2015年7月9日木曜日

これからの研究の方向性(備忘録を兼ねて)

本当に久しぶりになってしまいました。ただ、これからはまたここを活用して研究作業を記録して行こうと思いなおしました。今なりの決意をFacebookに書いたものに少し手を加えた再録してみます。

* * *

博士論文を仕上げて以来の今一つ前に進めないままの試行錯誤に一区切り付きそうな感じになってきた、といい始めて数年、授業準備のために社会学概論を読むうちに、やっと整理出来てきた。どうも私は「歴史社会学」をしてきたと言えそうで、理解の仕方にもよるが、広い意味での歴史社会学には、

1)社会史(社会の歴史学)
2)狭い意味での歴史社会学(歴史を資料に社会を解明する学)
3)歴史解釈、記念、追悼(そしてアイデンティティ形成)の社会学(いわゆる「歴史の社会学」)

があり、自分は主に3)に関わる仕事をしようとしてきたというふうに整理するようになった。

そして歴史学者でないのにどうにも歴史に固執し、それ故に歴史研究に関わるよう周囲からも時に期待されてしまう状況がうまく整理できなかったのが、ちょっとすっきりした。多分私は、社会学的に歴史を見ようとしてきたのだろう。このことは、先のフィリピン研究会全国フォーラムで、フィリピンの教会史家シューマッカーについて整理・紹介してほしいと言ってくれたTさん、20世紀前半のフィリピン史を検討するに際しキリスト教アイデンティティの問題が欠落しているのではないか、と問題提起してくれたUさんのおかげ、というところが大きいと思う。大いに感謝したいし、当日は「僕は当面は社会学で行くことにしたから、歴史はしばらくお預け」というように言っていたかもしれないけれども、むしろ積極的に私なりの研究的応答として引き受けさせていただければと願っている(少なくとも今のところは…)。

ただ、メインテーマは、今年レガスピ到来から450年、あと6年でマゼラン到来から500年という中で、一連の記念行事を積み重ねていこうとしているフィリピン教会の歴史の記念の仕方というものを当面は見つめて行こうと思っている。キリスト教はその中核に「記念/想起するanamnesis」を抱えもってきており、私は特に神学的なテーマにする力はないけれど、社会学的なアプローチをとってもそういうものとも重なっていると思う。

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