2010年3月10日水曜日

'BEHOLD I MAKE ALL THINGS NEW' January 27, 2001

原文は
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2001-churchrenewal.html

この声明は、1991年の「フィリピン第2教会会議(Second Plenary Council of the Philippines; PCP-2)」の10周年として、司教協議会の1月の定例会議に合わせて行われた「教会刷新に関する全国司牧協議会(National Pastoral Consultation on Church Renewal)」の終了後のアピールである。ちなみにこのNPCCRの包括的な報告書は後日カトリック司教協議会(CBCP)により出版されている。

このような経緯から、この文書は、10年を経て、社会背景がどうなっており、またPCP-2文書が提起した「統合的宣教」に基づいて「弟子たちの共同体」「貧しい者たちの教会」を形成するという目標がどの程度達成されているか、という観点が示されている。(項目1-3)

社会分析については、この10年のグローバル化の進展により、伝統的美徳が犠牲となり、実用主義に代えられている、また貧しい者たちの抑圧も新たな形を取りつつある、そしてエストラーダ政権のスキャンダルのような政府の腐敗がひどいことになっている、と指摘している。総じて、PCP-2で指摘された社会の諸問題の本質は変わっていない、とする。(4)

対して教会もまた、基本的に改善が進んでない、との反省が示される。PCP-2ではさまざまの処方箋が提示されていたが、教会の教育形成が進まず、刷新の方針が定まらず、制度上の不備も重なってそれらの多くは実行されないままであった、とする。(5)

とはいえ、改善の兆しもあるという。諸分野、諸業種における社会的な大義を取り上げる運動が増大してきている。また教会人の中には様々の教会運動や社会運動に献身している人々が増えてきている。さらに、2000年の聖年記念に至るこの数年の祝祭が人々に清めと悟りを与えていると主張する。加えて「ピープルパワーⅡという劇的な出来事において、我々は神がフィリピン人を強めて受け取らせている国の刷新と道徳の刷新という贈り物を目の当たりにし、経験した」とする(6)

以上の情勢分析や評価を受けて、基本的には「より参加型の教会、より正統的な意味で貧しい者たちの教会、より公正な社会建設に資する真に宣教的な教会」という目標を掲げたうえで、優先課題が列挙されている。(7)

A. 統合的信仰形成
B. 社会変革に向けての一般信徒のエンパワメント
C. 教会における貧しい者たちの積極的な存在と参加
D. 宣教の要としての家族
E. 共同体の源としての小教区(parish)を建て上げる参加的諸共同体の建て上げと強化
F. 聖職者の統合的刷新
G. 青年たちと共に歩む
H. 教会一致運動と宗教間対話
I. 宣教に向けての動員と形成

そしてアピール(8)と結論(9)で終わる。教皇の回勅に基づいて、「フィリピンの生活と社会の深みにこぎ出すよう呼ばれている」としている。

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とりあえずのコメント

1.ピープルパワーⅡについてのここでの楽観的で手放しの評価は、これがまさにその直後の文書であり、そのあとの、ピープルパワーⅡへの抗議のような形を取って大きな衝撃をもたらしたいわゆるピープルパワーⅢを体験する前であることが大きいだろう。

2.一般信徒が社会変革の担い手となる、という基本路線を読みながら、一体ここでいう「一般信徒」とはどういう人たちのことを言うのか、と改めて考えてしまった。この人たちは聖職者と一層積極的なコミュニケーションを築きながら、教会と社会に深く根ざしたいわば教会人としても国民(ないし市民)としても確立したアイデンティティをもつ人物、という像が浮かぶが、現実として、この像に対応するものが先立っているのではないように思える。
 私は過去の研究で、教会の政治社会参与が国民のアイデンティティについての覇権的な立場を保とうとする形で行われてきたことを指摘し、このやり方が齟齬をきたしていることを論じたが、ここでは、少々違うニュアンスがあるように思える。つまり、もう少し教会側に引き付けて、教会はそもそも何なのか、カトリックとはだれなのか、について、そのアイデンティティについての明瞭な像を提示することで、教会とカトリシズムのこの社会における正統性を内外に確認する、というややつつましげな方向に教会指導者層がシフトしつつあるのかもしれない、という予感を私は持つ。

3.「貧しい者たちの教会」と言いつつ、優先課題をみると、明らかに「貧しい者たち」は外から教会に新たに参加する存在であり、また客体視される存在である(例えば「我々は物質的に貧しい者たちを差別するメンタリティ、価値観、行為、ライフスタイルから自らを解放することを目指す」は、明らかに貧しい者たちを客体視しているーここでの我々は「貧しい者」ではなく、むしろ彼らを見つめる側にいる)。ここに教会のいわばミドルクラス的(単純化は避けたいが仮にこう言おう)な特徴がよくあらわれているように思える。彼らにとっての「貧しい者たちとしての自分たち」は、客体である貧しい者たちとアイデンティファイする、という営為である。ここでは「我々は福音的に貧しい者でなければならない」とある(もしかするとこれは修道士の誓約する「清貧」と重なるのかもしれない)。この「貧しさ」は主体的で選択された「貧しさ」である。7Cの項目の最後の文章は、それをよくあらわしている。
「貧しい者たちとして、貧しい者たちのただ中で、貧しい者たちと共に、十字架につけられよみがえったイエス・キリストへの共通の信仰を理解し、生き、祝い、共有するのです。」

4.聖職者のライフスタイルへの批判が盛り込まれている。特に貧しい人々と共に生きるというところからほど遠い聖職者に変化を求めている。こういう視点がこれまでなかったわけではないが、どちらかというと社会の側の病理をもっぱら批判し、教会指導者の権威を強調する論調が支配的であったところからの変化がよくあらわれていると思う。

5.青年とはどういう人たちと捉えられているのかも興味深い。ここでも青年は客体化されており(ここでは「我々は青年たちとの対話を行う」という表現が出てくる)、教会の主体が壮年、老年層であることを改めて想起させられる。聖職者の高齢化が進行している現状とも無関係ではないのだろうと思ったりする。
「我らの人口の中で青年が最も多く、我々の教会の中で最も活発な人々でもあるが、勃興しつつある技術社会において最も脆弱な存在でもある。」

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