2015年7月26日日曜日

CBCP議長による「乾いたカトリック」という理解

カトリック司教協議会のビリェガス議長(リンガイェン=ダグパン大司教)が、今では「乾いたカトリック」が、カトリックに次ぐ二番目の主流宗教である、と発言した、と報じられている。

*(補足7月27日)ただ、記事を読み返すと、本当にタイトルにあるように「カトリックに次ぐ2番目」と言ったのかどうかは疑問に付してもいいかもしれない。引用されているのは、どんな⁽カトリックでない⁾宗教よりも多い、という言い方である。記事を読む限り、これらの人々はカトリック内部の人たちで、ケアすべき人たちだ、という扱いである。もしそうであれば、この記事を書いた人の理解がゆがんでいるか、あるいはカトリックを殊更に少なく見せようとする悪意があるのか、であろう。とはいえ、カトリックのカラーの強いPhilippine Star紙にそういう記事が載るということ自体も興味深い。

‘Dry Catholics’ now second predominant religion in Philippines

乾いたカトリック(dry Catholics)の定義は、予想通り、教会にとって好ましくない人たちを総括した、分析性を欠くレッテルに近いものである。曰く、「冷たく、傷ついた、懐疑的な人々で、カトリック教会を去って他の宗教に加わった人々(those who are cold, hurting, skeptics and those who left the Catholic church to join other religions)」とある(補足7月27日:但し、攻撃的な意図ではなく、文脈的には不幸な仲間をどういたわり引き戻すか、という話の中にある)。そしてそれらの人たちが、カトリック以外のどんな宗教よりも多いと言う。

他宗教に移った人々が定義の中にありながら他宗教と数を比較するという基本的な矛盾は別として、それ以外に三つほどコメントしたい。

1.そもそも、こういう人たちは果たして、「カトリックに次ぐ2番目」なのか。もしかすると、定義の適用範囲では、一番なのかもしれない。カトリック教会が反対したRH法案への国民の広範な支持に対し、ビリェガス議長は厳しい発言をしてきた。だとすれば、そちらの方が数が多いのかもしれないとは考えないのだろうか。(補足7月27日:上記の通り、これはビリェガス議長の問題ではないかもしれない)

2.乾いた、と言うが、それは一方的ではないか。そういわれる人たちの中には、むしろ自分たちこそ人間的で、カトリック教会の指導者たちこそ乾いている、と考える人たちも少なくないのではないか。彼らの中には、自分たちこそカトリックを潤しているのだ、と考えている人たちも少なくないのではないだろうか。
*(補足7月27日)但し、ビリェガス議長はこれを非難しているというよりも、彼らは傷つき冷えて乾いてしまっているのだから、その痛みを癒してあげましょう、という優しいトーンではある。しかしそれもまた、一方的な決めつけではないかともいえるし、ある種のパターナリズムではないかとも考える。

3.仮にこれを受け入れるとして、それは、これらの「乾いたカトリック」の人たちを、教会が「乾いたまま」あるいは「カトリックのまま」にしたことを意味するのではないか。控えめに言って、これは教会のミニストリーに重大な問題があったことを示唆するはずのものであるが、その点に触れられていない。(補足7月27日:むしろ問題は「福音よりもカトリック信仰への反対論を知らされていたり、貧しい人たちで教会など富者のものだと思っていたり、以前はカトリックだったが幻滅して神のことなど話したくないという人たち」を作り出した状況、ということのようである)むしろこの記事でも、カトリックの既婚者たちに、教会に幻滅した人々に手を差し伸べるよう勧めている。それ自体は問題ではないが、それにとどまり、教会の指導者たちが問われるものの方が大きい、という発想ははっきりとは示されない。ビリェガス議長が考える教会の司牧というものの特徴の一端が示されているように思える。
*(補足7月27日) カトリック教会はこれまで「社会全体の世俗化の進行があり、それによって多くの人々が伝統的な信仰から疎外されている」という分析をしてきた。ここでそういう理解が継承されているかどうかは断言できないが、「乾いたカトリック」のような理解、表現はそうしたこれまで築かれてきた理解と響きあう。つまりカトリック信徒の中から「乾いた」人たちが出てくるのは世俗化の犠牲になったという理解であって、彼らの主体的な生き方とは理解されない。そもそも「福音を知らされていない人」を「カトリック」とみなし続けていること自体が、こういうカテゴリーを生んでいるようにも見える。つまりこういう人たちがいる、というよりも、教会から疎外されている様々の人々を、こういうふうにまとめてしまっている、ということだろう。しかし、これで本当に、司牧者の人々への理解は進むのだろうか。

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ちなみに、この件に関して、カトリック司教協議会のサイトには、当日の会合についての記事はあったが、上記の点についての紹介はなかった。むしろ、キリストが示した謙卑に倣って謙遜に宣教すべきであり、雄弁さや組織能力などに頼るべきではない、と語った点が紹介されている。というわけで、今のところ十分なクロスチェックができないままだ。刺激的な題の記事に素直に乗ってしまって記事を書いたことについて、自戒したいと思うので、元の記事を残し、補足をした次第である。
Humility key to effective evangelization – CBCP president

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