2010年3月30日火曜日

THE CHRISTIAN FAMILY: GOOD NEWS FOR THE THIRD MILLENNIUM; 2 December 2002

原文は
http://www.cbcponline.net/documents/2000s/html/2002-4thworldmeetingoffamilies.html

原題は
THE CHRISTIAN FAMILY: GOOD NEWS FOR THE THIRD MILLENNIUM
A Pastoral Statement of the Catholic Bishops' Conference of the Philippines for the Fourth World Meeting of Families

再び「家庭」を主題とした、再び包括性のある声明である。そしてこれもまた、バチカンの動きと関わっている。当時のヨハネ=パウロ2世教皇主催の「第4回世界家族会議(Fourth World Meeting of Families)」がマニラで翌2003年1月22-26日に開催されるに際してこの声明が出されたのであった。

声明は、マニラが選ばれたことを名誉とし、フィリピン人クリスチャン家庭が会議の標語「第三千年紀のための福音(良い知らせ)(Good News for the Third Millennium)」となるようにとの神の呼びかけ(神の召しdivine call)である、とする。

1.家庭についての悪い知らせ(Bad News)
家庭は悪い知らせでもありうるという。特に貧困による極度の圧力、出稼ぎによる家庭崩壊、児童労働、ストリート・チルドレンなどの問題がまず挙げられるが、特に問題にしているのは、「物質主義的で消費主義的な価値観」(materialist and consumerist values)がマスメディアを通じ貧しい人々にまでサブリミナルに刷り込まれ浸透しつつあり、これが「福音の価値観」(Gospel values)に重大なダメージを及ぼしている、という点である。これにより結婚しないで親になるケースが増え、「ケリーダ(愛人)・システム」も容認されてしまっているとする。

特に問題とされているのは、離婚の合法化を目指す法案が繰り返し上程されていることであり、この法案の推進者は離婚を一度容認し、結婚の神聖性の意味が衰退した国ではかつてないほどの社会的・道義的な問題が起こってきたことがわかっていない、という。さらに「選択の自由」「リプロダクティブ・ヘルス」の名の下に中絶を容認したり、ピルを解禁することで違法な中絶の変わりに、実質上「安全な」中絶を提供しようとする動きが世界的にあると警鐘を鳴らす。「女性は自身の体についての権利がある」というそうした人々に対して、教書は「神がわれわれすべてをただ神に仕える者として創造され、われわれは道徳的原則に導かれなくてはならないという宗教的、道徳的現実」を無視していると反論する。

こうして「死の文化」(culture of death)が確立し、生まれる前も含めたすべての人間の尊厳と価値に関する、命、死、愛、結婚、家庭、他社関係についての「福音の価値観」は死に追いやられている、とする。


2.クリスチャン家庭は良い知らせ(Good News)

これに対し、すべての家庭はそもそも神が共におられ、私たちを愛しておられるということのしるしであるとし、特にクリスチャン家庭はミニチュア教会たる「家の教会」(domestic Church)として特に祝福されたものであって、フィリピン社会の進歩に著しく貢献しており、フィリピン人の大半のキリスト教信仰と並び、クリスチャン家族はフィリピン国家にとって神よりの真に最大の贈り物となりうるという。

創世記にあるとおり、家庭は男女の結婚愛の場として神の愛を反映する場であり、新しい命の宿る実り多い場でもあって、子どもはよい知らせであり、結婚のもたらす最上の贈り物であるという。また神の子がマリアとヨセフの家庭にやってくることにより、結婚はいっそう祝されたものとなり、結婚はキリストの秘跡のひとつとなり、ご自身の人間家庭に対する忠実な愛のしるしともなったという。だから結婚に問題が生じやすいことは知りつつも、イエスは「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」と言われたのだ、という。

そしてクリスチャン家庭が「死の文化」と対照的によい知らせであることを再度確認する。

3.使命に生きる家庭:イエスの福音(Good News)を知らせる

クリスチャン家庭の使命はイエス・キリストの福音を生活のあらゆる側面において宣べ伝えることであり、それは第1に愛に満ちた家庭を形成すること、第2に「神の像」(divine image)を人から人へと伝達することで子を産み育て、命に仕えること(特に中絶や政府推奨の人口抑制プログラム、「避妊メンタリティ」を拒絶すること)、そして社会と教会の刷新を支援することであるという。キリストの価値観を子どもの内に形成することは社会全体の変革につながるという。

社会変革のために、諸家庭は、法制度が家庭の権利と義務を支援し、積極的に守るようになるべく、政治的に介入しなくてはならないという。また社会正義を促進し、貧困を除去し、否定的な文化価値によって「損なわれた」(damaged)といわれることもある現在の文化を刷新することに積極的に参加すべきである、という。

そして家庭は教会の刷新の業に参加しなくてはならない、というのも、教会が「正統的な弟子たちの教会、真実な共同体、貧しい者たちの教会、参加的教会、文化に根付いた教会となる」というのが自分たちの教会としてのビジョンであり、この困難なビジョンをリードするのは家庭でなくてはならないからだという。

4.結論:証言する使命を担う家庭

教皇ヨハネ=パウロ2世が、家庭が本来の姿になることを呼びかけたことを想起しつつ、教書は、すべてのカトリック教育機関とすべての小教区に家庭形成のための教育にまい進するよう呼びかけ、最後は聖母マリアのとりなしを祈って終わる。

***

いくつかの点について考察してみる。

1.フィリピン人の大半がクリスチャンで、なおかつ家庭を大事と考える価値観を持っている、というのは実感も含め異論、違和感はない。ただ、それをどの程度、どういう意味で「福音の価値観」と呼ぶのか、またいわば「神の恵み」という鉄壁の強さを持つはずのものによってもたらされているはずのフィリピンのキリスト教化、そして福音の価値観というものが、どうして、どのようにして「物質主義的で消費主義的な価値観」によって掘り崩されているというのか、という内在的な考察がない。では、どういう考えなのか。

「福音の価値観」はアプリオリにフィリピンに存在するものとなっている。これは、過去、現在の教会の働き、教会形成、宣教活動、家族関係のケアなどの主体的な働きについての吟味につながらない。
これに対して、「物質主義・消費主義の価値観」は巧妙にひそかに、権力とマスメディアを通じてこれを掘り崩している。つまりはずるがしこい闇の力であり、かつある種帝国主義的なものとしての含意がある。こうなると、悪いのはそっちだということになり、警戒、非難、そして現状維持(のために家族計画に関するほうを悪魔的なものとし、断固排除すべきものとする声高な姿勢)につながってくる。
しかし、問題が価値観ならば、解決は価値のレベルのことであり、法制度の問題はそれとの関連でこそ考えられるべきなのに、教会として自分たちの現場、足元で、また家庭の現場で、どのような価値観をどう構築してきたか、どうしているのか、どうしていくのかがこの文章でも、また前年の文書でも(今に至るまで)見えない。

2.そもそもカトリック聖職者が、家庭のあり方について云々するときに、いわく言いがたい違和感が残る。もちろん、宗教指導者が家庭のあるべき姿について語るのは別にそれ自体でどうのということではないだろうが、それでも、いくつかの論点を拾うことはできそうである。なによりも、彼らは自分たちで家庭を築かない人たちであることが、ここでいくつかの問いを生じさせるように思える。というのは、彼らこそ、家庭というものの価値を相対化しているのであり、それはキリスト教のより広い伝統にも符合しているといえる。ところが、ここでは家庭が生み出す価値というものが、恐ろしく高く評価されている。そこで二つの方向で問いが出される。

ひとつは単純に、自分たちが主体とならない家庭の問題について、彼らが指導者として模範を見せることもないまま権威の座から語り続けるということの特異性である。結婚しない人が結婚のすばらしさについて、子どもを持たない、家庭を持たない決意をし、誓約をしている人が、子を宿すこと、家庭を築くことの重要性について力説していることは、ある種のねじれと疎外を信徒に与えるのではないか、と思われる。そんなこと言ったってあなたは独身の誓約をし、聖職者になることの特別な祝福を強調しているではないか、そもそも家族を持っていないくせに、家族のことについてわかるのか、口出しする資格があるのか、という問題である。

もうひとつはそのような独身聖職者が妙に結婚や家庭の至上性を強調しているところから来る。やはり結婚しない上座仏教の僧侶は家庭の価値について、ここまで積極的には語らないだろう。家庭も大事だが、出家というもっと大事な価値もある、というであろう。それがここにどうして見当たらないのかと思わずにおれない。キリスト教という宗教の存在感は、家庭よりもむしろ個人の神への献身によって現されてきたはずであり、それはむしろ家庭を相対化するような側面を持っていたはずであろう。家庭が文化を作り、文化が社会を作る、というのは、いかにも構造機能主義的な理解であって、宗教の持つ超越的な側面がぼやけてしまっている。

3.総じて言うと、いつもの話だが、やはりキリスト教社会を保守したい、という願望がよく現れているように思える。その観点からの現状の脅威認識であり、自らのなすべき働きに言及しないままの課題の一般信徒への丸投げである。そうしたことを、教皇の定めた祝祭に合わせる形で上手に纏め上げたこの文書を読んで、残るのは、やはり教会にはこの国について、家庭について、具体的な代替的政策案や方策を提示できていない、という印象ではないか。離婚や中絶の容認と人口抑制計画の推進といった政策の背後には、やむにやまれぬ人々の現実がある。教書は、ここに届いていない。現実を死と呼び、それと結びつかない理想を掲げ、それをフィリピン家庭の本来の姿だといって終わってしまっている。

どうしてこのように、地に足のつかないものになってしまうのか。この「地に足の着かない感じ」は、フィリピン社会において指導的な立場にある人たちの文化を理解する際のひとつの鍵になるのではないかと思うし、その背後にあるものを注視していかないといけないと思わされている。

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