2010年3月13日土曜日

BLESSING OR CURSE: CBCP Statement on the Coming 2001 Elections; 24 March 2001

本文は以下のリンクにある。
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2001-election.html

エストラーダ大統領が実質上放逐される形となった2001年はまた、中間選挙の年でもあったことを思い起こさせられる。この声明の出された時は、既にエストラーダ逮捕の報に怒った群衆が、エストラーダ派の政治家の動員によって、エストラーダ放逐運動のシンボルでもあったEDSA大聖堂を占拠し、大統領府に押し掛けて鎮圧されたいわゆる「EDSA3」の熱も冷めやらぬときであった。選挙では、エストラーダの妻が上院議員に立候補して当選するなど親エストラーダ派の健在が示された反面、アロヨ派も一定の勢力を保った。

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声明は最初に、この選挙次第で国の幸不幸が左右される、と宣言する(項目1)。次の聖書の言葉が引用されている。「今日、私(神)はあなたの前に命と死、祝福と呪いを置く」 どちらを選ぶのか問われている、というのである。

その上で、1997年の教書を引きながら、「最近の出来事」は、政治こそが、フィリピンの全面的な発展を阻害している、とし(2)、「政治的な親分子分関係、互酬関係、個人的関係の重要性という破壊的な「ウィルス」がフィリピンの政治文化を毒しており、政治が原理原則や政治家の資質を土台とせず、むしろ金や人気、そして見せかけの約束と言辞を弄して貧民を欺く才にたけていることが政治を動かしている、と断じる(3)。これらの問題は、エストラーダを放逐した2001年の「ピープル・パワー」政変が提起した問題と同じだという。そこから導き出せるのは「政治は道徳の問題と切り離せないし、道徳的原則に忠実でない政治家は指導者たるべからず」ということだという(4)。特に狭い忠誠心や私益を超えて、共通善(common good)を選びとる人間がふさわしいという。つまり肝心なのは、政治指導者が道徳的資質をきちんと備えていることで、選挙ではそういう人を選ぶかどうかで国の未来が左右されるのだ、ということになる(5-6)。

そして政治家にふさわしい資質を列挙する。それは「政治家としての技量(Competence)」「表裏のない良心的な姿勢(Integrity)」「揺るぎない共通善の感覚(An Abiding Sense of the Common Good)」「貧しい人々との連帯(Solidarity with the Poor)」とされる(7)。さらに教会の標語である「神を愛し、人を愛し、国を愛する(maka-Diyos, maka-tao, maka-bayan)」という資質も示される(8)。そして、国の中心的な問題である「平和、正義、開発の諸問題についてきちんと語れることが求められ、これらの問題に対して効果的に取り組める人こそ政治家にふさわしいとする(9)。

最後に選挙監視、選挙教育のNGOへの協力を呼びかけ(10)、神の声を聞いて、目前にある祝福と呪いの中から、祝福を選ぼう、と招く。聖霊と聖母マリアの導きを祈って閉じる(11)。

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選挙によって国の幸と不幸が分けられる、という論調は、教会の教書に一貫して見られるものであるが、これに対してはいくつかの論点が挙げられると思われる。

(1)そもそも、選挙にそこまでの重要性があると言えるのか。選挙がショー的要素やビジネス、利権配分といった面を色濃く帯びざるを得ない社会的背景を考えるとき、たとえ選挙でどういう人が選ばれるかの重要性は否定できないにせよ、フィリピン社会の発展にかかわるのは政策の実施であり、選ばれた政治家と行政機構がどのように住民組織や市民運動と絡み合いながら、どのようにして予算が配分され、施策が決定され、実行されていくのかの過程、そしてそこへの市民参加こそが要となるに違いない。

(2)選挙における具体的な選択肢は、果たして天国と地獄を分けるような性格のものなのか。もちろん、選挙区によっては、どちらを選ぶかが死命を制するような場合もあるだろうが、そもそも立候補者のどの人を選んでも、大枠は変わらない、という現実もあるのではないか。正直なところ、「道徳的な指導者を選びなさい」と教会から言われても、ブラックジョークのように響く場面が多いのではないか、と思わずにいられない。

フィリピンの政治の深刻な現実を知っているはずの教会が、どうしてこういう議論を繰り返してしまうのかまだ釈然としない私がいる。もちろん、聖職者というものは、道徳を語る権威をもつものであり、そこにおいてこそ影響力を誇示できるわけなので、政治に関しても道徳を前面に押し立てることで自らの影響力を示そうとしているのかもしれない。

私の博士論文の中心的なテーマの一つは、教会の政治への参与が、構造的に自らの重要性のアピールにつながっており、その意味では、フィリピン政治の道徳的危機は、フィリピンの道徳指導者を任ずる教会の存在意義を強化するものでもあるという共犯的な構造があるということであったが、ここでもまたそのことが予感されてくる。もっとも、構造としてはともかく、本人たちの意識はそんなにずるがしこいわけではなくて、単純に浮世からずれている、ということにすぎないのかもしれない。

(3)重要性の面でも、また選択の幅の面でも社会的、制度的な限界のあるこの国政選挙(地方選も並行するが)について、国民がどうするかで神が祝福するか呪うかが決まる、というのは神学としてどうなのか、という問いは残るだろう。これはどの程度神の問題なのだろう。またこの選挙はどの程度信仰的決断の問題なのだろう。私は過去の研究で、教会指導者層が、政治参与において国政選挙の場を神聖視してきたことの神学的性格を指摘してきた。

(4)政治家の「資質」の問題については、やはりエストラーダを反面教師とするトーンが端々にうかがわれる。エストラーダ(愛称エラップ)は「貧しい者たちのためのエラップ(Erap para sa mahirap)」として人気を博し、教会の反対と懸念の中で大統領に就任し、最後はスキャンダルで、教会の主流はエストラーダの辞任を要求する動きを決定づけた。特に「貧しい者たちとの連帯」の部分の「この連帯とは貧しい者たちとただ仲良くするとかいうことではなく、公正を追求するよりも支援物資のバラマキによって貧しい者たちの必要を利用することでもない」という部分に、エストラーダへの批判が映し出されている。しかし、教会のいう「貧しい者たちとよく関わり、彼らの必要に気を配り、貧しい者たちを貧困へと縛り付ける政府と社会の諸構造を暴く人である。連帯とは貧しい者たちを優先的に取り扱う愛(love of preference for the poor)である」という美しい言葉は、10年近くを経ていまだに人気のあるエストラーダの存在感を超える現実を生み出すことが今一つできていないのではないか。教会のこの言葉こそここでの言葉を用いるならば、「空虚な約束、空虚なレトリックで貧しい者たちの夢を利用している」(exploit the dreams of the poor through empty promises and empty rhetoric)側面があるのではないか、と問われかねないと思う。

2 件のコメント:

  1. とても勉強になります。ありがとうございます。
    「道徳的な指導者を選びなさい」と教会が言ってしまうところ、選挙管理委員会という既存の制度については一切触れずに選挙監視活動への参加を呼びかけてしまうところが、すでに何かずれているのではないかと、ずっと違和感を覚えていたのですが、このように具体的に「では何がおかしいのか」を説明していただけると、なるほとど思えます。ところで、
    「フィリピン社会の発展にかかわるのは政策の実施であり、選ばれた政治家と行政機構がどのように住民組織や市民運動と絡み合いながら、どのようにして予算が配分され、施策が決定され、実行されていくのかの過程、そしてそこへの市民参加こそが要となる」という点ですが、もしカトリック教会が現実的であるならば、それもまたフィリピンの現実をみればそれこそカトリック教会の力をもってしてもなかなか実現不可能なことであり、「空虚なレトリック」で、空想上の市民社会の夢を(意図的にであれ偶然であれ)利用していることになるのではないでしょうか。

    もうひとつ、本筋からはそれますが、教書の日本語訳を拝見して、そんな風に訳すのかと感嘆させていただきました。前の職場でよく教書やCBCPの声明を訳す仕事があったのですが、フィリピン・カトリックの全体的なコンテクストも教会の言葉も知らない私はうまく訳せずいつも困惑しておりました。

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  2. Sayaさん、このブログの初書き込みです! お読みいただき、恐縮です。確かに、Sayaさんご自身のご研究でも明らかにされている通り、たとえ「参加型民主主義の具現」が目指されるべき目標であったとしても、それは多くの落とし穴や困難をもっており、またそうならないならならないで現実にはどうなっているのか、その中なりにどういう方向で行くのがマシか、ということも取り組むべきことなのだと思います。

    ですから、ご指摘の点、同意いたします。夢を夢として語る分にはまあそれもありと思いますが、少なくとも当面はそう簡単にいくわけもないこと、しかも現場に触れているゆえにいたいほど分かって来ているはずの教会の指導者はそれを重々承知していながら、単純に「やるべし」とか「やります」と言ってしまっている文書は、やはり、好意的にいって空回りしているのでしょう。

    ただ、意図的なのか、偶然なのかは分かりません。また、これはこれから私も勉強せねばならないのですが、バチカンの方針や声明等と連動している面もあるのかどうかということもあると思います。バチカンで教皇が方針を建ててしまうと、そのままローカルに下ろしてきてしまう、というところもありますから。

    翻訳ですが…おほめいただき、恐縮であります。あまたの失敗を踏み越えてやっとここまで来たという感じですね…。曲がりなりにもこの分野でダラダラと長らくやって来ていますので…。今の職場がプロテスタントとはいえ神学部で、カトリック関係の訳書が簡単に手に入るのも強みと言えるかもしれません。教会の牧師もエキュメニカル(教会一致運動)系のつながりがあったりもするのです。

    またぜひ、異論も含め遠慮なく書いていただければ幸いです。

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