2010年5月4日火曜日

CBCP司牧書簡 「恵みの業を大河のように流れさせよ」 2003年7月7日

LET INTEGRITY FLOW LIKE A STREAM!(A Pastoral Statement of the CBCP)

政治腐敗と汚職(graft and corruption)についての教書である。

とはいえ、冒頭、高位聖職者のスキャンダルをまず挙げ、悲嘆し、神と民とに赦しを請う文章から始まる。1991年の第2回教会会議において聖職者の刷新の優先性を挙げた点を想起し、これを受けてさまざまのプログラムを作り、また聖職者の性的不適切行為への対処の司牧的ガイドラインを制定してきたと述べる。さらに今後神学教育においても「キリストの歩みに倣う真の良識に立った人物」こそが聖職者となるよう検討を加えるという。

それでも、たとえ聖職者の側に罪深さがあり、刷新の努力を怠ることが出来ないとしても、社会に巣食う道徳上の問題について言明する道徳上の役割はなお自分たちにあり、これを避けることは出来ないとして本論に入る。

1989年の「盗んではならない」、1997年の「フィリピン政治に関する司牧教書」においてCBCPはすでに政治腐敗と汚職について触れ、これを社会に対する反逆、そして神に対する罪であると難じている。そして市民委員会の創設により一般の認識を高め、公金の用途を監査し、違反した公職者の訴追を行うべきであると提言しており、今回もこの点を再度強調している。

汚職の問題性について確認しながら、政治家の罪のみならず、これを容認している国民全体(we as a people)の責任を問うている。政治家の公金の不正使用とともに、民間企業の不正行為が賄賂などによって野放しになっていることが問題として挙げられる。

汚職の問題は世界的な現象であり、道徳倫理の水準が崩壊していることと関連するという。しかし、フィリピンの場合国内の不平等性のはなはだしさと合わせるとこの罪の深刻さは大きい、とする。

対外債務返済のため圧迫された国家予算の中から、さらに40%もの公金が汚職に消え、本来貧しい人々のための開発に使われるはずのものが失われていくことは、道義的に決して受け入れられないことである。これは国際的にもかなりひどい水準であり、フィリピンの通貨ペソの評価を下げる要因でもある。またこうしたことが蔓延することで治安の悪化や公的サービスにおける賄賂要求などがはなはだしくなって、国民の道徳的、霊的な意識が失われ、他者への不信感が増すとする。そうした中で汚職は行政や政治の隅々にいきわたり、開発資金の用途、マスメディア、市民社会にまで影響を及ぼしている。教会すら、腐敗で知られる人々からの献金を受け取ることで知られるようになってきており、教会は悔い改めを表明し、主の赦しを請わなくてはならない、とする。

社会の中にはこの問題に対する認識が広がっているが、具体的な行動こそが求められている。多くの教会系の組織や市民団体が動き始めており、教会はこれを支持するという。政府の取り組みにも注視している。この問題にかかわる団体が増えること、特にカトリック系の組織や学校、小教区、宗教運動、そして教会基礎共同体が価値観の形成(value formation)に力をいれ、汚職撲滅の働きに参加するよう呼びかける。イエズス会の作成したマニュアルがあるので活用するよう勧める。

より積極的な法制度の形成や、政府の市民団体と一丸となっての活動、市民運動の政治家のライフスタイルチェック、行政官に対する監視、容疑のある行政官の告発などの促進を提案している。

司教協議会としては、下部組織の社会活動部門であるNASSAおよびフィリピン信徒委員会に、政治腐敗・汚職への取り組みを実施する主導的役割を果たす役目を委託している。と同時に教会自身としても内部の問題にきちんと対処するように決議している。司教たちは腐敗で知られる人々からは献金を受け取らないし、彼らの活動を容認しているというメッセージとならないためにも、特別な仕方で彼らに栄誉を与えたりすることはしない、とする。

最後にアモス書5章24節のの「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」を引用し、聖母マリアの範を引いて教書を終えている。

***

読み通して不自然に思えるのは、政治腐敗と教会の性的スキャンダルとを、「道徳上の腐敗」として一律に論じている点である。

確かにひとつの国民社会の中で、共通の国民文化がさまざまの場において共通の問題を惹起する面がある、という議論は考察に値するだろうと思う。教会が怪しい政治家から献金を受け取ってしまうという話は、この国家的な汚職の問題と連続性を持って論じる意味があるようには思う。

しかし、性的スキャンダルは、やはりこれとは別の問題に思える。

こういう別々の問題、しかもいずれも単に道徳や霊的な問題だけでなく、制度上の問題を含む問題において、まったく別の問題を、教会が「責任を持つ」(がゆえに発言権のある)道徳問題に還元して論じようとするとき、教会の性的スキャンダルの場合の聖職者の任職や教会の制度と透明性、説明責任、問題への対処のシステムといった問題も、また政治的汚職に関連した行政や司法の制度整備、公務員の給与などのより実際的な問題から遠ざかってしまっているように思える。そうなると、こうした議論をすればするほど大事な問題が見えなくなって、かえって現状維持に力を貸してしまうのではないか。

教会の道徳的説教は、道徳的な高みから論難することや、その論難を聞くこと自体のカタルシスによって、かえって現実に具体的に対峙していく方向への動きを鈍らせかねない面があるのではないか。このことを、教会の司牧教書を読むたびに考えてしまう。

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