2012年11月16日金曜日

「実際的には無神論者」への教皇の警告:フィリピン教会への影響は?

CBCP教書、読み進めてはいるのですが、記事を書くのが進んでいません。申し訳ありません。

ところで、ふっと考えると気になるニュース。

‘Practical atheism’ more destructive than disbelief, Pope says

教会内における「(クリスチャンだと言いつつ)実際的には無神論者」というあり方への教皇の警告は、たぶん欧米の文脈ででてきているものだろう。しかし、フィリピンの司教たちの中でもこれに反応する人たちが出ている。

確かにフィリピンの多くの人たちは必ずしも教会の言うとおりにしていないし、教会になかなか行けない(いかない)人も結構いる。でも宗教へのシリアスさ自体が喪失しつつある欧米(特にヨーロッパ)と違ってフィリピンでは、それでもほとんどの人は、彼らの仕方で信心深い。そしてフィリピンでは教会のヘゲモニーと人々の信心深さが緊張をはらみつつ、やや同床異夢的な相互利用、相互依存関係を取り結んできた。

しかし、教皇がこれだけ熱心にこの問題に取り組むと、きっとフィリピンの司教たちもこれをフィリピンに当てはめようとするだろう。特に教会の反対するReproductive Health法案に対し、世論調査では大多数の国民(そのうちのほとんどがカトリックのはず)が賛成しているような状況があり、先日はRH法案がらみでマニラ大司教がこの”Practical Atheism"という表現を使った。とすると、教会と意見を異にする者たちの信心を認めないということになりかねないし、それは新たな展開をもたらすのだろうか?

個人的にみる限りでは、RH法賛成派、容認派の多くは、熱心な信者だと思う。フィリピンではプロテスタントの大勢は、基本的にRH法に賛成している。信仰の視点から見て許容範囲であるとみている。私が知る限り、彼らの多くは(中身の是非はともあれ)信心深い人たちだと断言できる。何しろカトリックが大多数の国で、わざわざ別の宗派であり続けているような人たちなのだし。 教会がそれを「間違った信仰」というか、それとも「実質的に無神論だ」と言ってしまうかで問題の性格は大きく変わるのではないだろうか、と思ってしまう。前者ならまだ対話ができる。後者なら…

もうひとつ誤解のないように。私は決して教皇の主張を批判しているわけではない。ただ、フィリピンの文脈にどう置き換えられるかを注視(心配)している、それだけだ。

ちなみに、件の教皇のことばが載っている日本語の記事もある。

教皇ベネディクト十六世の335回目の一般謁見演説

2012年6月5日火曜日

カトリック教会からの政策提言集

フィリピンの新聞における教会関係の記事のチェックをする中で、4月のManila Bulletinの記事で、カトリック司教協議会の社会活動のための全国事務局(NASSA)の事務局長ブロデリック・パビリオ司教と彼の関わる運動である99%運動(Kilusang 99%)が踏み込んだ政策提言をしていることに気付いた。元になる声明を探したが見つからないので、新聞記事に基づく紹介をしてみたい。

'Dead End' For Straight Path

カトリック教会の高位聖職者の声明における政策論は、あまりに総論的であるか、道徳原理を出ないものであるか、単独のイシューに関するものか、教会の教義に関わるような特定のイシューについてか、ということがほとんどであるので、今回の声明は注目に値すると考える(が4月の記事を今頃見ているという遅れは克服しなくては…)。

今回の声明は14もの項目を挙げている。それらを確認すると、

1.農地改革、原住民保護、漁民の権利保護、都市貧困者の住宅確保などに関する法の完全履行
2.労働者優先の政策(労働者の権利、適切な収入、雇用期間の保障、福利厚生など)
3.環境保護及び消費者保護のための、企業に対する規制強化
4.基礎的な公共サービスを債務返済より優先すること、また不正・不道徳な債務の除去
5.水、電力、教育、保健などの基本サービスの確保:市場依存への警告とコミュニティによる公共財管理の模索の提案
6.和平交渉を最優先し、軍事的解決を優先せず、長きにわたる根本問題を明示し、多文化の平和共存の道筋をつくること
7.税制上の抜け穴をふさぎ、適切な課税を導入し、反貧困プログラムの資金を捻出すること、その資金が富裕者に流れないようにすること
8.国家予算決定過程・執行過程への市民社会の参加を制度化すること、及び情報自由法の成立によって市民が公務員をモニターし説明責任を問えるようにすること
9.環境保護に資する起業や技術への支援、気候変動の影響を被っている人々の支援、環境破壊の防止
10.グローバル化のマイナスの影響に対応するためにセイフティネットを用意すること、公正な交易ルール・交易慣行を促進すること
11.司法に則らない殺害(私刑)や失踪がまかり通る状況に対し、徹底した捜査、実行犯の訴追、十分な商人保護の提供を通じて、今後そのようなことがまかり通らない状況に変えていくこと
12.工業化を推進して雇用を創出し、輸出志向型開発政策への依存に変えて自立的な経済を促進すること
13.プロフェッショナリズム、誠実さ、実績主義、適切な報酬に基づく土台のしっかりした公務員形成に努めること
14.地位やコネに左右されることなく腐敗した公職を訴追すること

まだまだ総花的であるとはいえるかもしれないし、個別の項目についての賛否もあり得るだろうが、実際的な政策立案、改革への方向性のある枠組みを一応提示できているということはできるのではないか。

むろん教会指導者は第一義的には宗教家であり、教会として共通の政策枠組みにコミットすること自体には限界があるだろう。しかしフィリピンにおける「多数派宗教」である教会の指導者層が道徳的権威を理由に政治にかかわるとしたら、ある程度政策に通じた人々の知恵を借りている、という背景があってこそ責任のある関与となりうるであろうと、個人的には考える。

これまではあまりその辺がはっきりしていなかったし、その背後には政治における公共の利益とは別の動機がかなり強く働いていたことは明らかで、それが私があちこちで書いてきたことであった。教会の中には矛盾した態度への説明責任の足りない教会指導者の政治関与に異議を唱える声はあったが、それを受けた、一貫した政策態度を目指す議論の成熟が見られることはあまりなかった。今後どうなっていくか、注目する必要があるのではないか。

2012年5月28日月曜日

CBCP司牧声明「善をもって悪に打ち勝て」 2005年1月23日

VINCE IN BONO MALUM - OVERCOME EVIL WITH GOOD

教皇の「世界平和の日」のメッセージに基づいて、新約聖書ローマ信徒への手紙12章の言葉が題名とされている。基本的には紛争、対立について、愛と平和に基づき、兄弟愛をもって解決に努めよう、というメッセージである。今なお問題を抱え続けている、コファンコ家のルイシタ農園をめぐる労働者と農園側の衝突が事例として挙げられている。

キリスト教の強いフィリピンにおいては、社会正義、人権、福祉について、容赦なく闘うのか、それとも兄弟愛をもってするのか、というのは基本的な議論であると思う。しかし、そもそも兄弟愛に基づく解決の事例が、過去にどれだけあるというのだろう。宗教者として兄弟愛を語るとしても、それを実社会の紛争に関して訴えようというのであれば、その点についての論証ないし弁明なしに語られても絵空事に聞こえはしないか。

また、この兄弟愛は、何に基づくのか。キリスト教信仰に基づくのならば、その原理を軽んじる人々について教会はどう向き合うのか。また本文に出てくるようなより普遍的な人類愛のようなものであるのならば、それは教会が世界に向かってどの程度説得的に発しうるメッセージであろうか。それがキリスト教に基礎づけられつつ普遍的であるのでなければならなかろう。

しかし、ここでもまた、語りかける相手のアイデンティティも、語る側のポジションもあいまいなままだ。この空疎な理想語りは、結局「社会問題についても指導者たる教会が一言語らせていただく」というポジションを再度主張する以上のものになっていない。

…そこまで書くこともないのかもしれない。教会指導者の地位からくるルーティーンの仕事でしかないのだろうから。それでも、ここで今一度、教会指導者たちが当然視し、疑いもしない前提を再確認することはできる。そして先ほど「絵空事」と書いたが、日本であれば教会がそんなことを言っても絵空事にしかならないのは教会にとっても自明なのでわざわざ言挙げしないが、フィリピンでは教会の影響力の強さが暗黙の前提としてあるために思慮なくこうした態度が出てしまうのかもしれない、と日頃のニュースにおける司教たちの様々の発言を読んできた印象からも思う。

(追記)

2012年に書いたこの記事であるが、その後一度ハシエンダ・ルイシタ農園問題を含むCBCPの公文書を読み通したうえで、今その3年後に、特にこれと関連する他の記事を読み返している今の段階で、ここでの書き方は少々不公平であった、と反省する。確かにカトリック教会はこれまで、十分な当事者性を持たないまま社会問題に過剰なコメントをし、正義の原則を振りかざすような文書を再三出してきた過去はある。しかし、すくなこともこのハシエンダ・ルイシタ問題、さらに農地改革については、カトリック司教協議会は明らかに一定のコミットメントをもって、特に労使間の調停努力等においてプレゼンスを見せており、農地改革に関してはのちに、農地改革法の実施推進や延長等を求めたハンガーストライキに参加するなどの関わりを見せてきた。これは特に、教会が親アロヨ的な傾向を強めていると批判されるようになってきた時期のことだけに、特に注目に値すると考える。

2012年4月11日水曜日

CBCP司牧声明 「賭博に関するCBCP声明」 2005年1月23日

CBCP STATEMENT ON GAMBLING

カトリック教会が賭博関係者や公営賭博機関から支援を受けているとの非難に答えた声明。
この件については過去に繰り返し挙げられている。論点はおおよそ次の通り。

・賭け事そのものは道徳的に中立であるが、生活費をかけるようなことになると道徳的に悪となる。
・賭博文化もまた悪である。安易な射幸心をあおると共に、常習化し結果的に貧困を悪化させることにもつながるからである。
・しかしフィリピンにおける貧困は深刻であり、他方で公営賭博機関は数少ない重要な慈善機関、支援機関である。
・CBCPは賭博機関に献金を求めたことはない。修道会や個別の小教区などが献金を求めるケースがあるとすれば、これは咎められなければならないかもしれないが、上記の事情に鑑みれば同情の余地があると言える。とはいえこれを容認することは賭博文化の醸成につながるので反対である。
・非合法賭博に至っては、そこから上がる莫大な利益が闇のネットワークを形成しており、汚職の原因ともなっているため、到底認めがたい。その合法化も認めるべきでない。
・フィリピンの状況をこのように考えるとあらゆる賭博は合法であるべきでなく、また教会の福祉・慈善活動も、たとえ貧しい人々の支援に資するとしても、賭博機関の支援を頼りにすべきではない。

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これをどう読むのか。この後も、繰り返し公営賭博機関からの献金、献品の話題が新聞をにぎわしてきたし、この文章にもややあいまいなところが残り、のちにもっとあいまいな対応になっていくのでもある。さらに、さるテレビ番組で修道女たちが大騒ぎでスロットマシーンで遊んでいる映像が流されたりもしたと聞くが、そういうことであれば、道徳云々という議論の説得力は下がり、むしろダブル・スタンダードがあるのではないか、という疑惑をもたれても仕方がないであろう。

とはいえ、清貧、貞節、従順を誓うカトリックの聖職者が元々賭博を好んだり、容認しようと考えたり、ということではないと考えるのが自然だろう。やはり、上記の文章の中に見られるジレンマがあるのだと思う。加えて、毎度のことでしつこいが、やはり「皆様のための教会」として活動範囲を考えるとき、必要な資金規模と支持基盤を広くとることになり、本意に矛盾するはずのものもずるずる容認してしまうという面もあるだろう。これはフィリピンのカトリック教会の抱えるアイデンティティ上の構造的課題でもある。

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しかし他方でやや論点がそれるが、では慈善や福祉、開発事業を教会がやらなくてだれがやるのか、ということになる。それは教会や関連団体だけでなく、市民運動やNGOの活動もそうだろう。政府が十分に国の福祉を支えきれないこと自体が構造的に深刻な問題であるともいえる。市民社会だけでこれを担っていくのは、NGO大国と呼ばれ、教会が大きな力を誇るフィリピンにしてなお難題である。その政府からの細い支援のラインが公営賭博機関であったとすれば…これは外国のODAやNGOの支援の問題とともに、フィリピンの市民社会が直面する資金調達上のジレンマでもあるかもしれない。

以前ヨーロッパであった国際フィリピン学会で、フィリピンのNGO関係者が恐ろしく強い態度でヨーロッパからの資金についての注文をしているのを見て、反発を覚えたことがあった。お金をもらえるのは当たり前であるかのような態度に立腹した。ただ、もし貧困の問題が人道、人権の問題であり、これが公共の問題であって、それを当該国政府が十分に取り扱えないとしたら、いわばグローバル公共社会のようなものがある程度代わりに担う責任があり、当事者にはそれを要求する権利がある、というような考え方はあり得るものだろう。

国際関係論でも近年、国連から出てきた「保護する責任」の議論(当該国民の人権、人道、安全保障を、当該国の政府が責任をもって保障することを放棄した場合、この責任を国際機関等が代わりに担うことができ、また担うべきであるのでは、という議論)がある。グローバル化の時代の中で、グローバルアクターでもあるカトリック教会のあり方も問い直されているともいえるかもしれないが、ここでの議論はまだ国民国家の枠組みの中でなされていることにも留意したい。

CBCP司牧声明 「平和、一致と刷新についての声明(第89回CBCP総会)」 2004年7月10-11日

STATEMENT ON PEACE, UNITY AND RENEWAL; CBCP 89TH PLENARY ASSEMBLY, Pius XII Center, Manila, July 10-11, 2004

カトリック司教協議会総会後の声明で、主に2004年5月に実施された総選挙に関する講評である。

総会において、司教たちから担当教区の情報をもとに選挙の講評を受け取ったところ、選挙においてさまざまの違法行為や不正の事例が挙げられたとした上で、、それでも総じてはおおむね国民の意思を反映した結果となった、としている。
 
不正についての報告が多いこともあるため、CBCPの常設委員会は上ってきた報告を集め、現状の理解と今後の特に消極レベルにおける選挙に関連した対応策づくりに資するべく分析を行うとした。ただ、包括的な調査や不正に対する法的な対応までは教会の力量を超えるため、司法等のしかるべき機関に期待する、としている。
 
選挙が終わった今、むしろ社会変革、国の刷新のためにさまざまの取り組みを前進させる時である、とする。
 
最後に、そのために司教団は8月15日(聖母被昇天の祝日)の「平和、国民的一致、刷新のための祈りの日」の呼びかけをし、聖体年、聖母マリア年の記念と併せ「聖母マリアとともに聖体を祝う」の標語を確認している。従来の司牧声明を踏襲した、記念日のイベントを絡め、聖母マリア(イエス・キリストよりも頻繁なのが興味深い)の祝福を願う締めの文章である。
 
***
 
8年近くが経過した今読んでみて、やはり何とも言いようのない感慨がある。2004年の選挙は俳優出身のフェルナンド・ポー・ジュニア(FPJ)が善戦し、そもそも彼が職に堪えるのかが問題になっていたため、FPJではだめだ、という人たちがFPJに対抗できる唯一の候補である現職のマカパガル=アロヨ(GMA)に投票すべきなのかどうかを巡り、私のかかわりの深いプロテスタント福音派(ボーンアゲイン)の中でも激論がたたかわされたと聞いている。特にボーンアゲインの牧師でフィリピン福音主義教会会議(PCEC)のメンバーでもあるエディ・ビリャヌエバが大統領候補として立候補したことが状況を複雑にしていた。福音派はいわゆる中流以上の社会層が多く、反FPJゆえに(少なからず仕方なく)GMAか、夢を求めてブラザー・エディか、というような話になっていたと聞く。
 
そういう中でのこの文書にも挙げられている7月早々の「選挙結果はおおむね人々の意思を反映している」宣言は、教会が早期に大統領をGMAと認めて幕引きを図ったのではないか、などとマスメディアでも論評されていた。FPJは、教会が辞任を求め、結局追い落とされるような形となったエストラーダ元大統領に近いこともあり、また教会が政治家は実力や実績がないといけない、というポリシーを打ち出しているのが(それは妥当ではあるともいえるが)ちょうどGMAの対FPJの宣伝戦略として、自分はプロでFPJは素人だ、というのと重なっていたこともある。
 
結局翌年にはGMAと選挙管理委員長との不透明な関係が表ざたとなったいわゆる「ハロー・ガルシ」事件以降、すでに教会関係者も含め各方面で観察されていたさまざまの選挙不正は、無視できるような性格のものではなかったのではないか、ということになっていく。
 
私が知る限り、教会が声明等を通じて、特に強い政治的意図をもって印象操作をしようとした、というような悪意があったとは考えにくい。そうしたことがまことしやかに語られているが、私はそれを裏付けるものを知らないし、教会というものの基盤はそういうものとはやや別のところにあるのではないかと思う。この後の時期になると、GMAが教会対策として積極的に教会の慈善事業等に資金を配分していたことが明らかとなってはくるが、それはむしろGMAの側の発意ではないかとも思うし、「ハロー・ガルシ」以前はその手のことが話題になることはなかったわけではないが、別にGMAでなくても同様の対応をしてくれるかもしれないともいえるから、教会が財政的な理由でGMA当選の信用を高めようとしたとは考えにくい。
 
むしろ教会指導者は、フィリピン社会における教会の構造的な政治性を一定程度理解しつつも、そことずれたところで、つまり政局にあまり配慮しない教会指導者としての司牧的な議論を展開してしまっているのではないか。だから、2005年に不明を恥じることになってしまう(が謝罪はしていないので、「ハロー・ガルシ」を踏まえて2004年の声明の結論を恥ずかしいと思ったわけではないのかもしれないが)。
 
まあ、選挙結果が集計されるのに時間がかかりすぎて、政治的空白を許さないところに来ていたことも否定できなかったとも思う。あの時FPJじゃ破綻だ、ならいっそGMAがいい、と念じてしまった私自身、不明を恥じるべきなのかもしれない。