2015年7月13日月曜日

CBCP司牧声明「ルイシタ農園:希望を表現する場として」 2005年3月20日

2005年1月23日の司牧声明「善をもって悪に打ち勝て」において既に言及されていた、コファンコ家所有のルイシタ農園をめぐる農地改革を求める争議に関する 声明である。ストライキに対する農園側の暴力的排除によって数名の犠牲者が出たことに対する応答の形で、立場の表明がなされている。

ルイシタ農園においては、受益農民に土地分配するのではなく、株式の分配という方法によって解決が図られたが、実際に進めてみると農民たちは十分な収入を得られず、しかも農園側による農業労働者の取り込み・分断策が進められたり、待遇の改善を求める運動やストライキ等に対する暴力的な対応が長らく問題となってきた。コファンコ家はコラソン・アキノ元大統領やベニグノ・アキノ3世大統領(2015年時点で現大統領)の親戚筋であり、農地改革の進展の試金石とされてきたが、現在に至るまで問題解決とは言い難い状況が続いている。

Hacienda Luisita: Theatre of Hope

この文書には、カトリック司教協議会が労使の仲介役として積極的な役割を果たしていることが記されている。

この文書で注目されるのは、1940-50年代の農村不安に関する解釈である。当時カトリック教会は反共産主義の志向が強く、中部ルソン地域で広がった農村不安と「フク団」による反乱に対しては共産主義者の陰謀という否定的な評価を下していた。しかしこの文書においてはそれとはまったく異なる解釈が示されている。この文書は、当時の社会の状況を「真の農地改革を通しての経済的構成を拒絶した不公正な家父長主義的社会システム」と呼んで糾弾している。そして、1940年代後半のロハス政権期に軍や警察による無秩序な破壊、暴力、収奪、殺戮が、人々を反乱へと追いやった、と指摘している。こうした理解はBenedict KerkvlietのセミクラシックであるHuk's Rebellionに生々しく記録されている通りであり、カトリック教会が、かつての権威主義的、エリート主義的な社会観から、無辜の庶民の苦しみに寄り添う側に立とうとする社会観に移ろうと努力していることがはっきり読み取れる。「多くの労働者が重債務の悪循環に陥り、土地取得の可能性を閉ざされているようなシステムは、何かが間違っているのだ」とも言明している。

1990年代にカトリック教会は、一連の社会教説に関する公文書の発行を通じて、教会の社会改革に対するコミットメントの一般的な表明がなされてきたが、現場レベルでは特に1970年代の解放の神学の影響を受けた活動が現在まで続いているものの(この文書でも1968年の農村会議とそこでの声明まで、農地改革への司教協議会のコミットメントに関する起源をさかのぼってはいるが)、司教協議会のレベルでここまで具体的に全面的に、教会がはっきりと立ち位置を苦境にある農民の側に置く形で声明がなされたのは、これが初めてではないかと思われる。

無論、教会はこれまで通り、反乱ではなく平和を求めている。ただ、その前提として、過去の反乱には一定の理由と正統性があったことを認め、同様の展開で流血の事態が広がることを防ぐためには、不正を糺さなければならないことを強調しており、単純に争いは嫌だ、平和がいい、というこれまで教会の文書にしばしば伺われた態度とは一線を画すものとなっている。そして、労使間の信頼と対話の醸成のために政府の関与が不可欠である、と主張する。特にストライキを支援した主要人物の暗殺について捜査が進むことが必要と訴えている。

タイトルに用いられたtheaterという言葉(この記事では「表現する場」と意訳してみた)は、農園の争議がニュースで注目され、そこには労使に加えて教会関係者や左翼活動家たちがいわば舞台に挙がっていて注目されていることを表している。但しこの「劇場」では暴力のシナリオを描く者たちもいるが、教会は平和のシナリオを目指すとする。それは「キリストのシナリオ」であり「平和と正義の地平、命と愛の新たなる文明を開く」といい、教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉を引いて、暴力によっては守ろうとしているものを破壊してしまう、と主張する。

教会は労使の仲介者として、両者が兄弟的に対話し、現実的な解決策と信頼関係を一歩一歩醸成するよう支援するアプローチをとるとしている。これがルイシタ農園をめぐる状況への対応としてどの程度現実的なのかは意見が分かれそうではある。

とはいえ、司教協議会は無論、自分たちがこの複雑な問題に対し、特別な解決能力を持っているわけではなく、あくまで仲介役としてできることをするのだ、と自分たちの立場について控えめな評価に努めている。

最後に、この厳しい情勢の中でも司教たちはなお対話の余地が残っていることを現場で感じていることを述べ、楽観をもって進める姿勢を確認して終えている。

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