2010年5月1日土曜日

マニラ大司教区・司牧書簡「選挙2010」

フィリピン・カトリック司教協議会の司牧教書を読むシリーズを中断し、昨今の選挙がらみで書いてみます。

いよいよフィリピンの総選挙が近づき、諸教会(カトリック、プロテスタント等々いずれも)の動きもいろいろと報じられるようになってきている。マニラに滞在して様子を検分できた前回と異なり、今回は日本で模様眺めということになるが、ふとマニラ大司教区の「Election 2010」というシリーズがホームページ上に公表されていることに気づいたので、これを読んでみることに。

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Election2010 Part 1

Part 1 は3月14日付、英語とフィリピン語の翻訳(Filipino Translationとある―オリジナルは英語である、ということか)が並列され、マニラ首都圏教会管区(Manila Metropolitan Ecclesiastical Province)の司教たちの名が列記されている。つまり、これはマニラ大司教区を中心する管区全体の意思表示ということになる。

管区内の教区は、マニラ(大司教+補佐司教2名)、アンティポロ(司教+補佐司教)、クバオ、イムス、カロオカン、マロロス、ノバリチェス、パラニャーケ、パシグ、サンパブロ、プエルト・プリンセサ(使徒座代理区 Apostolic Vicariate)、タイタイ、であり、従軍司教(Military Ordinary)も名を連ねている。

ポイントは明瞭である。来る5月10日に国政選挙がある。これは自由選挙であるが、自由選挙とは脅しや金に左右されないものであるべきだ。有権者は特に貧困と政府の腐敗という問題と立候補者の資質を照らし、良心的な市民の集いで注意深く検討すべきであるとする。こうした諸集団は自分たちの選択に関する主の導きを祈る市民集団たるべきとする。

その資質としては、神を恐れる人、道徳的で、悪習に染まらず、命への畏敬の念を持ち、常に貧しい者たちの真の友であり、世界の生態系の友であり、つつましく、責任あるフィリピン人市民のよい模範であること、とする。

こう締めくくる。「主とその御母がわれらの国を祝し守ってくださるように。というのも、神を恐れる国としてわれわれが人々をも愛しているということを、彼らはご存知なのだから。」

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Election2010 Part 2

二つ目のものは3月21日付の回勅(Circular)である。マニラ大司教ガウデンシオ・ロサレス枢機卿名で、マニラ大司教区内の聖職者、修道士、信徒に向けられている。

内容としては以下のとおりである。
上述の司牧書簡をもう一度よく読むように勧める。今度の選挙は、国内の諸問題を背景に、国民が投票に関する成熟したよく考えられた決定をすることを支援する機会だかからである。さもないと選挙時の過ちを正すために人々が街頭に繰り出すことにもなりうるからだ。司牧書簡にあるように、市民グループを各部門、年代層、小教区などにおいて積極的に組織し、また人々の運動を支援してほしい。こうした団体は中立的なものであるべきである。投票は良心の選択によるものであり、お金、脅迫、欺きによって影響されてはならない。市民組織を通して、責任を持って望むことで、市民は国づくりをはじめなくてはならない。最後に、識別と判断に際しては常に祈りが伴はなくてはならない。支援するとともに祈ろう。

こう閉じる。「主イエスとその御母が常に導き、われらを触発してくださるように。彼らもまたよき市民として生きることを学ばれたのだから。」

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Election2010 Part 3

こちらは4月28日付である。マニラ大司教ガウデンシオ・ロサレス枢機卿名で、宛名を示さずにMessageとだけ記されている。

内容は以下のとおり。
選挙当日まであと数日、騒がしく混乱に満ちた選挙戦が戦われ、よいうわさは耳にしないが、これぞ「選挙戦、フィリピン版 political campaign, Pilipino style」である。われわれはこのようなことを自由の民として成長するにつれ乗り越えていくようにと祈る。国の将来は、誠実で神を恐れる、信頼に足る人々に任されるべきであり、そのような人々こそ大いなる一致を生み出しうると信じているであろう。一部特権階級のためでなくすべての人々の益を大切にする指導者を選ぶ確信を得るためにも、情報収集のみならず、黙想と祈りが不可欠となる。
民としてのわれらの歴史において重要なこの時にあたり、マニラ大司教区の小教区等の共同体が、5月の最初の9日間を「誠実で平和な選挙日のための特別な祈祷期間」とし、また選挙直前の3日間を「イエスの聖心および無原罪の聖母の聖心を記念する御聖体の聖なる賛仰」の特別の三日祭とするよう求める。

こう閉じる。「来るべき選挙で誰が勝つにせよ、フィリピンという国こそが勝者となるように。」

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いつものことではあるが、今回も基本的に、政治の霊的な理解の強調、政策やシステムよりも政治家個人の資質の強調、それらから来る、選挙で霊的な指導者を選び、その人が国をよい方向に導いてくれるように、という論じ方が一貫して見られる。その結果、教会の政治への参与とエネルギーは、国政選挙の「有権者教育」や「選挙監視」にかなり集中することになる。

もうひとつ。今回は初めて選挙のコンピュータ化が導入される。この点についてはさまざまの期待と懸念、そして資材導入や準備をめぐる報道が多く見られてきたが、このことについてまったく触れられていないのも気になる。もっともこれについては、教会関係者が状況を注視しているのは確かである。たとえば以下の記事にはそうした姿勢が現れている。(ちなみにこれは、Part 3についてのCBCPのニュース記事である。)
Cardinal Rosales dismayed over pinoy-style political campaign

グループ作りについても、教会系の運動がどうしても中間層寄りになってしまうこと、低所得層の庶民との間にある種の文化ギャップが存在してきたことなどについて、どう取り組むのか、というような発想が欠けている。市民(citizen)という言葉が貧しい人々(the poor)との間に、ある種不愉快な緊張感をはらんできたことは、特に2001年の一連の事件(大統領放逐の政変と、これに対抗する親エストラーダ派のデモ)で大きな衝撃とともに学んできたはずではないのか。

にもかかわらず、同じことの繰り返しである。強い賛成も反対も仕様がないが現実から遊離しているようで、とても多くの人々の注意を喚起する文書とは考えられない。これでは運動(政治の改善)よりも、構造(現状維持)を指し示しているとしか考えられない。

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