2010年3月29日月曜日

HOPE IN THE MIDST OF CRISIS; 7 July 2002

本文は下記の通り。

http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2002-hopeincrisis.html

内容は、7月の司教協議会の総会を経て公表された一般向けメッセージであり、自然災害、政治社会の諸問題に加え、教会における聖職者の性的不品行(sexual misconduct)を取り上げ、不始末をわびるとともにこれを神学的に解釈し、問題が山積する国情のもとでなお希望を持って生きることについて簡潔に述べている。

声明はまずその時期に襲った台風、引き続く貧困問題、犯罪、暴力、政治不正等を挙げ、希望を失いかねない危機の現状を述べたあと、聖職者達(司祭と修道士)による性的不品行が教会を揺るがしたことに言及する。これについて、①キリストの祭司職の聖性を裏切るものである、②「聖にして罪人の集いである」という教会の神秘を指し示すものであるという二様の理解を示した上で、神からの勇気という贈り物によって自分たち牧者(We your Pastors)は、一部指導者達がその群れ(flock)の人々に対して犯した重大な罪を「赦してほしい、と謙遜に求める」(humbly ask for forgiveness)という。このような行いは司祭にふさわしいものではなく、大多数の司祭と修道士はそのつとめに忠実であることを確認するとともに、謝罪した以上必ず刷新をなさなくてはならないと認識している、とする。今後専門家と広範に協議しつつ様々の性的虐待、性的不品行の問題を扱う規約の作成に取りかかっているという。

旧約聖書ミカ書の「正義を行い、憐れみを愛し、へりくだって神と共に歩め」を引き、この言葉に、嵐のただ中を生きるがごとき我々は希望を見いだす、という。そしてこれを教会指導者の歩むべき道として解説している。そしてフィリピンがよりよくなることへの希望、教会の聖性への希望は、この正義の実行、愛、そして謙遜な神とともなる歩みによってもたらされるものであり、このような生き方自身、神の恵みである、とする。

そして最後に、イエスが「希望を持て! 信仰を持て」と言っておられ、彼にこそ希望があり、この希望は失望に終わることがない、と結んでいる。

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この時期、CBCPの中では、将来を期待されていたヤルン司教の隠し子騒動が起こっており、この後には高齢と健康問題故に引退を目前にしていたカリスマ的指導者であった当時のマニラ大司教であったシン枢機卿後の次世代の指導者として期待されていた著名なバカニ司教にも及び、彼らの事実上の更迭にまで至った。それ以外にも様々な性的スキャンダルが取りざたされた。

この文章にショックを受けたはずの彼らなりの誠意というものを読みとることは出来るだろう。具体的に規約を作成する(実際に数年後にできたと聞いている-原文は私は未確認だが)というところにそれなりの本気が現れていると思う。

ただ、いくつかの問題が残っていることも指摘していいと思う。私自身はプロテスタントであり、世界的にプロテスタントも含め、性的不品行や虐待のケースが続々と公になる現状を鑑み、決してカトリックだけの問題としないようにすべきだと意識しつつ、述べていきたい。

1)この時期の新聞記事を読んでいたときの記憶によると、教会側は強制性のあるセクシャルハラスメントや性的虐待のケースと、合意の上で成り立つ「不適切な性関係」(illicit love affair)を一つにして扱ってきた。この文書にもそういう態度が現れている。バカニのケースは前者(セクシャルハラスメントの容疑、被害者の訴えに対し、本人は「そのつもりはなかったが、不適切な親密さの表現があった」として謝罪した)、クリソストモ・ヤルン(Crisostomo Yalung)司教の場合は後者(不倫の末の隠し子がいた)であった。また後には、自分たちの関係を認め、結婚式を行い、教会当局に聖職者の結婚を認めるべきだと主張するに至った聖職者達もいる。世俗的にいっても前者は刑法犯だが、後者は犯罪の範疇ではない。
http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/byalung.html
http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/bbacani.html

 勉強した上で結論を出すべきなのだろうが、今仮説的に考えているのは、カトリックでは結婚という秘跡(サクラメント)を非常に重くとらえているため、両者ともこの秘跡違反という観点からはとんでもなく重大な違反、ということになるということなのかもしれない。さらに言えば、叙階(つまり聖職者としての任命)も秘跡であり、このときに貞節の誓約をするので、これを破ることもまたとにかくとんでもない罪(教書に使われた言葉で言えばgrave sin)であるだろう。それは司教達がこの叙階の秘跡に基づく権威であるが故に、何にも勝る問題であるのだろうと思う。

2)確かに被害者への謝罪はあるが、問題があくまで教会の聖性をどうするか、希望をどう持つか、ということに当てられていることに、どうしてもある種の不誠実さというか、身勝手さを覚えるのは私だけだろうか。大事なのはまず教会のことなのか。少なくとも、被害者の痛みの側に立つ姿勢からは遠く見える。これは自己吟味を迫る考察でもあるかもしれない。というのも、自己弁護というものをどう見るかは、日本的な文化の問題とも関わるように思うからだ。日本では、過ちを犯したものが自己弁護するのは見苦しい、という美意識というか感覚があるように思う。しかし、これではまだ主観的な言葉にすぎない。これは学的な議論の中にどの程度持ち込める見方なのだろうか、考えていかなくては。

3)もう一つ、この文書で扱われていない問題がある。この数日また世界的にクローズアップされてきているが、当時からあった「隠蔽」の問題である。新聞記事やCBCPのニュースサイトの記事を読んできた記憶では、教会はこの問題については否認するばかりで、組織的隠蔽があったのかどうか真相を究明する姿勢を見せていなかったはずである。最近のニュースによると、アメリカにおける大規模で悪質な聖職者による性的虐待事件についての告発を、現教皇がバチカン教理省長官時代に握りつぶしていたとの疑惑も浮上しているという。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201003/2010032500641
バチカンの教皇擁護論の紹介として次の記事もあります。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2713529/5537686

という中で、やはり問題の根本的な対処よりも、むしろ組織の防衛と活動の通常への回帰に(おそらく無意識にではなかろうかと推察するのですが)向かおうとしている姿勢が反映された文書である、と読むことができると思われる。

しかし、教会は道徳指導者であってこそその権威が保たれると言うもの。Social Weather Stationsなどの調査を見ても、今に至るまで人々の教会への信頼は基本的にはさほど揺らいではいないようではあるが、このようなスキャンダルとこのような逃げの対応は、この10年ほど欧米で見られるように、長期的な信頼と権威の喪失に繋がっていく可能性があるのではないか。フィリピンにおけるカトリック(教会も、人々の信心も)はどこに向かっているのか、注視していきたい。

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