2011年10月27日木曜日

CBCP司牧声明「ファウスト・テントリオ神父の殺害について」2011年10月23日

CBCP Statement on the killing of Fr. Fausto Tentorio, PIME

イタリア人宣教師、ファウスト・テントリオ神父の殺害について、カトリック司教協議会の声明が出されました。遅ればせながら、内容を紹介します。

声明は「世界宣教主日World Mission Sunday」に際し、外国人宣教師の尽力に感謝する旨述べた上で、テントリオ神父が先住民の権利擁護に献身し、人々に慕われる謙虚で優れた宣教師であったことを称賛し、そのむごい虐殺を非難しています。特に不正に抗して立ち上がる人々の殺害が頻発し、かつ犯人への裁きがなされないことに抗議しています。また政府の迅速な捜査と徹底した真相解明を求めています。また神父の出身団体、活動地であるキダパワン教区、イタリア在住の遺族にお悔やみを述べています。

私はその後の展開をニュースでそれなりにざっと見てきましたが、問題の深刻さを改めて考えさせられます。この辺りは現地調査をしているわけでもなく、一般的な書物や新聞を基にした知識以上のものがあるわけでもありませんが、自分の理解の整理を兼ねて書いてみます。

・テントリオ神父については、共産党との関与疑惑が挙がりました。社会活動に尽力し人権擁護などのために働いている人々が殺害されるたびに挙がる常套句のようなものです。そもそもどういう立場の人で、どういう人とかかわっていようが、いきなり殺してよいということはありません。共産党やその関係の活動をしている人に対する対応は、あくまで合法的に、人道や人権を重んじつつなされるべきだと私は考えます。

・とはいえ、フィリピン共産党が人権侵害的な要素を含む反政府武装闘争を展開し、合わせて合法フロントを活用してきたことも現実ですから、この神父自身と共産党との関係、また神父の活動のあり方については精査が必要ではないかと考えます。ただ、伝え聞く情報だけからすると、神父と共産党との関係について、具体的なことが挙がってこないので、活動の中で何らかの接点があった、ということがあるにせよ、それをどうこう言うとすれば、共産党を口実に権力者等に不都合な人物を始末する口実にされかねないのです(というか、おそらくそういうことでしょう)。

・具体的に神父を惨殺した人々だけが問題なのではないということです。その背後にはおそらく一方には先住民の権利擁護を拒み、利権を保持し、恐怖による支配を継続しようとする地方ボスの姿があるのではないかと推察されます。またこうしたボスによって守られている人々、そして彼らの助けを得て選挙に勝ってきた政治家たちの存在も影を落としてくるでしょう。そうした中で暴力が横行することを容認し、事件が起こっても解決が遠くなるような環境が醸成されてくる。そしてこうしたことを助長するような行政、警察、司法の機能の弱さがある。

・他方で、共産党は1990年代の分裂を経て、なお政府に批判的な勢力の一翼を担っているとはいえ、これを代表するような存在ではもはやなく、見方によっては一方で軍事組織は地元の企業や住民から革命税をとりたてて存続する自己目的な存在となり、他方で合法フロントはこうした活動を容認するよう工作する存在となってしまっているともいえる。中には真の改革、革命を目指す人々もいるのかもしれないが、オランダで悠々自適の暮らしをしている指導者のことも含めて、実際の機能としてはどうも必ずしもそうなってはいない。しかし末端では権力者によって生活に窮した人々を曲がりなりにもかくまってくれるのが共産党ということもあるようだ。

・そうなると神父、宣教師が親共産主義であれ反共であれ、人々の暮らしと権利の問題に地道に取り組む中で、一方で地方政治に、他方で共産党に直面せざるを得ないし、救いと和解と平和を求める教会(特にカトリック教会)の性質上、いずれとも全面対立ではなく、対話の余地を残すようにする傾向があるとすれば、真剣に問題に取り組むほどに、教会は、そして宣教師や神父も、板挟みにならざるを得ない。カトリック教会として、このジレンマについては、どうも場当たりな議論の繰り返しになっているように思われる。それもまた、フィリピンにおいてカトリック教会が、「皆様のカトリック教会」であり続けようとするいわば「宗教政治」が働いて八方美人的になっていることの結果なのかもしれない。この辺りはもう少しきちんと分析をしなくては、と考えるに至りました。

2011年9月3日土曜日

CBCP司牧声明 「農民と生命」 2004年5月15日

FARMERS AND LIFE (A Pastoral Statement on the occasion of the CBCP-NASSA and the Sustainable Agriculture Network’s 3rd Farmers’ Day)

フィリピン・カトリック教会が農民の聖人であるラブラドルの聖イシドレ(Saint Isidore of Labrador)の記念日に定めた「農民の日」の3回目を記念した書簡。2004年が国連の定める国際コメ年であることにも注意を喚起している。

フィリピンの農民が、封建主義、土地なし状況、不公正な取引慣行、ゆすり、安全性に問題のある農業慣行の下に置かれ、圧倒的多数が貧困状況に置かれている事を指摘している。その上で全ての信徒(all the faithful)に対し和解と連帯を熱心に促進し、富と機会の公平な分配に寄って貧しい人々をエンパワーすることに集中しようと訴える。また「全ての人々、特に信徒たち」が私達の農民の困難に注意を払うよう訴えている。

ということは、農民、貧しい人々は、「すべての(司教の言葉を聞く)人々」特に「信徒」の支援の「対象」の位置づけであり、主体ではないということか。農民、貧しい人々が信徒としてどう生きるか、また教会はその人たちとどう連帯するか、という視点が見えない。

確かに、農民は「土地を耕すという天職を受け取る事で、神の生産活動に参与している」、それは「世界を人類にとって真の家族とするために惜しみなく働く」ためである、とはされているが、「教会+善意の人たち」と「貧しい人たち」は区別された上で結びつけられているように見える。

教会指導者は「貧しい物たちの教会」と自己規定しているが、こういう区別と対象化こそが現実の姿に近いのだろう。

2011年9月2日金曜日

CBCP司牧声明 「選挙を通じて国家建設を」 2004年4月21日

NATION-BUILDING THROUGH ELECTIONS (Pastoral Statement on Elections 2004)

2004年総選挙に際しての二つ目、直前の声明である。1998年総選挙の際も選挙に関する声明が二つ出ている(但し当時はオスカー・クルスCBCP議長の下フィリピン文化、経済、政治に関する一連の論評的声明及び政治に関する要理問答も同時期に出ている)。2001年の中間選挙の際は一つである。

この短い声明においては、
・地方及び国政の指導者を十分な情報に基づき責任ある形で選ぶことで「ピープルパワーを制度化する」ことができる、という理解が示されている。
・選挙は「誠実で、秩序のある、そして平和な」ものであるべきとしている。そのために一般市民による選挙監視が重要であるとしている。
・選挙管理委員会の不備を指摘しながら、票の売買、立候補者や市民に対する共産党による「革命税」徴収、公金の不正流用などの腐敗の危険性を指摘、これらと戦うことは福音の要請するところ(gospel imperative)である、とする。
・各自が候補者を選ぶ際の基準として、その候補者の(1)政治家としての能力、(2)良心的であること(一貫性、透明性、説明責任性、人権の尊重)、(3)主要問題(家庭と生命、環境問題、非合法薬物・賭博、正義、平和、秩序、貧困緩和、教育など)への献身性、を挙げている。
・市民には、選挙後に政治家が約束を果たすかどうか監視する使命があるとする。
・教会は祈りつつ国家建設に不可欠な和解と連帯のために祈りつつ行動する、とする。

たゆまずに善行を行おう、との聖書の言葉を引用して閉じている。

政治の中で、選挙というものを極めて重視しているところが、ある意味で形式的民主主義を重んじる志向を感じさせる。もちろんその枠組みを活用してこそ、という話ではあるが、制度改革や法制定、政治過程、あるいは社会運動による改革よりも、選挙がきちんと行われることに力点が置かれていると言える。しかも一人一人の有権者が、一人一人の候補の資質をどう吟味するか、というところにかなり力点が置かれている。確かにそこでは有権者と候補の道徳的な資質と姿勢が問われるので、道徳問題に特権を要求する教会の土俵に持ち込みやすいのは理解できる。

こうした論法がマスメディアなどでももてはやされているし、市民運動の中で重要な位置を占めているのはよく知られたところだろう。しかし、そういうアプローチでもうこの時点でも20年近くやってきているわけで、総選挙もこれで3回目(1992,1998,2004)であるのに、政治および行政の改善の兆しが見えにくい中で、それらのことの重要性を否定しないにせよ、何か他にもっと肝心なことがあるのでは、と考えるのが筋では、と思ってしまう。ただそうは思わないのがどうも教会の体質のようで、やはりその背後には教会が公共の場で道徳上の一定の権威と特権(発言権)を確保しようとする力を見ざるを得ない。

2011年8月28日日曜日

CBCP司牧声明 「来る2004年選挙について」 2004年1月26日

PASTORAL STATEMENT ON THE COMING 2004 ELECTIONS

大統領、副大統領、上院、下院選を含む2004年5月の総選挙に先駆けての短いアピールである。

最初に選挙戦序盤にして既に、政治原則や政党の政策論や人々の参加を抜きにした、政治的恩顧関係や人気が先行する気分に警鐘を鳴らしたうえで、三つの挑戦を挙げる。

一つ目は投票に関する不正をいかに防ぐかである。文書はここで、選挙監視団体をする市民活動を称賛している。

二つ目は政治理解の形成(formation)とネットワークづくりである。いわゆる有権者教育(voters' education)を信徒運動が積極的に推進するよう呼びかけている。

三つ目は社会変革である。選挙過程に関わる人々が忠実に仕事をするように働きかけること、また「貧しい者たちの教会」として、特に貧しい者たちが社会変革の先頭に立つべきことが訴えられる。また政治指導者が利権配分者としてではなく公僕として仕えるよう求めている。

最後に四旬節(受難節)と絡めながら、神の啓明を求めて祈るよう呼びかけて終わる。

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選挙及び政治の改革を、制度改革によってよりは、道徳主張や市民圧力によって達成するよう呼びかける、CBCPにとっては定石の文書である。

目を引くのは(直訳だと事情を知らないとわかりにくいので補足をしながらやや意訳すると)「カトリック教会は『貧しい者たちの教会』であるから、社会変革において主導的な立場に立つのは貧しい者たちである」という主張である。しかし、実際はどうなのか。カトリック教会が自らを「貧しい者たちの教会」と規定して20年が経つが、「貧しい者たち」が本当に教会の先頭に立っているようにはとても思えない。「貧しい者たちの教会」はいわばフィリピン・カトリック教会のビジョン、理想であるが、現実が追い付いてきているようには見えない。彼ら貧しい者たちこそが「社会変革のためには、指導者たるもの、利権配分者ではなく公僕たるべきことを悟らなくてはいけない」だからそういう人に投票すべきだ、という主張に至っているが、これは利権や人気に流されやすいとされる貧困層に対する暗黙の批判ともとれる。つまり、ここでは司教たちは「無知な」貧しい人たちに「選挙教育をしている」ような側面が見える。しかし、このようなアプローチで、実際に人々は耳を傾けるのか、疑問である。

2011年4月9日土曜日

CBCP司牧声明 「緊急平和アピール」 2003年3月10日

URGENT APPEAL FOR PEACE (A Pastoral Statement on Peace)

当時目前に迫っていたイラク戦争の正当性を否定し、戦争が短期的に事態を解決するように見えても憎しみを増幅するために却って平和を阻害することを警告し、戦争を起こさないように訴えている。

アメリカとその同盟国に対しては予防戦争を引き起こさないよう、平和的手段をとるよう訴えている。

イラクに対しては、国連の諸決議を順守し、軍備に関して透明性を増すよう訴えている。

フィリピン政府に対しては、長年の内戦状態を踏まえ、反乱諸勢力との和平交渉を進めるよう訴えている。

新人民軍=フィリピン共産党=民族民主主義戦線に対しては、和平交渉のテーブルに着くよう訴えている。

モロ・イスラム解放戦線に対しては、民族自決要求に対し理解を示しつつも、破滅的な結果を生んできた武装闘争に訴えることをやめ、和平交渉を進めるよう訴えている。

罪なき者の殺害をたくらむ者たちに対して、テロは不道徳であるとともに、目的を果たすのに有効な手段ではない、と主張している。

カトリック信徒に対してのアピールが最も長い。平和の主であるイエス・キリストと聖母マリアを覚え、ミサや祈祷集会、ロザリオの祈り、黙想祈祷会などをもって平和を覚え、祈るよう訴えている。

カトリック以外の宗教の人々に対しては、共に力を合わせて平和を築いていこうと訴える。

そして最後に、これらのアピールを、イエス・キリストと聖母マリアの手にゆだねている。

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総花的でルーティーン的な印象を受ける。独自性のある洞察や、積極的な活動計画などは見られない。カトリック教会が基本的に戦争に反対で、平和アピールをしていることは分かるが、その影響力や効果への考慮が見られない。アピール自体はそれなりに真剣なものではあるにせよ、それ以上のものではないように思える。

CBCP司牧書簡 「賭博を撲滅せよ:賭博は道徳的・社会的な癌」 2003年3月10日

ERADICATE GAMBLING: IT IS MORAL AND SOCIAL CANCER (A Pastoral Statement on Gambling)

ちなみに、この文書と次の文書はそれ以前に私が言及したものと分けられている。

時期や内容を考えると、それ以前のものは1月と7月の定例会合(Plenary Assembly)などで正式に詰められた文書であると考えられる。それに対して残りの2つは司教協議会の議長(ここではコタバト大司教のオルランド・ケベド)の判断で出された随時の声明であると考えられる。但し、文書自体は別段カテゴリー分けされずに整理されており、後の時代に読む際には一緒に読まれることになるから、この区別はあまり重要ではなくなると思われる。

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賭博の蔓延を非難し、克服を訴える文書である。

賭博の問題は、勤勉・誠実・正義・良心といった道徳的価値を破壊すること、そしてこれが社会において組織的な形で合法性を軽んじた形でそのお金の流れなども秘密裏なまま蔓延するために、社会全体を不法な形で腐敗させることにある、とする。また、貧しい人々を食い物に賭博経営者たちが莫大な利益を得ることも不道徳極まりないとする。

結論として組織的な賭博一般を非難し、特に非合法賭博の合法化への動きを糾弾している。政治家たちの自制を求めると共に、違法賭博フエテンとの対決で特に知られるようになったオスカー・クルス大司教(当時はリンガイェン=ダグパン大司教区、現在は教区活動からは引退)がリーダーシップを発揮しているNGO「フエテンと対決する民衆のクルセード」(Krusadang Bayan Laban sa Jueteng)のような働きを支援するように促している。

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その蔓延ぶりで知られる違法賭博「フエテン」は、エストラーダ大統領の2001年の放逐過程の弾劾裁判でも、その上納金を受け取ったとの疑惑が重要な問題となっていた。これに対し、政治的にはフエテンをそのまま押さえ込むのは困難であり、合法化することで可視化しやすくし、またその収益の一部を福祉に役立てる、という提案が出されるようになって来た。これに対し、カトリック教会指導層はほぼ一貫して賭博の不道徳性を訴え、フエテンの徹底的な取締りを主張している。

しかし、そうした中で、聖職者を含む教会関係者も賭博と無縁でないことが指摘される。
1)教会系の福祉活動が政府の合法賭博機関の資金的な支援を受けている
2)フエテン運営に関わっている人々から教会に多額の献金がある
3)末端の教会指導者の中にはフエテン関係者と親しい人たちも少なくない
4)素朴に賭博系のゲームを娯楽として楽しんでしまう聖職者がいるという報道もある
などの中で、教会指導者の多くは(クルス大司教のような例外もあるが)この問題については結局歯切れの悪い態度になってしまう。

ともあれ、カトリック教会にとって、賭博は原則的に絶対ダメなものであり、だから公文書でもその建前を前面に掲げることになっていることが、この文書でも確認できる。

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もう一点、この教書の中から気になる点を指摘したい。

「労苦して得たお金を手に、貧しい人々は日々安易にお金が手に入るという賭博の空しい誘いに惹かれていく。娯楽場の価値が多少はあるとしても、それで生活上の基本的な必要のために欠かせないお金を失うことから家族全体がさいなまれる苦しみを正当化することは出来ない」とある。これは教会関係者がよく口にすることである。

しかし、もし賭博が強制的なものでないのであれば、ここで問題になるのは、それに参加してしまう人たち自身の道徳ではないか。もしそうだとすれば、社会において長年にわたり道徳指導者であったはずの教会の指導上の問題もあるはずである。教会が賭博に反対することはそれとして、教会の本業とより密接に関わるのは、人々一人一人へのケアであり、その人たちが生活を傾けるほどギャンブルにのめりこまないように、目を覚まさせることであろう。また、教会や市民社会がもしもっと健全な娯楽を提供できるならばどうであろうか。

ここでも教会は、本業に関する問題と、きちんと向き合いきれていないように私には思えてしまう。

2011年1月25日火曜日

CBCP司牧書簡「現在の政治状況について司牧声明」 2003年9月1日

PASTORAL STATEMENT ON THE PRESENT POLITICAL SITUATION

政治の過剰、誤用による行政の停滞を批判する教書である。特に過剰な権力闘争と足の引っ張り合い、そして汚職の問題に警告を発し、政府がこうした問題の克服のためにイニシャティブを取ることを励ましている。問題の根底にあるのは個人的な、また政治的な道徳性の欠落という罪の問題であり、これと対決しなくてはならないし、教会もその点で、過ちがある点で例外ではないし、教会もこの問題に力をあわせて取り組みたい、とする。

最後に1991年の第2フィリピン教会会議の文書からビジョンを引用して終わっている。「道徳の諸原則が社会経済生活・構造において卓越する自由な国、正義、愛、団結が開発の原動力となる国・・・国民であることが参加への呼びかけであり、関与と指導性が寛大な奉仕への召集であるような主権国家・・・」

次年度の選挙に先立つ政治家たち、そしてマスメディアの動きが背景にあると考えられる。2001年1月の政変で副大統領から昇格した当時のマカパガル=アロヨ大統領は、一度は出馬しないことを約束しながらそれを反故にしており、その大統領の身辺には既にいくつかの疑惑が浮上していた。そのような中で、政変で放逐される形になったエストラーダ元大統領派のフェルナンド・ポー(FPJ)候補の優勢が伝えられる中、政争絡みの様々な情報が乱れ飛ぶ状況が背後にあった。

2004年選挙は、プロテスタント福音派(ボーンアゲイン)の「ジーザス・イズ・ロード運動」の指導者ブラザー・エディ(・ビリャヌエバ)が道徳の刷新を掲げて大統領に立候補し一定の話題を集めるなど、政治の浄化刷新が、宗教的な刷新と重ねあわされるような仕方で語られる雰囲気が少なからずあった。

しかしそれもあくまでことの一面である。同時に政治経験が乏しくエストラーダ派の実力者による腐敗した政治の導入が懸念されるFPJの当選の可能性が大きいことに危機感を抱いた人々は、中間層やビジネス界に少なからずいて、FPJだけは避けたい、という人たちの中には、腐敗の疑いはあってもアロヨ再選の方がまし、という声を上げる人々も少なからずいた。

その中で振り返ると、当時の教会はまだ2001年の政変を「ピープルパワー」として肯定的に捉える雰囲気を残していて、道徳刷新を掲げてはいても本音としてはFPJよりアロヨのほうがまし、というところに落ち着いていたのではないかと思われる。2004年の選挙に関して、開票にかなり時間がかかっていたにもかかわらずカトリック司教協議会が早々にアロヨの勝利を認めてしまったことはそのことをよくあらわしている。2005年に選挙操作問題が浮上したときに教会が今ひとつ積極的にアロヨ大統領の辞任要求に徹し切れなかったのも、そのあたりがあるのかもしれない。

そう考えると、この短い声明も、かなりの程度建前の文書であるのでは、と考えながら読むのが適切ではないか。