2015年8月3日月曜日

Friarという言葉

教会についての研究をしているとFriarという言葉が出てくる。フィリピン研究ではこれまで「修道会士」と訳されている。ところが、フィリピン史のテキストを読んでいると、修道会でもfriarでないもの、というのが出てきて混乱したことがあったが、先延ばしにしていた。

今日なぜか、ふとちょっとは調べてみないとと思い、Google先生にお伺い。するとカトリック系のサイトで少し理解。

修道会でも、まずmonkは基本的に修道院内で修道するが、friarは修道院を根城としつつ地域における宣教と社会活動を行う。つまりfriarは「托鉢修道会」ということになるのかな。

ところが調べてみると、イエズス会の名がfriarの中に出てこない。そこで検索語を変えていろいろ見てみると、やはりイエズス会はfriarではない、とあった。イエズス会の場合は、特定の修道院に居住しなくてもよいからだ、という。

フィリピンのカトリック研究を始めて20年近くなるが、まだまだ修行が足りない。やはり知らないことを地道に調べる謙虚さが弱いのかな、と反省した次第。それにしても、長い歴史を反映してか、カトリックはプロテスタントに比べてとても複雑に感じる。

それは恐らく、プロテスタントの場合、違いが生じると分派して外生化していくのに対して、カトリックの場合ひとつであることが大事なので、許容できれば共存し統合して行こうとするからもあるのだろう。とにかく、外部者として、謙虚に学ぶしかないと思う。

2015年7月26日日曜日

CBCP議長による「乾いたカトリック」という理解

カトリック司教協議会のビリェガス議長(リンガイェン=ダグパン大司教)が、今では「乾いたカトリック」が、カトリックに次ぐ二番目の主流宗教である、と発言した、と報じられている。

*(補足7月27日)ただ、記事を読み返すと、本当にタイトルにあるように「カトリックに次ぐ2番目」と言ったのかどうかは疑問に付してもいいかもしれない。引用されているのは、どんな⁽カトリックでない⁾宗教よりも多い、という言い方である。記事を読む限り、これらの人々はカトリック内部の人たちで、ケアすべき人たちだ、という扱いである。もしそうであれば、この記事を書いた人の理解がゆがんでいるか、あるいはカトリックを殊更に少なく見せようとする悪意があるのか、であろう。とはいえ、カトリックのカラーの強いPhilippine Star紙にそういう記事が載るということ自体も興味深い。

‘Dry Catholics’ now second predominant religion in Philippines

乾いたカトリック(dry Catholics)の定義は、予想通り、教会にとって好ましくない人たちを総括した、分析性を欠くレッテルに近いものである。曰く、「冷たく、傷ついた、懐疑的な人々で、カトリック教会を去って他の宗教に加わった人々(those who are cold, hurting, skeptics and those who left the Catholic church to join other religions)」とある(補足7月27日:但し、攻撃的な意図ではなく、文脈的には不幸な仲間をどういたわり引き戻すか、という話の中にある)。そしてそれらの人たちが、カトリック以外のどんな宗教よりも多いと言う。

他宗教に移った人々が定義の中にありながら他宗教と数を比較するという基本的な矛盾は別として、それ以外に三つほどコメントしたい。

1.そもそも、こういう人たちは果たして、「カトリックに次ぐ2番目」なのか。もしかすると、定義の適用範囲では、一番なのかもしれない。カトリック教会が反対したRH法案への国民の広範な支持に対し、ビリェガス議長は厳しい発言をしてきた。だとすれば、そちらの方が数が多いのかもしれないとは考えないのだろうか。(補足7月27日:上記の通り、これはビリェガス議長の問題ではないかもしれない)

2.乾いた、と言うが、それは一方的ではないか。そういわれる人たちの中には、むしろ自分たちこそ人間的で、カトリック教会の指導者たちこそ乾いている、と考える人たちも少なくないのではないか。彼らの中には、自分たちこそカトリックを潤しているのだ、と考えている人たちも少なくないのではないだろうか。
*(補足7月27日)但し、ビリェガス議長はこれを非難しているというよりも、彼らは傷つき冷えて乾いてしまっているのだから、その痛みを癒してあげましょう、という優しいトーンではある。しかしそれもまた、一方的な決めつけではないかともいえるし、ある種のパターナリズムではないかとも考える。

3.仮にこれを受け入れるとして、それは、これらの「乾いたカトリック」の人たちを、教会が「乾いたまま」あるいは「カトリックのまま」にしたことを意味するのではないか。控えめに言って、これは教会のミニストリーに重大な問題があったことを示唆するはずのものであるが、その点に触れられていない。(補足7月27日:むしろ問題は「福音よりもカトリック信仰への反対論を知らされていたり、貧しい人たちで教会など富者のものだと思っていたり、以前はカトリックだったが幻滅して神のことなど話したくないという人たち」を作り出した状況、ということのようである)むしろこの記事でも、カトリックの既婚者たちに、教会に幻滅した人々に手を差し伸べるよう勧めている。それ自体は問題ではないが、それにとどまり、教会の指導者たちが問われるものの方が大きい、という発想ははっきりとは示されない。ビリェガス議長が考える教会の司牧というものの特徴の一端が示されているように思える。
*(補足7月27日) カトリック教会はこれまで「社会全体の世俗化の進行があり、それによって多くの人々が伝統的な信仰から疎外されている」という分析をしてきた。ここでそういう理解が継承されているかどうかは断言できないが、「乾いたカトリック」のような理解、表現はそうしたこれまで築かれてきた理解と響きあう。つまりカトリック信徒の中から「乾いた」人たちが出てくるのは世俗化の犠牲になったという理解であって、彼らの主体的な生き方とは理解されない。そもそも「福音を知らされていない人」を「カトリック」とみなし続けていること自体が、こういうカテゴリーを生んでいるようにも見える。つまりこういう人たちがいる、というよりも、教会から疎外されている様々の人々を、こういうふうにまとめてしまっている、ということだろう。しかし、これで本当に、司牧者の人々への理解は進むのだろうか。

***

ちなみに、この件に関して、カトリック司教協議会のサイトには、当日の会合についての記事はあったが、上記の点についての紹介はなかった。むしろ、キリストが示した謙卑に倣って謙遜に宣教すべきであり、雄弁さや組織能力などに頼るべきではない、と語った点が紹介されている。というわけで、今のところ十分なクロスチェックができないままだ。刺激的な題の記事に素直に乗ってしまって記事を書いたことについて、自戒したいと思うので、元の記事を残し、補足をした次第である。
Humility key to effective evangelization – CBCP president

2015年7月21日火曜日

Philippine Daily Inquirer紙の連載記事による教会への挑戦

今朝インターネットでPhilippine Daily Inquirerをチェックしていて、Denis MurphyのToo late for a ‘Church of the Poor’?に気付いた。この記事に出ている、フィリピンのカトリック教会は1991年の教会会議で「貧しい者たちの教会」になると宣言したものの、10年後の再検証会議で「うまく進んでいない」との結論を出した点については、私の研究でも折に触れて言及してきたので、タイトルからして興味を持って読んだ。

この記事を書く際に参照したというのが、バカニ司教による以下の記事である。
"CHURCH OF THE POOR": THE CHURCH IN THE PHILIPPINES' RECEPTION OF VATICAN II By Teodoro C. Bacani, Jr.
この記事はアテネオ・デ・マニラ大学内にあるEast Asian Pastoral Instituteが発行している学術雑誌に掲載されたものである。以前コピーして保存したと思うのだが、まだ読んでいなかったと思う。

もう10年前の記事であり、未読なのは恥ずかしい(のでできるだけ早く読んでおくことにしたい)が、同時に10年もたって新聞記事になることから伺われるように、この10年、教会の「貧しい者たちの教会」というアイデンティティをめぐる状況については、基本的なことはあまり変わっていない様子なのも確かである。

新聞記事の方は、新しい教皇によるきわめて積極的な社会改革へのコミットメントの方向に触発されて書かれた、ということで、今のタイミングでもあるのだろう。貧困問題に取り組む市民運動の立場から、フィリピン社会の深刻な問題の改革のために、カトリック教会、特に聖職者が、迫害や犠牲を恐れずに貧しく虐げられている人々の側に大胆に立つことを求めている。

バカニ司教の記事を引いたことのポイントとしてはふたつあると読んだ。

1)1991年の教会会議における目標が、そもそも「貧しい人々の教会」といいつつ実際には、豊かな人々が形成してきた教会に貧しい人々も参加できるようにし、両者の和解の場とする、そこで貧しい人たちが教会を自分たちの教会だ、と思えるようにする、というものだった(若干私なりの公文書の理解に基づいて説明を補った)。しかし、「貧しい人たちの教会」という時に元となるラテンアメリカの教会のモデル、あるいは解放の神学のモデルは、そのようなものではなかった(つまり、雑駁に言えば、貧しい人たちの中に入って行って、彼らの教会を建てる、ということだった)、という指摘である。つまり、目標自体に問題があった、ということである。

2)ただ、その目標であれある程度達成されれば違った結果になるかもしれない、との言及もある。目標設定の問題だけではなくて、目標が達成されていないこと自体も、著者は問題としていると読めた。

いずれも私なりに議論してきた論点に近いと思う。

これとのかかわりで、2005年以降のカトリック教会で注目されるのは、農地改革などの問題へのより深いかかわりだと思う。教会の高位聖職者が実際に抱える管理上の様々の仕事を考えれば、彼らが、以前よく用いられた言い方で言えば、「貧しい者たちの教会」ならぬ「貧しい者たちのための教会Church for the poor」としてはかなり努力している姿が見えるということは言える。

また、部分的には新教皇の影響もあるかもしれないが、司教協議会内の世代交代の進展で、かつての権威主義の残存が弱まりつつある兆しを教会関連の新聞記事や司教協議会のウェブサイトの記事などからも読み取れる。

ただ、「貧しい者たちの教会」というビジョンは、かなりラディカルなものであるし、それだけではなく、カトリック教会のヒエラルキーの構造、その資産や維持費用なども含めて考えると、かなりハードルの高いことであると考えられる。他方で、かつて解放の神学的な方向性に対する強い警戒があったのは、司教たちによる管轄権が危ぶまれるという問題(特にその問題はミンダナオで大きく、教会による左派の抑圧につながった)の他に、冷戦の文脈で共産主義の浸透という大きな課題があった。それは現在ではかつてほどではないはずだから、今一度、この高い目標に近づこうとする機会ではあるのかもしれない。注視していきたい。

2015年7月13日月曜日

CBCP司牧声明「ルイシタ農園:希望を表現する場として」 2005年3月20日

2005年1月23日の司牧声明「善をもって悪に打ち勝て」において既に言及されていた、コファンコ家所有のルイシタ農園をめぐる農地改革を求める争議に関する 声明である。ストライキに対する農園側の暴力的排除によって数名の犠牲者が出たことに対する応答の形で、立場の表明がなされている。

ルイシタ農園においては、受益農民に土地分配するのではなく、株式の分配という方法によって解決が図られたが、実際に進めてみると農民たちは十分な収入を得られず、しかも農園側による農業労働者の取り込み・分断策が進められたり、待遇の改善を求める運動やストライキ等に対する暴力的な対応が長らく問題となってきた。コファンコ家はコラソン・アキノ元大統領やベニグノ・アキノ3世大統領(2015年時点で現大統領)の親戚筋であり、農地改革の進展の試金石とされてきたが、現在に至るまで問題解決とは言い難い状況が続いている。

Hacienda Luisita: Theatre of Hope

この文書には、カトリック司教協議会が労使の仲介役として積極的な役割を果たしていることが記されている。

この文書で注目されるのは、1940-50年代の農村不安に関する解釈である。当時カトリック教会は反共産主義の志向が強く、中部ルソン地域で広がった農村不安と「フク団」による反乱に対しては共産主義者の陰謀という否定的な評価を下していた。しかしこの文書においてはそれとはまったく異なる解釈が示されている。この文書は、当時の社会の状況を「真の農地改革を通しての経済的構成を拒絶した不公正な家父長主義的社会システム」と呼んで糾弾している。そして、1940年代後半のロハス政権期に軍や警察による無秩序な破壊、暴力、収奪、殺戮が、人々を反乱へと追いやった、と指摘している。こうした理解はBenedict KerkvlietのセミクラシックであるHuk's Rebellionに生々しく記録されている通りであり、カトリック教会が、かつての権威主義的、エリート主義的な社会観から、無辜の庶民の苦しみに寄り添う側に立とうとする社会観に移ろうと努力していることがはっきり読み取れる。「多くの労働者が重債務の悪循環に陥り、土地取得の可能性を閉ざされているようなシステムは、何かが間違っているのだ」とも言明している。

1990年代にカトリック教会は、一連の社会教説に関する公文書の発行を通じて、教会の社会改革に対するコミットメントの一般的な表明がなされてきたが、現場レベルでは特に1970年代の解放の神学の影響を受けた活動が現在まで続いているものの(この文書でも1968年の農村会議とそこでの声明まで、農地改革への司教協議会のコミットメントに関する起源をさかのぼってはいるが)、司教協議会のレベルでここまで具体的に全面的に、教会がはっきりと立ち位置を苦境にある農民の側に置く形で声明がなされたのは、これが初めてではないかと思われる。

無論、教会はこれまで通り、反乱ではなく平和を求めている。ただ、その前提として、過去の反乱には一定の理由と正統性があったことを認め、同様の展開で流血の事態が広がることを防ぐためには、不正を糺さなければならないことを強調しており、単純に争いは嫌だ、平和がいい、というこれまで教会の文書にしばしば伺われた態度とは一線を画すものとなっている。そして、労使間の信頼と対話の醸成のために政府の関与が不可欠である、と主張する。特にストライキを支援した主要人物の暗殺について捜査が進むことが必要と訴えている。

タイトルに用いられたtheaterという言葉(この記事では「表現する場」と意訳してみた)は、農園の争議がニュースで注目され、そこには労使に加えて教会関係者や左翼活動家たちがいわば舞台に挙がっていて注目されていることを表している。但しこの「劇場」では暴力のシナリオを描く者たちもいるが、教会は平和のシナリオを目指すとする。それは「キリストのシナリオ」であり「平和と正義の地平、命と愛の新たなる文明を開く」といい、教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉を引いて、暴力によっては守ろうとしているものを破壊してしまう、と主張する。

教会は労使の仲介者として、両者が兄弟的に対話し、現実的な解決策と信頼関係を一歩一歩醸成するよう支援するアプローチをとるとしている。これがルイシタ農園をめぐる状況への対応としてどの程度現実的なのかは意見が分かれそうではある。

とはいえ、司教協議会は無論、自分たちがこの複雑な問題に対し、特別な解決能力を持っているわけではなく、あくまで仲介役としてできることをするのだ、と自分たちの立場について控えめな評価に努めている。

最後に、この厳しい情勢の中でも司教たちはなお対話の余地が残っていることを現場で感じていることを述べ、楽観をもって進める姿勢を確認して終えている。

2015年7月12日日曜日

CBCP司牧声明「『尊い賜物を固守せよ』 人口抑制法制と『Ligtas Buntis』計画に関する司牧書簡」2005年2月18日

“HOLD ON TO YOUR PRECIOUS GIFT” A Pastoral Letter on Population Control Legislation and the “Ligtas Buntis” Program

学会発表のために公文書は読み進めていたものの、このブログを用いた丁寧なフォローの試みはこの数年完全に中断していたことを反省したい。ただ、怪我の功名というか、さまざまの修正受けた上でとはいえリプロダクティブヘルスに関する法律が成立したことを踏まえて振り返るような形でテキストを読み直せるのは、それはそれで意義のあることだとも思われる。

このテキストは、下院の当該委員会においてリプロダクティブヘルス法案が可決されたことを踏まえて、この法案の不当性を訴え、政治家をはじめとするこの政策に賛同すると思われる人々に、それはカトリックの教えに反する重大な違反であると強く警告する、そしてそのことで法案の成立を阻止することを目指す活動の一環とするものとまとめられるだろう。

フィリピンのカトリック司教たちの表明してきた教理的、及び政治的な立場はほぼ一貫して明瞭である。ただ、2000年代には、法案に賛同、期待する人々への具体的な、読む人によっては恫喝にも思えるような(賛成するものはもはや信仰はないとみなされる、重大な結果がもたらされる、というような)警告が繰り返される。多数派性に支えられてきた教会にとって、教会の指導に従わない人たちへの対応はジレンマを伴うが、この点での寛容性が弱まってきたことの表れとも見える態度表明の頻発は、いくつかの観点から検討される必要があると思われる。

1)教会改革の方向性として、人々の信心のあり方を、教会が定めた枠にはめようとする傾向の強化を、この問題にもあてはめようとする志向。これは1980年代末以降継続する、要理教育の強化、及び信心行に対する頻繁な介入などに明らかにあらわされている。

2)人々のリプロダクティブヘルス政策への期待の高まりと反対の減退を実感し、切迫感をもって強い対応をする方向性。これは実証的な裏付けが必要かもしれないが、状況証拠的には世論調査やフィールド調査報告などによってかなり支えることができそうである。

3)1)、2)と関連し、いずれにせよ人々を上から導くに際し、教会の構造を用いて動員をかけるには人員数が圧倒的に足りないので、政治問題、政策問題を殊更に大きくすることで、報道を通じて人々に声を広く届けさせ、圧力をかけようとする方向性。但しこれについては、インターネットの時代における教会の多様な発信は、以前よりは多くの人たちに潜在的には届きやすくなっているように思えるので、この点の重要度はもう少し吟味が必要かもしれない。

***

ここで一度、この文書でも明らかにされているカトリック教会のリプロダクティブヘルス政策への基本姿勢について、少し整理することを試みたい。

いわゆるリプロダクティブヘルス政策は、

1)家族計画支援活動や性教育を、
2)公費の支出を絡めて、
3)学校や医療機関や関連セミナーなどにおいて、
4)特に医療従事者や保健関係者によって実施することで、
5)人々の性と生殖に関する情報を提供し、自己決定を高め、人口の抑制にもつなげていく、

というふうにとりあえず仮にまとめてよいかと思う(もう少し厳密な書き方もあるのかもしれないが、教会の文書を分析する目的としては、とりあえずまあこのくらいでいいかと思う)。

この文書を読むと、他の文書でも繰り返される問題の立て方が見えてくる。

1)家族計画や性教育については教会が承認するものもあるが、フィリピンの司教協議会の文書ではごく控えめにしか触れられないこと(この文書では全く言及がない)

2)この法制に問題ありとする立場から、公費の支出は不適切である(甚だしい場合にはこれは公金の不正使用という汚職である、とまで言う)

3)学校については、生徒ら未成年への性教育は親の専権事項(親による承認がある時だけ教育可能)であるとするし、医療機関に関しては実質上家族計画を、教会が殺人の一種とする中絶と等しいとみなして医療機関の基本倫理に反するものと主張する。

4)実施主体に関して、彼らの信仰上の自由を保障すべきと主張する半面、カトリックの信徒に対しては、信仰上の立場(しかし遠まわしに言われていることを詰めて考えれば、結局は教会の命じるところ)に縛られなければならないことが主張され、結果として政策として一律に勧められてはならないもの、また医療従事者がいやしくもカトリックであるならば、決して従ってはならないものとして、教会の権威の名をもって圧力をかける言い回しになる。

5)政策効果については、こうした政策をマルサス的とレッテルを張り、リプロダクティブヘルス政策が貧困を減らす鍵だ、というふうに矮小化し(実際にはリプロダクティブヘルス政策は多様な政策アイテムの一つであって、万能薬たることを主張してはいないからその点を批判するのは公平とは思えない)、そのような効果は学問的にも反証されている、とする。しかし、ここでは、いかに人々が制についての知識を得、望まない妊娠を回避するか、多産によってしばしばもたらされてきた家庭生活へのひずみ(特に母親に傾斜する負担や子供の将来)をどうすべきかについて、具体的な提言が提示されない。

恐らく、この教会のスタンスが支持を失い、最終的に法案がアキノ政権期に大幅な妥協を重ねながらも可決に至った要因の一部として、青年や夫婦が現実に直面する生々しい問いや課題と響きあう形で提言を作り出せなかったことにあるのではないかと思う。この点について自覚的に発言してきたのは主に信徒運動であり、加えてイエズス会などの少数の聖職者であった。そもそも教会自身が作り出してきた避妊法や性教育のプログラムは、ごく一部を除いて積極的に進められてこなかったようである。

人々の実際的な信仰的応答がどのようなものか、あるいはリプロダクティブヘルスに関する立場がどういう広がりを持っているのかは、それ自体できちんと研究する余地があるだろう。ただ、それを置いたとしても、そもそも現場の緊急な問いがあるのに、反対論だけで対案を積極的に提示できないものに、積極的な賛同が広がる余地は少ないだろう。

2015年7月9日木曜日

これからの研究の方向性(備忘録を兼ねて)

本当に久しぶりになってしまいました。ただ、これからはまたここを活用して研究作業を記録して行こうと思いなおしました。今なりの決意をFacebookに書いたものに少し手を加えた再録してみます。

* * *

博士論文を仕上げて以来の今一つ前に進めないままの試行錯誤に一区切り付きそうな感じになってきた、といい始めて数年、授業準備のために社会学概論を読むうちに、やっと整理出来てきた。どうも私は「歴史社会学」をしてきたと言えそうで、理解の仕方にもよるが、広い意味での歴史社会学には、

1)社会史(社会の歴史学)
2)狭い意味での歴史社会学(歴史を資料に社会を解明する学)
3)歴史解釈、記念、追悼(そしてアイデンティティ形成)の社会学(いわゆる「歴史の社会学」)

があり、自分は主に3)に関わる仕事をしようとしてきたというふうに整理するようになった。

そして歴史学者でないのにどうにも歴史に固執し、それ故に歴史研究に関わるよう周囲からも時に期待されてしまう状況がうまく整理できなかったのが、ちょっとすっきりした。多分私は、社会学的に歴史を見ようとしてきたのだろう。このことは、先のフィリピン研究会全国フォーラムで、フィリピンの教会史家シューマッカーについて整理・紹介してほしいと言ってくれたTさん、20世紀前半のフィリピン史を検討するに際しキリスト教アイデンティティの問題が欠落しているのではないか、と問題提起してくれたUさんのおかげ、というところが大きいと思う。大いに感謝したいし、当日は「僕は当面は社会学で行くことにしたから、歴史はしばらくお預け」というように言っていたかもしれないけれども、むしろ積極的に私なりの研究的応答として引き受けさせていただければと願っている(少なくとも今のところは…)。

ただ、メインテーマは、今年レガスピ到来から450年、あと6年でマゼラン到来から500年という中で、一連の記念行事を積み重ねていこうとしているフィリピン教会の歴史の記念の仕方というものを当面は見つめて行こうと思っている。キリスト教はその中核に「記念/想起するanamnesis」を抱えもってきており、私は特に神学的なテーマにする力はないけれど、社会学的なアプローチをとってもそういうものとも重なっていると思う。