2019年12月27日金曜日

2019年のカトリック司教協議会の司牧声明のおさらい3

「共通善を追い求めよ」
Seek the Common Good(2019年1月28日付)

カトリック司教協議会の定例の全体会議(Plenary Assembly)から出された3つの声明の3つ目である。この声明は6月の中間選挙を前に、聖書を引いて「命と死の二者択一を前に、命を選ぶように」と勧めている。

具体的には信徒に対し、候補者についての識別を行い、私利よりも共通善を重んじる候補を選ぶよう勧め、また信徒たちの中から原理原則を大切にした党派政治への参加を訴えている。

また下院で承認された憲法改正案、特にその改選制限撤廃、政治王朝禁止条項の廃棄、外国企業による資源支配の危険などに反対し、また連邦制の提案についてもそのあいまいさ、また中間選挙の中止につながる可能性に懸念を示している。声明は昨年のCBCP声明を引いて、改憲するのであれば、人権、市民の政治参加、共通善の促進のためであるべきとし、現状の改憲案はその考えから外れている、として反対を表明している。またその同じ声明を引いて、改憲よりもむしろ、1987年憲法の徹底した遂行と1991年地方政府法の改正を行うべき、としている。

そしてフランシス教皇の声明を引いて、政治に積極的に関わるよう訴えている。

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ちなみに、カトリック司教協議会のStatementsのページには、このあと以下の5つの声明が挙げられている。CBCPとしての声明ではなく、あくまで個別の司教による声明ではあるが、CBCPのメンバーによるものとして挙げられている、という理解でよいのだろう。現在の議長バレスの前任者ビリェガスの時代に、彼のCBCP議長としてではなくリンガイェン=ダグパン大司教としての声明が掲載されるようになり、それに倣ったものだろうか。

Stop the killings! Defend life and rights! April 25, 2019
サン・カルロス司教アルミナサの声明

Don’t leave God when you vote April 28, 2019
リンガイェン=ダグパン大司教ビリェガスの声明

Concerned Christian Citizens for Good Governance May 6, 2019
カガヤン=デ=オロ大司教レデスマの声明

Prepare for the Elections May 9, 2019
マニラ補佐司教パビリョの声明

Pastoral Letter on Suicide July 3, 2019
カピス大司教アドビンクラの声明

2019年12月26日木曜日

2019年のカトリック司教協議会の司牧声明のおさらい2

「善をもって悪を征服せよ」
Conquering Evil with Good(2019年1月28日付)

ドゥテルテ大統領による度重なるキリスト教、カトリック教会に対する罵倒に対する応答。フランシス教皇の声明に沿って「沈黙は金」という姿勢できたが、事態を懸念する信徒たちの声に応えるべくこの声明を出した、とする。当時大きな反響を呼んだ声明である。

先ずは信教の自由の尊重を確認しつつ、特定の宗教の中核的な思想を中傷することは「信教の自由」という考えから逸脱している、と批判する。また人々が根本的な教理を理解していないことを挙げ、自分たちの力不足を反省すると共に、今後の課題としている。また聖職者の不祥事についての反省の弁も述べている。

次に、政府の進めてきたいわゆる「麻薬戦争」について、教会も違法薬物の蔓延を深刻な問題と考え、政府が断固たる対応を取ることを是認しているが、貧しい容疑者の安易な抹殺と麻薬の大元締めに対するぬるい対応が明らかとなってきており、これは是認できない、とする。教会がこのような批判をするのは、政府の政策に具体的に介入しようという意図ではなく、容疑者らの大量殺害をも辞さないやり方に対し、人間の生命の尊厳という宗教的、道徳的な価値を守る教会(指導者)の本来的な使命に基づくものである、と確認する。

関連して、未成年者の犯罪に対する厳罰化に反対し、むしろ彼らは大人たちの間違った教育や貧困、犯罪に巻き込まれた犠牲者として、教育・矯正の機会こそ重要であるとする。

最後に声明は、厳罰主義よりも憐みに基づくことこそ本当の文明的なあり方であり、特に新約聖書に示された、善をもって悪を克服するという思想を実践に移すことこそが重要である、という考察を示して終わる。

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人々がキリスト教的な考えに基づいて社会を築いていこうとしていないことについて、いつも通り反省の弁を述べているが、
1)自分たちの教え方が足りないとし、教えの中身に問題がないかどうかは問うていない。
2)どうやって現状を改めるかが示されていない。
3)司教は教える人たち、信徒たちが実践者という既に示されてきている分業が暗示されており、それが「教え」に重点が置かれる根拠となっている。
4)その「教え」がかなり思弁的である。フィリピン社会が「文明的」であるために、という目標を、いったい市井のフィリピン人のどれだけの人たちが共有できるのだろう。そして、最後の方で力説される、次のような言葉を理解できる人がどれだけいるだろうか―それにたとえ反論できないとしても(その結果、司教様のありがたいお言葉、という評価になるとしても)、共感するには「高尚すぎる」というか地に足がついていないのではないか。

「我々(司教)は、信徒たちが彼らの良心を人生の複雑な諸問題に適用するに際して教育する必要がある。それは指導者を選ぶことについて、市民としての召命の行使において、家族の養育において、仕事と職業において、環境に配慮する努力において、等である。私たちの信仰は、これらの生における様々な側面を一つの総合的全体へと統合すべく努めなくてはならない。それは良心をしてその知恵を人生のあらゆる側面において語らしめるということである」

今読んでいる細田尚美『幸運を探すフィリピンの移民たち』に現れる、複数の規範の緊張の中、生存戦略や生活環境、人間関係の中でその都度あれこれ組み合わせながら生き抜いていこうとしている庶民の体系化されない道徳意識の素朴な分かりやすさとのあまりの乖離にめまいがする。

カトリック教会はこういう主張をずっと続けてきているけれども、一向にわかりやすい説明になっていかない。わかってもらおうと本気で考えているのか?という点は、私自身、著書で問うてきたことでもある。人々との多くの接点を持ち、情報を収集してきた教会はもちろん、現実に具体的に何が起こっているかの情報を持っているはずだ。しかし、それらの問題に向き合って具体的にすべきことを増やそうとする代わりに、具体的なレベルに落とし込みが難しい高尚な教えを垂れ続けることに、引き続き力を入れているように見える。

2019年のカトリック司教協議会の司牧声明のおさらい1

「ホロ大聖堂爆破事件に関するCBCPの声明」
Message of CBCP on the Jolo Bombing of the Our Lady of Mt. Carmel Cathedral (2019年1月27日付)
http://cbcponline.net/message-of-cbcp-on-the-jolo-bombing-of-the-our-lady-of-mt-carmel-cathedral/

先ずホロ大聖堂でのミサ中の爆発事件についての声明。死傷者及び当地の教会関係者に哀悼の意を表明している。

またミンダナオ和平のためのバンサモロ組織法の可否をめぐる住民投票を直前に控えたこのようなテロ行為を非難している。

そしてバンサモロ自治地域(Bangsamoro Autonomous Region in Muslim Mindanao (BARRM))の設置によってもたらされた和平のプロセスの新しい段階に際して、キリスト教徒が平和を志向するイスラム教徒、原住民(ルマド)と連帯するよう求めている。

平和を希求する諸宗教の力が、和平を求めるミンダナオの人々の導き手となるよう祈念して終わっている。

2016年5月28日土曜日

CBCP on Anti-Discrimination Law, Same Sex Marriage, etc

In response to US SC decision to allow same-sex marriage (2015/06-7)
CBCP on gay marriage ruling: Church cares for all
CBCP stands firm against gay marriage
CBCP and same-sex marriage

CBCP attitude on Anti-Discrimination Law.(2015/08)
Villegas reiterates stand on homosexual marriage
CBCP urges followers to oppose same-sex marriage
Catholic bishops urge followers to oppose same-sex marriage
Catholics urged to reject same-sex marriage
Pinoy Catholics urged to boycott same-sex weddings
Catholics urged to reject same-sex marriage


Paquiao discriminatory statements(2016/02)
CBCP exec defends Pacquiao on gay stance
CBCP defends Pacquiao on gay marriage stance
CBCP official: LGBTs deserve respect

From Church people and documents
Same Sex ‘Marriage’
CBCP calls same-sex marriage an 'injustice'
What CBCP has to say about US SC's ruling on same-sex marriage
A Pastoral Response to the Acceptance of Homosexual Lifestyle And the Legalization of Homosexual UnionsAugust 28, 2015
Sex change unnecessary – prelate, August 30, 2015

Vatican Documents
CONGREGATION FOR THE DOCTRINE OF THE FAITH: LETTER TO THE BISHOPS OF THE CATHOLIC CHURCH ON THE PASTORAL CARE OF HOMOSEXUAL PERSONS
Catechism of the Catholic Church
PART THREE LIFE IN CHRIST / SECTION TWO THE TEN COMMANDMENTS / CHAPTER TWO "YOU SHALL LOVE YOUR NEIGHBOR AS YOURSELF" / ARTICLE 6 THE SIXTH COMMANDMENT

United States Conference of Catholic Bishops - Referential Links
Church Teaching On Marriage

2016年5月10日火曜日

CBCP News' reportage and statements on 2016 election

カトリック司教協議会のホームページに掲載された2016年選挙関連のニュース記事を、のちの分析材料を整理しやすくする目的を兼ねて、徐々にリスト化しています。
Let me list them first for further analyses.

1. Statements

WISE AS SERPENTS, INNOCENT AS DOVES (December 30, 2015)
Lord guide us with your grace (March 31, 2016)
Prophets of truth, servants of unity (May 1, 2016)
Archdiocese of Cotabato: Circular Letter on the 2016 Elections (May 2, 2016)
Archdiocese of Cagayan de Oro: A Matter of Conscience (3 May 2016)
Get up, Let us go! (May 9, 2016)
邦訳付:「立て、行こう」フィリピンのカトリック司教協議会、大統領選を受け声明


2. News


May 4
Vote wisely lest ‘dark days’ return, says archbishop


May 5
Bloc votes, a myth?
Voters urged: Choose ‘candidates of conscience’
Archbishop leads 10k marchers vs. coal plants


May 6
Don’t waste ‘blessing’ of votes, says Cardinal Tagle
Priest favors 4Ps evaluation before expansion
Catholics urged to light candles for elections


May 7
Voters urged: Vote for pro-peace bets


May 8
Let’s ‘think Christ’ on election day – Church communicators


May 9
Environmentalists: Vote for a ‘healer in chief’
What exactly does PPCRV do?VCM malfunctions plague Palo polls


May 10
New vote-buying modus operandi?
Priest slams 2016 polls’ ‘corruption culture
Key to ‘clean polls’ lies in family
CBCP’s vow to new officials: Church’s collaboration
PPCRV volunteer killed in Pagadian
Bishop to Pinoys: Be assured, God loves PH
Free to vote: Voting behind bars
Only 1 of 3 priests turned-politicians wins election bid


May 13
Next admin told: Investigate unused ‘Yolanda’ funds

June 6
Archbishop Soc opts for ‘virtue of silence’ over Duterte blast

2015年8月3日月曜日

Friarという言葉

教会についての研究をしているとFriarという言葉が出てくる。フィリピン研究ではこれまで「修道会士」と訳されている。ところが、フィリピン史のテキストを読んでいると、修道会でもfriarでないもの、というのが出てきて混乱したことがあったが、先延ばしにしていた。

今日なぜか、ふとちょっとは調べてみないとと思い、Google先生にお伺い。するとカトリック系のサイトで少し理解。

修道会でも、まずmonkは基本的に修道院内で修道するが、friarは修道院を根城としつつ地域における宣教と社会活動を行う。つまりfriarは「托鉢修道会」ということになるのかな。

ところが調べてみると、イエズス会の名がfriarの中に出てこない。そこで検索語を変えていろいろ見てみると、やはりイエズス会はfriarではない、とあった。イエズス会の場合は、特定の修道院に居住しなくてもよいからだ、という。

フィリピンのカトリック研究を始めて20年近くなるが、まだまだ修行が足りない。やはり知らないことを地道に調べる謙虚さが弱いのかな、と反省した次第。それにしても、長い歴史を反映してか、カトリックはプロテスタントに比べてとても複雑に感じる。

それは恐らく、プロテスタントの場合、違いが生じると分派して外生化していくのに対して、カトリックの場合ひとつであることが大事なので、許容できれば共存し統合して行こうとするからもあるのだろう。とにかく、外部者として、謙虚に学ぶしかないと思う。

2015年7月26日日曜日

CBCP議長による「乾いたカトリック」という理解

カトリック司教協議会のビリェガス議長(リンガイェン=ダグパン大司教)が、今では「乾いたカトリック」が、カトリックに次ぐ二番目の主流宗教である、と発言した、と報じられている。

*(補足7月27日)ただ、記事を読み返すと、本当にタイトルにあるように「カトリックに次ぐ2番目」と言ったのかどうかは疑問に付してもいいかもしれない。引用されているのは、どんな⁽カトリックでない⁾宗教よりも多い、という言い方である。記事を読む限り、これらの人々はカトリック内部の人たちで、ケアすべき人たちだ、という扱いである。もしそうであれば、この記事を書いた人の理解がゆがんでいるか、あるいはカトリックを殊更に少なく見せようとする悪意があるのか、であろう。とはいえ、カトリックのカラーの強いPhilippine Star紙にそういう記事が載るということ自体も興味深い。

‘Dry Catholics’ now second predominant religion in Philippines

乾いたカトリック(dry Catholics)の定義は、予想通り、教会にとって好ましくない人たちを総括した、分析性を欠くレッテルに近いものである。曰く、「冷たく、傷ついた、懐疑的な人々で、カトリック教会を去って他の宗教に加わった人々(those who are cold, hurting, skeptics and those who left the Catholic church to join other religions)」とある(補足7月27日:但し、攻撃的な意図ではなく、文脈的には不幸な仲間をどういたわり引き戻すか、という話の中にある)。そしてそれらの人たちが、カトリック以外のどんな宗教よりも多いと言う。

他宗教に移った人々が定義の中にありながら他宗教と数を比較するという基本的な矛盾は別として、それ以外に三つほどコメントしたい。

1.そもそも、こういう人たちは果たして、「カトリックに次ぐ2番目」なのか。もしかすると、定義の適用範囲では、一番なのかもしれない。カトリック教会が反対したRH法案への国民の広範な支持に対し、ビリェガス議長は厳しい発言をしてきた。だとすれば、そちらの方が数が多いのかもしれないとは考えないのだろうか。(補足7月27日:上記の通り、これはビリェガス議長の問題ではないかもしれない)

2.乾いた、と言うが、それは一方的ではないか。そういわれる人たちの中には、むしろ自分たちこそ人間的で、カトリック教会の指導者たちこそ乾いている、と考える人たちも少なくないのではないか。彼らの中には、自分たちこそカトリックを潤しているのだ、と考えている人たちも少なくないのではないだろうか。
*(補足7月27日)但し、ビリェガス議長はこれを非難しているというよりも、彼らは傷つき冷えて乾いてしまっているのだから、その痛みを癒してあげましょう、という優しいトーンではある。しかしそれもまた、一方的な決めつけではないかともいえるし、ある種のパターナリズムではないかとも考える。

3.仮にこれを受け入れるとして、それは、これらの「乾いたカトリック」の人たちを、教会が「乾いたまま」あるいは「カトリックのまま」にしたことを意味するのではないか。控えめに言って、これは教会のミニストリーに重大な問題があったことを示唆するはずのものであるが、その点に触れられていない。(補足7月27日:むしろ問題は「福音よりもカトリック信仰への反対論を知らされていたり、貧しい人たちで教会など富者のものだと思っていたり、以前はカトリックだったが幻滅して神のことなど話したくないという人たち」を作り出した状況、ということのようである)むしろこの記事でも、カトリックの既婚者たちに、教会に幻滅した人々に手を差し伸べるよう勧めている。それ自体は問題ではないが、それにとどまり、教会の指導者たちが問われるものの方が大きい、という発想ははっきりとは示されない。ビリェガス議長が考える教会の司牧というものの特徴の一端が示されているように思える。
*(補足7月27日) カトリック教会はこれまで「社会全体の世俗化の進行があり、それによって多くの人々が伝統的な信仰から疎外されている」という分析をしてきた。ここでそういう理解が継承されているかどうかは断言できないが、「乾いたカトリック」のような理解、表現はそうしたこれまで築かれてきた理解と響きあう。つまりカトリック信徒の中から「乾いた」人たちが出てくるのは世俗化の犠牲になったという理解であって、彼らの主体的な生き方とは理解されない。そもそも「福音を知らされていない人」を「カトリック」とみなし続けていること自体が、こういうカテゴリーを生んでいるようにも見える。つまりこういう人たちがいる、というよりも、教会から疎外されている様々の人々を、こういうふうにまとめてしまっている、ということだろう。しかし、これで本当に、司牧者の人々への理解は進むのだろうか。

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ちなみに、この件に関して、カトリック司教協議会のサイトには、当日の会合についての記事はあったが、上記の点についての紹介はなかった。むしろ、キリストが示した謙卑に倣って謙遜に宣教すべきであり、雄弁さや組織能力などに頼るべきではない、と語った点が紹介されている。というわけで、今のところ十分なクロスチェックができないままだ。刺激的な題の記事に素直に乗ってしまって記事を書いたことについて、自戒したいと思うので、元の記事を残し、補足をした次第である。
Humility key to effective evangelization – CBCP president