT IS HAPPENING TO OUR BEAUTIFUL LAND - A Pastoral Letter on Ecology
ここでも改めて、昨今の災害、特に洪水とその背後にある森林伐採に触れるなど、生態的な危機状況を挙げる。また鉱山開発のもたらす汚染や遺伝子組み換えの潜在的危険性などにも議論が及ぶ。
これを踏まえ、教会は「回心」(conversion)を訴える。このために教区、小教区、教会基礎共同体、キリスト教学校、修道会など教会関連の諸団体の、環境教育、環境保全活動、持続可能な開発計画などが始められていることを挙げる。また、教会教派を超えたエコロジカルな提言がなされてきていることも指摘する。
また、これら祝祭に際しては、教会の典礼で世界の美しさと苦悩、人間が自然と不可分であること、社会正義を求める闘いが継続中であることに触れるよう求め、また環境保全のための働きを教会の各レベルで促進するよう訴えている。また、政府に対して、短期的な経済的利益を優先して長期的な生態的破壊をもたらすことのないよう呼びかけている。
最後に世界創造の父、世界の救済者である子イエス・キリスト、命を支える聖霊の三位一体の神への信仰を深めるよう訴えた上で、「命の母なる聖母マリア」の加護と大地の癒しを求めて終わる。
***
フィリピンのカトリック教会は、特に森林の過剰伐採に対して、また近隣住民の生活環境への配慮を欠いた鉱業に対して、厳しく対峙してきた。この文書にも、そうした教会としてのコミットメントが確認されている。文章の全体的な簡潔さに、かえって各部門で地道な取り組みがなされてきたことが伺われる。
マスコミの中では、森林の(特に)違法伐採監視による保全努力は、比較的好意的に取り扱われてきたと思う。他方、鉱山開発に対する厳しい対応(環境問題及び地元への利益還元のなさ)については、主要紙は特に中間層・富裕層を対象とすることもあってか、投書欄や意見広告を通じて、産業振興、雇用創出を根拠とした開発推進論、また教会関係者を素人としてその干渉を批判する議論が繰り返し出されてきている。個人的には、過去に読んだいくつかの資料に基づいて、雇用創出効果は、特に地元への間限度は非常に限定されていると共に、鉱山開発に伴う汚染は明らかで、かつ住民への十分な補償がなされたためしがないという理解をしている。だから、カトリック教会の側が基本的に正当であると理解している。
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(おまけ)
プロテスタントの私は、どうしても、せっかく最後に三位一体の神にふれたあとに、わざわざ聖母マリアに触れて終わる、という文章のスタイルが毎度ながら気になる。もちろん教理的に神が一番なのだが、心情的には(本音としては)本当は聖母マリアのほうが親しく近い存在、ということなのだろうか。
別に他者の信仰の是非をここで云々しようというのではなくて、何というのか、そのある種の二重構造のようなものを、改めて考える必要があるのかもしれない、と思ったということだ。この手の信心にかかわる二重性が、どうも何というか、プロとアマ、玄人と素人、聖職者と信徒、おとなたちの神学的議論と、子ども扱いの信徒向けの説教、のようなダブルスタンダードとも見えるような「霊性」の形成方式に現れているように思われてしまう。この点は、今後もう少しきちんと考察しなくては、と思っている。
カトリック教会では9月1日が「創造の日」として、またアシジの聖フランチェスコの祝日である10月4日(あるいは直後の日曜日)が「創造のとき」として祝われているとのこと。キリスト教には、神がこの世界を創造し、特に人間は「神の似型」に創造されたという根本思想があるが、これを改めて想起する、というのがこの教書の内容である。
カトリック司教協議会は1988年に「我らの美しい大地に起こっていること」と題して環境問題についての声明を出している(本文の1998年は誤り)。
WHAT IS HAPPENING TO OUR BEAUTIFUL LAND - A Pastoral Letter on Ecology
ここでも改めて、昨今の災害、特に洪水とその背後にある森林伐採に触れるなど、生態的な危機状況を挙げる。また鉱山開発のもたらす汚染や遺伝子組み換えの潜在的危険性などにも議論が及ぶ。
これを踏まえ、教会は「回心」(conversion)を訴える。このために教区、小教区、教会基礎共同体、キリスト教学校、修道会など教会関連の諸団体の、環境教育、環境保全活動、持続可能な開発計画などが始められていることを挙げる。また、教会教派を超えたエコロジカルな提言がなされてきていることも指摘する。
また、これら祝祭に際しては、教会の典礼で世界の美しさと苦悩、人間が自然と不可分であること、社会正義を求める闘いが継続中であることに触れるよう求め、また環境保全のための働きを教会の各レベルで促進するよう訴えている。また、政府に対して、短期的な経済的利益を優先して長期的な生態的破壊をもたらすことのないよう呼びかけている。
最後に世界創造の父、世界の救済者である子イエス・キリスト、命を支える聖霊の三位一体の神への信仰を深めるよう訴えた上で、「命の母なる聖母マリア」の加護と大地の癒しを求めて終わる。
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フィリピンのカトリック教会は、特に森林の過剰伐採に対して、また近隣住民の生活環境への配慮を欠いた鉱業に対して、厳しく対峙してきた。この文書にも、そうした教会としてのコミットメントが確認されている。文章の全体的な簡潔さに、かえって各部門で地道な取り組みがなされてきたことが伺われる。
マスコミの中では、森林の(特に)違法伐採監視による保全努力は、比較的好意的に取り扱われてきたと思う。他方、鉱山開発に対する厳しい対応(環境問題及び地元への利益還元のなさ)については、主要紙は特に中間層・富裕層を対象とすることもあってか、投書欄や意見広告を通じて、産業振興、雇用創出を根拠とした開発推進論、また教会関係者を素人としてその干渉を批判する議論が繰り返し出されてきている。個人的には、過去に読んだいくつかの資料に基づいて、雇用創出効果は、特に地元への間限度は非常に限定されていると共に、鉱山開発に伴う汚染は明らかで、かつ住民への十分な補償がなされたためしがないという理解をしている。だから、カトリック教会の側が基本的に正当であると理解している。
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(おまけ)
プロテスタントの私は、どうしても、せっかく最後に三位一体の神にふれたあとに、わざわざ聖母マリアに触れて終わる、という文章のスタイルが毎度ながら気になる。もちろん教理的に神が一番なのだが、心情的には(本音としては)本当は聖母マリアのほうが親しく近い存在、ということなのだろうか。
別に他者の信仰の是非をここで云々しようというのではなくて、何というのか、そのある種の二重構造のようなものを、改めて考える必要があるのかもしれない、と思ったということだ。この手の信心にかかわる二重性が、どうも何というか、プロとアマ、玄人と素人、聖職者と信徒、おとなたちの神学的議論と、子ども扱いの信徒向けの説教、のようなダブルスタンダードとも見えるような「霊性」の形成方式に現れているように思われてしまう。この点は、今後もう少しきちんと考察しなくては、と思っている。
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