2010年3月16日火曜日

SAVING AND STRENGTHENING THE FILIPINO FAMILY; 02 December 2001

正式にはタイトルは以下の通り。
SAVING AND STRENGTHENING THE FILIPINO FAMILY
A CBCP Pastoral Statement on the 20th Anniversary of Familiaris Consortio
02 December 2001
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2001-familiaris_consortio.html

前教皇(当時は現役)ヨハネ・パウロ2世の使徒的勧告『家庭 愛といのちのきずな(Familiaris Consortio)』の20周年を記念したもので、緊急の呼びかけなどと異なり、計画的に準備して書かれた大部のある程度教えを総合的に述べた文書であると言ってよい。今回は長いので、折々ごとにコメントを盛り込んでいく。

***

1.導入、フィリピン人家庭の状況

教皇が、家庭が現代、さまざまの危機にさらされている、と指摘していることを取り上げ、フィリピン人の家庭をこの観点から分析している。

フィリピンにおいては家庭になお高い価値が置かれており、家族関係、結婚、子ども、お年寄りを大事にする傾向がみられると称賛する。また1987年憲法が、1973年憲法にはなかった家庭優先(pro-family)、命優先(pro-life)の特徴があり、これが家庭を大事にする価値観(family values)を強力に支援しているとする。

しかし多くの社会状況が家庭を破壊し、ゆがめているという。クリスチャン夫婦、親としての責任を果たすのに欠かせないはずの教会での結婚という秘跡(sacrament)なしに同棲する男女が増えていること、結婚の前にほとんど準備をしなかったり、お互いの価値観を確認しなかったりする場合も多いこと、婚前の妊娠や駆け落ちが当たり前になっていること、海外出稼ぎによって家族がバラバラになり、子どもが犠牲になり、しばしば家庭崩壊に至ることが指摘される。有名人の不倫が結婚における貞節の評価を下げ、ポルノの蔓延は結婚の絆と「性という贈り物の聖性の感覚」(sense of the sacredness of the gift of sexuality)を弱めており、薬物の蔓延も家庭や共同体の安定を揺るがしているという。またいわゆる先進国の現代的な考えなるものがマスメディアを通じて広められ、これが家庭を重んじる価値観をゆがめ「結婚、家庭、人の命を重んじる我々の伝統的な姿勢」(our traditional esteem for marriage, family, and human life)を損ねているという。

そして、現在、「我らの宗教的信仰が理解するところの家庭というものを究極的に破壊するであろうと、我々が固く信じるような提案」を立法府が提案している、とする。離婚を認容し、憲法における中絶禁止条項を削除し、人口抑制政策を強行する諸法案である。また同性愛関係を新たな家庭のあり方として容認すべきとの声もあり、さらに学校において、命と「性という贈り物の聖性」を大切にしない性教育のプログラムが施行されようとしている、と警鐘を鳴らす。

<つぶやき> 前回と同じような話だが、ここにもあるのは、「悪い者は外から来る」という理解。「フィリピン人は元々はいいのだけれど、近代化でだまされて悪くなっている。テレビに欺かれている。有名人の悪い模範に惑わされている。先進国の考えに汚染されてきている…」 だから、法律で守る、という発想になるのだろうか。しかし、昔の人々がそんなに「いい」のなら、そんなに簡単に「堕落」していくであろうか、現状問題がこれほどあるというのなら、実は昔からその問題の根になるようなこともあったと考えられないのであろうか。
 全国展開し、多くの信徒を傘下に持っているはずの教会が本来できるはずのことは、人々の日常に近づき、そこにおいて対話し、仕えることで体質づくりをしていくことであって、問題は法ではないのかもしれない、という、いわば権力や政治的影響力をあまり持たない運動体であれば自然なアプローチが、ここには見えてきにくいようだ。

2 使徒的勧告の教え

これらの現状に対し、教皇の使徒的勧告の導きを求めるべき、とし、①コミュニティ形成、②命への奉仕、③社会の開発に参加すること、④教会の生命と使命遂行にあずかること、の4点を挙げ、以下展開していく。


3 コミュニティを形成し離婚にNoと言う

 マタイによる福音書19章6節を引きつつ、夫婦間の契約としての結婚は解消不能である、とする。夫婦生活の要は「誠実さ」(fidelity)「忠実さ」(faithfulness)であり、神の恵みが働くゆえに困難があっても乗り越えられるとする。この夫婦間の「結び合い」(communion―カトリックの秘跡としてのミサ聖祭にも用いられる言葉)は親子兄弟関係の土台であり、秘跡の受けることにおいて、また聖霊の賜物として、愛という自然な「結び合い」は家庭内の人々をキリストと、そして神の民と結び合わせる、とする。「犠牲、忍耐、許し、和解の大いなる精神を通して初めて家庭内の結び合いは保たれ、完成される、とする。

<つぶやき> もしそうなら、やはり家庭が実際にはうまくいかないケースが少なからず起こってくるのは必然、という結論になるのでは?とつい私は思ってしまう。うまくいかなかったとき、それでも離婚を避けるべきだとするなら、破たんの危機に直面した家族はどうすればよいというのか、そこの処方箋が現状のカトリック教会には欠けているのではないか、という疑念が消えない。


4 生命に仕え、生命に反するメンタリティと政策を拒絶する

第2の働きとして、子どもを産み育てることが挙げられる。ここで掲げられる使命は崇高なものに響く。「人間の生命の本質的な価値、特に自由についての正しい態度、真実な正義の感覚、さらに真実な愛の感覚、ことに貧しい者たちに対する愛の感覚」を教育するように、としている。そして、「明瞭かつ繊細な性教育を施す」ことで、「セクシュアリティにおいて確実に責任ある人格的な成長を遂げさせる道徳規範の知識と尊重の姿勢をもつようにする」べきであるとする。

<つぶやき> 家庭に対するこの現実離れでは、と思わずにいられない讃美、期待の大きさ、過大な要求は、やはり家庭をもたないカトリック聖職者の地に足のつかない演繹的な議論とみるべきか、あるいは現状の問題に教会がどう取り組むか、という難問を回避し、家庭に多くを要求しているということなのだろうか。

5 社会の開発に参加し、教会の生命と使命にあずかる
・社会と教会の刷新

ここでは、「家庭の政治(politics of family)」が提唱される。家庭の日常に存在する(という)「結び合い」と「分かち合い」こそが社会を土台から支えているから、この「家庭の政治」の社会介入を政府は妨げず、むしろ支援すべきである、とする。これは社会を変革することで「結婚という秘跡の徳によってキリスト者夫婦が持つ王者のごとき奉仕の働き」を全うすることであるという。
また、家庭はまた、「イエス・キリストとその教会の三職(預言者、司祭、王)への参加」を家庭内の相互の愛によって表現し現実化するという。そして、カトリック教会内のさまざまな家庭支援のプログラムや組織が紹介されている

<つぶやき>
家庭内の愛が社会を変革する、というのは理念やイメージとしては大変結構なことだが、「結婚」「家庭」が教会と社会の半ば無条件の媒介者として位置付けられているのは、果たして現実的な理解なのか。「秘跡」(つまりは聖職者階級の信徒階級への権威作用)が、結婚に社会変革という軌跡を担ういわば魔力を無条件に与えているような印象を受ける。

・社会正義の促進と貧困の根絶

上記教会の「家庭使徒職」(family apostolate)活動に関わる人々に対して、まず第1に貧困問題に注目するようにと呼びかける。貧困は家庭を破壊するものであり、神のみ心に反するという。貧富格差のはなはだしい中で、われわれはみな社会正義、公共善(common good)の正義を追求すべきであり、国の物品(goods)の公平な分配を要求すべきである、という。
そして、政府に対し、貧困の根絶のために、貧しい人々のための住宅、教育、医療政策に力を入れるよう呼びかける。このような中で汚職は多くの人々に益するはずの信じがたいほどの額の公金をかすめ取る最悪の盗みの罪である、と糾弾する。
ビジネス指導者に対しては、利潤追及を超えた貧困者への配慮、そして雇用創出努力を呼びかける。そしてしばしば引かれる新約聖書、マタイ福音書25章のイエスの言葉「これらの最も小さなものたちにしたのは、私にしたのである」で閉じる。

<つぶやき>
重要な問題ではあると思うが、少なくとも捉え方が貧困家庭の側の視点ではないという印象をもつ。こうした家庭がどのように自立していくのか、当事者は当事者の立場からいろいろ模索しているのだと思うが、そこの評価が抜けたまま、政府とビジネス指導者に呼び掛けるというのは、やはり教会の関心はそのあたりにあるのかな、と思わさせられる。

国がよくなるためには政府と産業界が頑張るべし、というのは勿論一つの分かりやすい、支配的な考えではあると思う。極端な場合、私が知る中では例えばマニラ首都圏オルティガスのグリーンヒルズ・クリスチャン・フェローシップ(GCF)のように、ビジネスマンをターゲットに教会形成し、彼らのような社会において指導力も富もある人々が変われば国全体が変わるはず、という考え方で行くようなやり方すらある。カトリック教会の場合それとは異なるにせよ、やはり、このGCF流のいい方でいえば「戦略的に重要な人々」の動向こそが問題であり大事だ、という発想は共通のものであると思われる。これも一つの考えではあるが、教会のあり方として、これをどう評価するのか、興味深いと思った。

6 家庭の文化を刷新する

もう一つ第2に深刻な問題は家族の浄化(purification)と道徳的刷新(moral renewal)であるという。子どもたちは大人たちの姿、映画、テレビを見て悪い影響を受け、また「物質主義的、世俗主義的なグローバル文化」(a materialistic and secularist global culture)がフィリピン人家庭にひどい影響を及ぼしているという。

他方でフィリピン家庭には元々、自分たちの家庭を偶像化し、その利益のために公共善を犠牲にする悪い側面もあり、これが様々な汚職や私利私欲の原因になるという。

7 家庭を聖性の学校とする

これに対し、家庭はむしろ筋を曲げぬ誠実さ、正義、平和、愛の最初の学びやたるべし、という。2001年の初めて夫婦が列福された(beatified)ことを挙げ、優れた子どもを育てることの素晴らしさ、結婚生活がお互いを聖なるものとすることを表しているという。これは教会の教えなしでは成し遂げられない、という。とくに婚姻の秘跡が結実したのであり、聖餐の犠牲の秘跡によってキリストと教会の愛の結合に連なることで夫婦は養いと力づけを受け、和解の秘跡(告解)により許しと刷新を受けた、といったことが重要であるという。
特に家族一緒に祈り(特に家庭ロザリオ)を唱えることが重要だという。
フィリピンでは祈りにおいて父親が模範もリーダーシップも示さないのが悲劇的であり、父の祈りが特に不可欠である、と強調する。

<つぶやき>
秘跡…どうもこの言葉のカトリック特有の使い方の理解はとても重要であると思う。プロテスタントでは「聖礼典」と呼ばれる(洗礼と聖餐の二つの場合がほとんど‐カトリックは7つ)が、カトリックに比べると重要度が低いといえる。聖書の説教や勉強会、教会形成・運営、メンバー間の交流、伝道集会などのイベントの方が重要となる。カトリックにもこれらの側面はあるが、これらを包摂するのが秘跡であり、教会というもの自体が包括的に「秘跡的なもの」として理解されている。これは単に神からの恵み、という超越的な面だけで理解されているのではなく(これだけならばプロテスタントでも似た理解は可能)、その恵みはキリストが立てた指導者ペトロの正統な後継者であるバチカンとその配下にある司教(そしてその代理者としての司祭)による典礼を通じて注がれるものとされる。
だから、秘跡という言葉と特定の世俗の事象(例えばここでの「家庭」など)が結び付けられると、それらが神の祝福のもとにある、というだけでなく、位階制聖職(教会ヒエラルキー)の監督のもとに置かれている、ということになってしまう。だから、「秘跡」は、単に超越的な「恵み」の概念のもつある種のヘゲモニーのみならず、そのヘゲモニーが具体的な組織によって独占されていることを表すことになる。
これは、もっと考察する価値がありそうだと直感する。
とすると、教会もまた秘跡そのもの、と捉えられているわけで、「教会」という概念も、この視点から改めて考察することもできるのだろうと思う。


8 宣教の焦点としての家庭

家庭は「第一義的で生き生きとした社会の核」であるとともに、「家族的教会」「家における教会」すなわち愛といのちの共同体であるという。
すでに以前取り上げた2001年初頭の「教会刷新に関する全国司牧会議」(national Pastoral Consultation on Church Renewal)では家庭こそ福音化(evangelization)の焦点でなくてはならないとした。教書の当事者である司教たち(「あなた方の司教たちである私たち」(we your Bishops))も改めてフィリピン人の家庭を守り強めることに献身するという。

<つぶやき>
いつものことではあるが、具体策がない。この問題は長期的な課題でありつづけていることを考えれば、繰り返される、「努力を傾けなくてはならない」は、これまでしてきたことを続ければよい、ということを含意しているのだろうか。

結論

結論は、「教皇の勧告を実践しましょう」に尽きる。イエス、マリア、ヨセフの家族の祝福を祈り、最後に「恩寵満てる処女、聖母マリア、家庭の女王、我々がその子どもたちである方」(Blessed Virgin Mother, Mary, whose children we are)がフィリピン人家庭を守り、すべての家庭の救い主である御子イエスに近づけてくださるように、と祈って閉じる。

<つぶやき>
いつも思うこと。カトリックでは、この「聖家族」が「家庭の模範」となっているが、これをどう見るか、ということである。プロテスタントとしてすでにかなりのバイアスのある私としてみれば、(今さらではあるが)どう踏み込むのが適切か、改めて戸惑うが、とりあえずこのメモでは偏見丸出しで突進することにする。

この家族、はっきり言って特殊である。プロテスタントでは、マリアはイエスが生まれるまでは処女だったかもしれないが、そのあと二人は夫婦生活を営み、イエスには弟や妹がいる、という理解になっている。だから、まあイエスの生い立ちは特殊として、そこからあとは普通の家庭とも言える。
ところが、カトリックではそうではなく、マリアは終生処女であったと理解されている。だから、子どもも他にはいない。またマリア自身も通常の人間にあるはずの原罪なくして奇跡的に生まれたという「無原罪の御宿り」という独特の事情も加わる。セックスレスの夫婦のもとにひとりっ子、そして偉大な神の子イエス・キリスト、そして実はこのイエスよりもよっぽど頼りにされていて、この教書でも祈りの仕上げもイエスよりもむしろ彼女にいってしまうほどのカリスマ母にして処女というスーパーウーマンのマリア、そこに所在無げな父ヨセフ。

ごーまんかましてよかですか。

正直、この家庭、どう模範にしたらよいのでしょう?

ごーまんかましたところで、長い長い文章を終わりにします。読んでくれた奇特な方、ありがとうございます。そのような方は、「読みました」だけでもいいので、足跡を残していってくださいませ。

2 件のコメント:

  1. 出張でセブに来て半年になります。
    渡辺と申します。かろうじてプロテスタント教徒です。

    こちらの教会は、お祭りセンターなので、
    まるで日本の神社ではないか、と感じています。

    近代国家の制度では、家族が社会の基本構成単位ですが、
    キリスト教の家庭像を突き詰めると、
    核家族が理想形態だろうと思います。
    ところが、フィリピンでは親戚間の連帯が強いので、
    未婚の母が蔓延しても子育てが破綻しない模様です。
    そういう現実を見ずにキリスト教の理想を説いても、
    信仰や家庭の絆を強めることはできないはずです。

    ところで、アイルランドやポーランドのカトリック教会は、
    英国やソ連の外圧に抵抗する拠点になりましたが、
    フィリピンのカトリック教会は、アメリカ文化に抵抗する拠点に
    なろうとしているのでしょうか?
    戦後日本の知識人が欧州的教養にしがみついたように、
    フィリピンの知識人が、カトリック教会を砦として、
    大衆文化を軽蔑する、なんてことがありそうな気がしますが、
    どうなのでしょう?

    東南アジアの研究者が、キリスト教をキチンと扱わないので、
    フィリピン人の宗教意識をつかめないことが不満です。
    サントニーニョ像のイエスが、なぜ王様の衣装をまとっているのか、
    現地人にたずねましたが、誰も答えてくれません。

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  2. コメントいただきありがとうございます。

    構造的に言えば、「子育てが破綻しない」とも言えるのでしょうけれど、破綻しつつある、あるいは破綻してしまっているケースが増えてきているとも聞きます。

    フィリピンの教会とアメリカ文化の関係はアンビヴァレントなところがあると感じています。代議制民主主義を軸とした政治の見方はかなりアメリカン政治文化と親和性を持っていると思います。またアメリカ的な消費文化への批判はあっても、批判というものは相手に対する関心の裏返しですから、フィリピンにおけるアメリカ文化の影響に過敏になっている面もあって、それはそれでアメリカンだ(つまりアメリカ内部の共同体主義のようなものと通じる)ともいえます。

    カトリック教会と知識人層はかなりつながりが強いです。カトリック教会的な視点からの大衆文化に対する低評価もあると思います。ただ、戦後日本の場合とはかなり背景が異なるのではないかと思います。日本の場合は独立国としての生き残りと帝国としての戦略に知識人の意識は集中してきていたでしょうし、また戦後については、「お国のために」と戦前、戦時中に言論を圧殺された反動もまた重要でしょう。これに対して、フィリピンの親米的な傾向は、植民地支配下での現地特権層の優遇政策の名残という面が強いでしょう。

    東南アジアにおけるキリスト教研究はおっしゃるとおりやや遅れてきましたが、近年開拓されつつあります。東南アジア研究も地域研究として、地域独自のものを調査することが優先されてきましたし、キリスト教はどちらかというと外来のもので、かつ欧米の支配と結び付けて考えられてきたので、ナショナリズムの時代の中では省みられにくかったのです。ところが東南アジア各地でキリスト教会のある程度の定着と世代交代が進む中で、また人類学研究が「純粋な土着の」研究というものの不可能性を自覚するにつれて、ローカルなキリスト教の調査への抵抗も薄れてきたのだと理解しています。

    サントニーニョ像が王様の衣装をまとっている理由は私も知りませんが、その表象から察するにメキシコ、さらにスペインまでさかのぼれるのではないか、と想像しています。皇帝のごときキリスト、というイメージは中世においては自然なものであったことでしょうし。むしろ、その後の展開として、どうして消防士服やら何やらいろいろな衣装のサントニーニョが現れるにいたったのかの方が地域研究としては面白いように思います。この辺は人類学者に聞けば知っているのでは、と思います。

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